少女の話 11
ミヤビは自室で、日記を手にしていた。
それは、マガツ区へやってきてから、毎日、欠かすことなく記していた日記だ。
就寝前に時間を設け、一日のことを振り返り、細かに書き込んでいく。今や、習慣となっていた。夕食を終えた後、読書をし、日記をつける。そんな習慣だ。
ミヤビが一日で書き込むのは、決まって一ページだけだった。身の周りで何が起きて、それに自分がどう感じたのか。それらをとにかく書いてみた。
人の手を離れても稼働し続ける精巧な機械仕掛けのように、正確に一日一ページのみ記した。
文章は、説明口調であったり、学術論文を真似た構成であったりした。物語のように仕立て、後で読み返す時に、楽しめるように工夫してもみた。
ミヤビは村にいた頃、それなりに本を読んでいたが、自分で文章を考え、書いたことはなかった。
初めての試みであったわけだ。が、この体験は思いのほか胸が躍った。
ミヤビにしてみれば、人生という道程に輝かしい導ができ、生まれ変わったかのような心地だった。
日記の最初のページを開く。
細い字を指でなぞるようにして、読んでみる。
そこに記されている事柄は、マガツ区にやってきた最初の日のことで、ミヤビの中では、すでに懐かしい過去のものだった。
拙いつくりの文章を読み進めながら、当時の状況を脳裏に再現してみる。
日記は、ミヤビが、眼帯の男に誘拐されたところから始まっていた。
辺境の地にある小さな村から、どういう順路を辿ってか、巡り巡って見知らぬ街へと流れ着く。
不思議な雰囲気のある街では、素敵な人たちと出会う。
そんな状況を、思い浮かべてみる。
すると、脳内にある記憶を保管している箱を丁寧に開ける過程で、ミヤビは違和感を覚えた。
出し抜けに、頭の中で、何かがぽんと弾けた。
白い煙が上がるような、勢いのいい爆発だった。
その爆風は、ミヤビの人格の部分を傷つけはしなかったものの、記憶の一部を吹き飛ばしてしまったようだった。
ミヤビは、日記にある内容を読み取ることはできたが、当時の情景を鮮明に思い出すことができなくなっていたのだ。
ミヤビは、必死に頭を回転させた。
記憶の保管庫を開け、中にあるものを引っ張り出した。眉を寄せて、神経を目元に集中させ、眠っている記憶を呼び起こそうとする。けれど、該当する記憶は見つからなかった。
ならばと思い、それらしい場面を想像してみる。すると、脳内にその図を思い描くことができた。
けれど、ところどころに、もやのようなものがあった。もやは、意図的にではないにしろ、記憶の発掘を明確に妨げている。結局、全体像を把握することは困難だった。
さらには、日記の内容を、自分以外の何者かの人生を記した「物語」なのではないかと疑ってしまった。
これは本当に自分が経験したことなのだろうか、と。
誰かの体験を自分のものと思い込み、記してはいないのだろうか、と。
それは、とても恐ろしい感覚だった。
自分を形成していたものが、実は意味を持たない虚構であって、本当のミヤビというものは、どこにも存在していないのだと、突きつけられたような気分だった。
今、自分がいる場所は現実の世界なのか、幻の世界なのか。その判別がつかない。日記を見返していると、それらが見分けにくくなっていることを思い知らされる。
自分の意識が頭からするりと離れてしまい、知らない別の何かに操作されている不快感があった。人形劇で用いられる糸操り人形に意識があるとしたら、同じような気持ちでいるのだろうか。
ふと、自身の腕や肩から透明の糸が伸びていないか、不安になった。
背後を見上げると、黒い布を被った巨人が器用な手さばきで、命令を送ってきているのではないかとさえ感じる。
自分の意識は、本当に自分のものなのか。
おかしな内容の問いかけで、ミヤビは自問する。
ここにあるのは、完璧なまでに、ミヤビという存在を形成している自己でしかない。わかりきっていることではないか。他者への説明は難しいだろうが、己で認識できることだ。自分は他でもない、自分自身だ。
しかしながら、ともミヤビは思う。
果たして、自分は何をもって自分を定義しているのだろうか。
ミヤビは天井を見つめ、考える。
私は、何をもってしてミヤビなのだろう。
私は、どうしてこれほどにミヤビという存在なのだろう。
私は、いつから自分の存在理由にミヤビを定義付けしたのだろう。
ミヤビは考え続けた。自分の存在について。
考え始めると他のことが目に入らない。昔からの癖だ。
不動のままで、頭だけを動かし続けた。
