断片的な記憶 7
「お兄さんは、欲望とは何か、知っていますか」ミヤビが訊ねてくる。
僕は首を振る。
「理性とは何か、知っていますか」
僕は首を振る。
「信仰とは何か、知っていますか」
僕は首を振る。
「私たちは知らないことばかりです。だから、話し合わないといけないんです。助け合っていかないといけないんです。本は知識を与えてくれますが、それが真実である保証はありませんから」
ミヤビは読んでいた絵本を閉じ、言った。
何か思いついたことがあれば、誰かに話したくなるのはいつものことだ。
僕は、自分の考えを積極的に共有しようとする彼女の姿勢を微笑ましく思っていた。
「その物語の中では紛れもない真実であっても、他の物語ではまったくの見当違いかもしれません。真実とは名ばかりで、実際には、その世界でのみ通用する秩序に過ぎないんです」
「ごめん、僕には難しいよ」僕は頭の横を掻いた。「どういう意味?」
「たとえばですけど」と、ミヤビは手にしていた本を机の上に置いた。それから、僕の読んでいた本を指した。
「借りてもいいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
ミヤビは二つの本を机の上に、隣合うようにして並べた。
「お兄さんが読んでいたのは、哲学書ですか」
「そうだよ」
「私はおとぎ話を読んでいました。なかでも子ども向けの絵本ですね。この二つの本の内容は、異なるものだという認識でいいですか」
「実際、まったく違うものだと思うよ」
「そうですね。つまり、これらの本には、それぞれの物語、それぞれの世界があります。そして、その世界ならではの秩序があるわけですから、これらはまったく異なるものとして存在しています。私たち人間が、一人ひとり違うように」
「そうだね」
「そして、世界と世界の間には、壁があります。世界同士がごちゃごちゃに混じらないように」と、ミヤビはポケットから懐中時計を取り出して、二つの本の間に置いた。「これを壁とします」
「うん」
「壁がある限り、二つの世界は一つにはなりません。壁はちょっとしたことでは崩壊しないので、世界はいつも独立して存在しています。人間だって、同じです。他の誰かの真似はできても、完全にその人間になりきることはできませんから」
「えっと、だから、つまり、どこかの世界に属していると、他の世界には関与できないってことかな」
「そこまで大袈裟でないですけど、ただ私は、本で得られる知識だけが、この世界の真実を語るわけではないと思うんです。本の数だけ世界があって、世界の数だけ秩序がある。私たち人間は、物語の間の壁に阻まれることなく、世界を行き来することができますし、壁を持たない自分だけの世界をつくることだってできるはずです」
「じゃあ、理想となるのは、すべての人間が、ひとつの世界で生きることかな」
「そのためには、話し合いや助け合いが不可欠です。みんなが同じ世界の元で、同じ秩序を持っていれば、争いのない平和な世の中になるかもしれませんよね」
「それがミヤビの夢か」
「はい、私の夢です」
ミヤビは嬉しそうに、笑った。
「お兄さん、人間と魔法使いは、仲良くなれるでしょうか」
ミヤビが訊ねてきた。
僕は答えられなかった。
わからない、としか言えない。
「ミヤビは、どう思う?」僕は、ミヤビに訊き返していた。
「ハッピーエンドは好きです。どんなおとぎ話でも。最期は、みんな仲良く、幸せに暮らしました。めでたしめでたし、というのが」




