とある研究者の備忘録(一部抜粋)
朝陽が昇ると、彼らはようやく活動を始める。
おそらく、目がよくないのだろう。ほのかな月明かりだけが視界の導であるような環境下では、極端に動きたがらない。
どうしても必要であれば、鼻先が地面に当たるかほどの低い姿勢で、両の前足を片方ずつゆっくりと伸ばして、それに合わせ後ろ足を交互に動かしながら徘徊してはいる。その様は、祈りを捧げる信奉者のようにも見える。点々と星が輝く紺色の空に太陽が現れ、この世界に自由の光をもたらしてくれるのを、今か今かと心待ちにしているのだろう。
かの獣たちの大移動は、世界に、一日の始まりを告げるものである。
彼らは集団で列を成し、植物や他の野生動物といった障害物を気にする素振りもなく、広大な平原を東に向かって駆ける。
大陸の東にある何かを目指しての大移動なのだろうけれど、毎朝毎朝、決まって山の端から太陽が覗いた途端に、一斉に動き出す。
力がみなぎる輝きを自分たちのものにしたいとでも考えているのだろうか。
まさに、昇った陽の光を追いかけるかのような勢いで、彼らは走る。長い手脚を存分に振るって、かなりの速度で。
その小さな頭や前傾的な姿勢に無理のない身体のつくりも、そうやってスピードを出して走るためのものなのだろう。
つまり、かの獣らにとって、東へ走ることは、単なる運動や暇つぶし、ひいては、世界を照らす大いなる輝きを手中に収めてやろうなどというおこがましい野望からくる行動などではなくて、生物として定められた運命というか、ある意味で存在意義のようなものといえるのかもしれない。
この世界が誕生してから今日に至るまで、彼らの肉体にどのような変化があったのかは知らない。それは、進化というのか。しかし思うに、彼らはその肉体をほとんど変えてはいない。
生まれた時からその身体を持っていて、生まれた時から四足での歩行手段を用いていて、生まれた時から太陽を追いかけるかのような思考ルーチンを宿している。ただそれだけなのだ。
彼らにとって、東へ向かうことが何を意味するのか。観測者たちは常に頭を抱えている。
かの獣らに訊ねてみようにも、言語機能を有していないのか、意思の疎通は望めない。行動以外で、何も語ってくれないのだ。
彼らが生息する平原の東には運河があり、それを渡った先には、くたびれた工場街か、果ての見えない沼地しかない。どちらも、あのような生き物たちが生きていくには不自由しそうな土地である。
もしかすると、どこかで諦めて引き返してきているのかもしれないが、かなしいことに、それを確かめる術が人間にないのもまた事実だ。




