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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
君臣奔走

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鄭国の政治

 先に、家臣の犀充(さいじゅう)から過酒を咎められているという話があったが、今や、かつての家宰であり、兵法の師でもある肥何からも指摘されて、楡子狼は黙り込んでしまった。

 楡子狼にも自覚はあり、これではいけないとも思っている。しかしどうしても、酒を呑まなければ諸事に不都合が生じるのである。


「なので、こちらをお持ちしました。(なつめ)の実と茯苓(ぶくりょう)とをすり砕いたものにございます。これを湯に溶かしてお飲みください」


 楡子狼は、すでに苦汁を呑みほしたような顔をした。というのも、それは実際にかつて楡子狼が寝付けぬ夜に肥何に出されたものであり、飲めばたちまちに眠くなることには違いないのだが、とにかく苦く不味いのである。


「溶かすのは、温めた酒でもかまいませんか?」

「いけません」


 楡子狼の言葉を予測していたかのように、肥何は即答した。それでもなお、楡子狼は孺子のように駄々をこねている。しかも肥何から、これを呑んで寝るときは酒を呑んではならないと言われたので、いっそう難色を示した。


「諦めろ、子狼。その代わり、俺も家では酒は呑まぬ。これから、酒を呑むのはお前が呑むときだけにするから、いい齢をしてこれ以上、醜態を晒すな」


 盧武成にそこまでされては、楡子狼としても断れない。ついに観念したが、飲む前に礼服に着替えたいといって、奥に下がった。つまりは、出廷するための盛装である。


「あれは、本当によく眠れるからな。寝過ごして、だらしない着こなしで鄭伯の前に出るわけにはいかぬ」


 口調は浮薄であるが、こういうところは生真面目な男である。

 そして、楡子狼が着替えを終えて戻ってきたときには、肥何しかいなかった。盧武成はもう帰ってしまっていたのである。


「武成のやつめ、人の家を訪ねておきながら、俺に挨拶もせずに帰ってしまいやがった」

「兄師どのは、明日の朝議に遅れてはいかぬゆえ、帰って妻のいる(しょう)で寝る、と言い残しておられましたよ」

「根に持っているな、あいつめ」


 口では悪態をついて見せたものの、その語気はどこか弱々しい。楡子狼も、これで反省しているのであった。だからこそ、着替えている間に肥何が用意した薬湯を、文句を言わず一息に呑みほしたのである。

 楡子狼は近くの柱にもたれて座りながら、やがて体で舟をこぎはじめた。


「しかし、今日は肥翁が来てくれて助かりました。あのままでは、くだらぬことで武成との間に因縁を残していたかもしれません。仲裁は時の真人(しんじん)と申しますが、まったくその通りですな」


 酔いとはまた違う、胡蝶が舞うようなゆるやかな声であった。真人とは悟りを開いて神仙となった人のことを指し、喧嘩の仲立ちをしてくれる人はそれほどにありがたい、という東地の諺である。


「伯尹は、やはり激務ですかな?」


 子を寝かしつけるような優しい声で、肥何が聞く。霊戍にいた頃から楡子狼の酒好きは有名であったが、度を超すような飲み方はしなかった。酒量が増したのは、鄭国に来て伯尹となったことに起因するのは明らかである。


「まあ、そうですな。鄭伯を輔弼し、良き政治を行いたいという理想はございます。しかしこの若輩には、それを為すだけの経綸(けいりん)の術が伴わぬゆえ、懊悩する日々を過ごしています」


 これまでの生で、兵学にばかり傾倒していた己を、今の楡子狼は愧じている。まったく学んでこなかったわけではないが、足りぬ知識のほうが多く、何よりも実地に乏しい。

 このひと月、盧靂胥から教えを受けるにあたり、一番はじめに言われたのは、


「国を保つ要訣は、公平な裁きと公平な賦役です」


 ということである。もっともであると頷いたが、しかし、それを実現することのなんと難しいことか。それを箴言として胸郭に留め置いてはいても、実際に行うための技量は、今の楡子狼には備わっていなかった。税収などは、姜子蘭の直轄地の他はほとんど各邑主の自由にさせている状況である。揉め事の裁きについても同様であった。

 裁きについては、これが同じ領内のことであればよいのだが、他領の者と諍いが起きると実に厄介である。

 姜子蘭の直轄地の民と、盧武成の領、()の地の民の間で子供同士の喧嘩が起きたことがあった。しかしこの子供たちの親同士というのが、古くから不仲なのである。互いが互いを(そし)りあい、ついには私兵を巻き込んだ争いにまで発展しそうになった。このために、子供の喧嘩の仲裁が朝議の議題に挙がるという珍事が発生したのである。

 そうでなくとも、邑主やその名代たる家臣の職務とは、その大半が領内の治安維持と裁判であった。

 細々としたことであれば家臣の裁量で決められるが、そうにもいかぬこともある。犀充(さいじゅう)が領主たる楡子狼に帰領を求めるのもこれが理由であった。

 しかも、こういった問題があることを了承しつつ、楡子狼には第一義とすることがあった。それは兵制の確立である。

 伯尹でなく軍師としての立場から語るのであれば、兵なき国は墻壁なき豪邸に等しい。まして、北に虞領があり三氏対立の樊国があり、南には茨国という大国がある以上、鄭国も強く鍛えられた兵を持たねばならないのである。

 そういった多忙と思考の複雑さが、楡子狼を過酒に走らせていたのであった。


「本当にそれだけですか?」


 気づかわしげな視線が投げかけられた。眠気に支配されかけた頭で大きく頷く。楡子狼はこの老人に隠し事は出来なかった。


「実は、盧靂胥どのに相を観てもらいまして。そのことが気にかかっている、というのもあります」


 なるほどと肥何は頷く。ただし、具体的なことは聞かなかった。他言せぬよう含めてあるだろうと察したからである。


「靂胥どのですか」


 急に、肥何は顔に戸惑いの色を浮かべた。


「私がかつて吃游(きつゆう)でお会いした靂胥どのは兄師の養父どののご尊父とのことでした。しかし私には――」


 そこまで言いかけた時に、静かな吐息が漏れ聞こえてきた。薬湯の効き目があらわれたらしく、楡子狼は柱にもたれかかったまま眠ってしまっていたのである。それを見た肥何が、言いかけた話の続きをすることはなかった。

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