もはや身体を動かす活力すら、思考のための養分になっていた。脱力感を得て、浮遊感を得て、終いには無力感に満ちていた。指先一つ、動かすことができない状態だった。動こうとも思わなかった。すべてが制止した世界の中で、ミヤビは、自身に発生したエラーの正体を探っていくのだった。
やがて、初めに違和感を覚えたのは、自分の存在意義についてなどではないことに気づいた。
たったの数日前のことを、はるか昔の出来事のように捉えた自分の時間感覚である。そこに異常性を感じたのだ。
そういった結論を出し、ミヤビは制止した世界からの帰還を果たした。
頭と体の筋肉が擬似的にではあるにしろ、しばらくの間、まったく別の生命体かのように乖離していたのだから、世界の認識にズレがあるように感じた。視界が揺れ、日記の文字がぼやけて見えた。しかし、それは一瞬のことだった。やがて、世界は正常に戻った。
あれやこれやと余計なことを考えていたおかげで、頭痛がしてきた。
ミヤビは一度、目を閉じて、心を落ち着けるように十秒ほど頭の中で数えた。それは現実では、十秒よりも長い時間だった。十三秒であり、あるいは二十二秒だった。けれど、彼女にとってみれば紛れもなく、十の時間の間隔を秒単位で刻んだのだ。
そうして目を開け、日記に視線を下ろす。
もう一度、最初のページを見やる。
やはり、記されたこの日の出来事は、遠い昔のことのようだった。
眼帯をした男に攫われたこと。マガツ区という街に流れついたこと。アンリやユウ、ヒロセと出会ったこと。
これらは、本当に自分の記憶なのか。他の誰かの物語を、自分の記憶として認識してしまってはいないだろうか。
ミヤビは日記を閉じる。
いつのまにか乱れていた呼吸を整える。
激しく脳を使い、悩み過ぎるのは自分の性分ではない。
それほど利口でもないのだから、悩むだけ無駄だと、自分に言い聞かせた。
マガツ区での生活の中で得た刺激は、ミヤビの中にあった時間の定義を、いとも容易く覆してしまった。あるいは再構築したのかもしれない。
それは実害を伴う行為ではなく、ただ、自分の考え方の基準と、世界の基準とを擦り合わせるだけの健全な作業だ。
けれど、そのような行いを、ミヤビは生まれて初めて体験した。結果として、自分自身の過去を認知しづらくなり、不安を覚えることに繋がったのだ。そう、解釈した。
たった十日ほど前のことを、はるか昔の出来事のように感じるだなんて。
自分の時間感覚は、いつから狂い始めてしまったのだろうか。
ミヤビは日記を手に、考えを巡らせる。
いや、もしかすると、この感覚が狂ってしまったという考え方自体が、特異なものなのかもしれない。
世界は常に、誰にでも同じように時を刻み続け、私たちはそれを平等に傍受する。そこに違和感はないし、自分もそれを当たり前のものだとして受け止めることができる。広場で時計塔を眺めた時、そう感じたはずだ。
そうだ、時計塔だ。あの時計塔を思い出すといい。
マガツ区の中心に佇む、立派な時計塔だ。
あれは、いつどの時間帯に目にしたって、文句の一つも言うことなく、私たちに世界の時の進み方を知らせてくれている。
そこに謀略はなく、支配的な欲求やら狂気的で妄信的な思考の類はまったく見受けられない。
ただ、時を刻む行為それを役割として、存在しているのだ。
ただ、役割としての、存在。
私も、それに倣うべきなのだろうか。
もう一度、あの時計塔を見に行きたい。ミヤビはそう思った。
「ミヤビちゃん、準備は大丈夫?」
ユウの声に、ミヤビは、はっと我に返る。
あれ、何をしていたんだっけ。
ミヤビは部屋の入り口に視線を移す。すると、廊下側からユウが顔を覗かせていた。
「ユウさん」ミヤビは声を返す。「待たせてしまいましたか?」
「うん?いや、そんなことはないけど、何となく気になったからね」ユウは優しく笑いながら言う。
「出発の準備はできています。私が持っていくものは、この日記くらいしかありませんから」ミヤビは言う。
そうだ。自分は今、出発の準場をしていたところだ。宿の自室で、必要な荷物を選別していたのだ。
「フロウ集会とのいざこざが終わるまで、こっちに戻ってくることはないからね。忘れ物はしないように、よく確認しておいてね」
アモン率いるフロウ集会の過激派から身を隠すため、ミヤビたちは、マガツ区の南エリアへと移ることにした。
アンリたち王都の騎士が、マガツ区を調査するために使用する予定だったセーフハウスがあるらしい。そこを今後の本拠点にするのだ。
共に南エリアへ赴くのは、アンリとドロシーだ。
ユウは北エリアに残り、フロウ集会の対応をするそうだ。明日はフロウ集会の人間との会談もあるわけだし、アモンたちが暴走して、ヒロセの元に襲撃にくる可能性がある以上、迂闊に移動することもできないのだ。
今後は、北エリアではユウが単独で動き、ミヤビ、アンリ、ドロシーらは南エリアで行動する。先の話し合いで、そういう決定がなされたのだった。
悩みの種は、アモンら過激派だった。
彼らがどこまで情報を得ているのかわからないが、ミヤビたちを待ち伏せしていたことから、普段の行動を把握されているとみていいだろう。ならば、目の前から姿を消したミヤビたちを追って、彼らがまず目指すのはヒロセのところのはずだ。
どう接してくるかは不明だが、穏やかな展開にはならないと予想できる。彼らなら本当に、襲撃してくるかもしれない。
ならば、それを凌がなければならない。現状、そういった課題がミヤビたちの中にはあった。
その役目を、ユウが買って出てくれたのだ。
さて、彼らの対処にはユウ一人で大丈夫なのだろうか。
ミヤビは心配になったが、ユウは「あれくらいの連中なら、一人で十分だよ」と、飄々と言ってみせた。ミヤビに対し気を遣ったわけでもなく、去勢を張ったわけでもない言い方だった。
その勇敢さには、頼もしいと思う反面、不安な気持ちも胸の内に生まれていた。
アモン率いる過激派は、危険な雰囲気がある。その思考や行動は、理解し難い負の感情を基につくられている。
アモンたちに囲まれた時のことを思い出す。
連中は、誰かを傷つけることを嬉々として執り行うかのような残虐な笑みを浮かべていた。
子どもがおもちゃを乱暴に扱うように、他者を弄び、攻撃する素振りが彼らにはあった。
それは、彼らが示す明確な悪意だった。その頭と身体には、自分以外のものを侵そうとする意図が、確かな気配として宿っていた。
そして、ミヤビには、その心境が理解できないでいた。
同じ人間であるはずなのに、どうしてこうも考え方が違うのだろうか。
もちろん、世の中の人間たちが皆、同じ考え方をしながら活動しているわけではないことは、ミヤビにもわかっている。この世界に、文化や宗教、戦争が生まれるのは、考え方の多様さによるところがある。
しかし、それにしても、我々を人間たらしめる考え方、あるいは意思のようなものは万国で共通であるのだと信じていた。人それぞれ違うところはあれど、根本の部分は同じなのだと。
それは、ある種、ミヤビの理想でもあった。
すべての人間が同じ思想のもと、助け合い、励まし合い、育み合いながら生きてゆく。
誰もが平穏に暮らしていける世界を願っていた。
だからこそ、アモンたちとの出会いは、ミヤビの思考に揺らぎを生じさせた。
自分の考えにはどこか綻びがある。何かが間違っているかもしれない。そう思わざるを得なくなった。
長年、森を見守ってきた大樹が朽ち、崩れ落ちていくような絶望があった。
それを頼りに生きていた動植物らは、棲家をなくし、生きがいをなくし、路頭に迷うこととなる。
新しい芽が必要だった。けれど、すぐには見つからない。
ミヤビの心は、世界からの疎外感を味わっていた。
ただし、意外にも解決策は身近にあったことに気づく。
朽ち果てた大樹の跡には、一本の新しい真っ白な幹があり、そこには見たこともない空洞が存在していた。
それは空白に満ちた空間であり、空白には「何もない」ことが詰まっていた。
何もないということは、新しい自分をつくることができる。これまでにないことを見つけることができる。
ミヤビはそれを、受け入れることにした。
幹の中にある空洞に入り込み、腰を下ろす。
自分の思考には誤りがあり、あるいはエラーが発生した。ならば、修正を行う必要がある。
それには、大きな代償を伴うことだろう。一度、自分というものを脱ぎ捨てなくてはならない。
既存のものに頼ることはできない。柔軟な発想がいる。今以上の想像力がいる。
並の覚悟で務まることではない。それでも、取り組まなくてはいけない。
世界は、ミヤビが想像しているよりも甘くない。日々、変化を続けている。
変化が必要だ。自分にも何か変わるものが。
考え方を改める時だ。
考え方にも変化を。今以上の。
ミヤビは空洞の中で繰り返し、言った。
「大丈夫?」
近くでユウの声がする。
ミヤビは顔を上げる。
すぐ隣に立っているユウと目が合う。いつのまにそば来ていたのか。ミヤビは気づかなかった。
考えに耽っていた様子を見て、心配してくれたのだろう。大丈夫かと声をかけてくれていた。
ユウの目を見て、ミヤビは口を開く。「私は、大丈夫なんでしょうか」
「自分ではわからない?」ユウは訊ねてくる。
「わかりません」
ミヤビは、自分の声が震えていることに気づく。
どういうわけか、本当の調子で話すことができていないようだ。
発声の仕方を忘れたか。
頭を使いすぎたせいか、未だ思考を繰り返す空洞の中に、意識だけが残っているのかもしれない。
ユウの腕がすっと伸びてきて、ミヤビの手に触れる。
そのまま手を取り、包むようにして優しく握り込んでくれる。
「震えているよ。わかる?」ユウは言う。
「はい。なんとなく」ミヤビは答える。ユウが手に触れてくれたおかげで、自分の身体が、僅かながらではあるが、震えていたことに気がつく。
ミヤビは思う。
あとから気づくことばかりだ。
つまり、今の自分は、あらゆる面で注意が疎かになっているということだ。
何かに気を取られているのかもしれない。深く考え事をしているせいかもしれない。あるいは、思い悩むような出来事に、心を侵食されてしまったのかもしれない。
そうだ。こういった時こそ、誰かに相談するのがいい。
昔は、兄によく質問していた。
会話をすることで、思考の穴に陥る心配もなくなる。
言葉を交わすのだ。とにかく、彼女と会話を。
「わからないことがあります」と、ミヤビは言う。「先ほど出会った、フロウ集会の過激派の皆さんは、どうしてあれほどに」
ミヤビは、ふうと一呼吸おく。
「あれほどに?」と、ユウは訊ねてくる。
「何というのでしょう、まるで怒りのような感情をぶつけてきたのでしょうか」
「彼らが怒っているように見えたの?」
ユウに問いかけられ、ミヤビは思考する。
価値ある問答が始まる予感があった。ミヤビはしばし、このような時間が好きだった。会話の流れがどう転ぶのであれ、だ。
「いえ、あれは、正確には怒りではないのだと思います。そういった感情ではない何か。もっと原始的で、純粋なものなんだと思います」
「ふうん。その感覚は、私にはよくわからないんだけど、ミヤビちゃんには、そう感じたの?」
「はい」ミヤビは答える。「これは、何か誤った感じ方なのでしょうか」
ユウは、ふっと優しげに笑った。
「いやいや、そういうのじゃないよ。合っているとか、間違っているとか、そういうのじゃ。感じ方なんて人それぞれだし。ミヤビちゃんは、いわば多感な年頃だからね。外部からの刺激に影響されやすいんだよ」
「私は、今までずっと、村の中でのみの人間関係で生きてきました。周りにいた人たちはみんな、優しい人ばかりで、私にとても友好的に察してくれていました。けれど今回の場合は、それが災いしたのだと思います」
「災いだなんて大袈裟だよ。ただ初めてのことに驚いただけだと思うよ。誰にでもそういう経験はある。人間は、そうやって心を成長させていくんだから。それに、その感覚は素晴らしいものだと私は思うよ。そういった自分らしさを持っているのってさ」
ユウは言う。ミヤビを励ますように。
「色々な考えをした人がいる。それだけだよ。だから、気にする必要はないよ。ただ目の前で起きていることを受け入れるだけ。そうすると、いくらか気分が楽になると思うよ」
「私はそういった感性で生きていると思っていたのですが」
「確かにミヤビちゃんは、けっこうその節があるよね。ドロシーと初めて会った時も、さほど驚いてなかったって言ってたし。だから今回は、ちょっと珍しいケースだったのかな」
「人間の内面に関する事柄だと、また違うのかもしれません。私は、すべての人間の根底にあるものは、まったく同じなのだと信じていましたから」
「へえ、それは面白い考え方だね。なんというか哲学的っていうのかな?また時間がある時にでも、教えてよ」
ユウは、ミヤビの肩にそっと手を添える。
「とにかく、アモンたちに関して言えば、深く考えなくてもいいんだよ。意味もなく敵意を向けてくるような、そんな人もいる。ただ、それだけなんだからさ」
ユウの言葉に、ミヤビはふと、だだっ広い大地の真ん中に立つ自分の姿を脳裏に浮かべた。
視点は客観的なもので、自分自身の後頭部より少し上の辺りから、見下ろしている。
ミヤビの周りには何もなく、誰もいない。音もない退屈な場所で、ただ、その虚無の広さに惚けていた。
何もない、誰もいない。そんなところで、自分は何をしているのだろうか。
ふと、足元に視線を落とす。
ミヤビがいる場所は、緑も生えない乾燥した地の上で、何かが落ちているわけなんてない。それでも、足元にある何かが気になった。この世界の情景に似合わない、小さな何かだ。
ぽん、と場違いな小気味いい音がする。
何かが生まれた。直感的にそう悟った。今、まさに自分の足元で命が誕生したのだ。
周囲を注意深く探る。
足元に、二又の緑が芽吹いているのを見つけた。




