少年の話 7
喫茶店を後にした僕は、診療所を訪れた。
一人で、だ。マガ子さんはいない。何やら頼んでいたものが届くからと、姿を消してしまった。
診療所は、喫茶店から北に、つまりマガツ区の中心部に向かって少し進んだところに、ぽつんとあった。
長方形の白い建物で、狭そうな入り口面にたいして、奥行きのある造りだった。周囲の木造の建物らとは違う建築で、そこはかとない異質感がある。それがそういった様式なのだと言われれば認められなくはないが、何も知らずに見れば、診療所だけがこの街から独立した世界かのようでもあった。ある日、突然、空の彼方からやってきた未確認の飛行物体が不時着して、そのまま居座っている風だ。少なくとも、この一帯が出処ではない、住宅街に並ぶにはあまりに不自然な様相で、僕を待ち構えていた。
入り口の扉を開けると、つんと鼻にささるような花の香りに包まれ、起きたまま夢をみているかのような浮遊感に襲われた。
施設内は明かりが灯されておらず、立地の関係か、昼間であっても不気味に暗い。さらに、一歩、内部へと踏み込むと、頭がぼうっとして、一瞬ながら意識を失いかけた。それは睡魔に襲われたのとは違い、どういうわけか僕の意識のようなものがこの身体を離れようとして、その過程で起きた眩暈のように思えた。
僕の無意識のうちにある意識は、この施設に踏み入ることを拒んでいるということなのだろうか。本能的にか生理的にか、僕の意思の深層にあるものは、この診療所を恐れているらしかった。
それは、診療所に漂うこの奇妙な空気感に由来するものなのかもしれない。
外観だけでなく内観にいたっても、この施設は、僕が知るマガツ区という街には似合わない、異世界からの使者のような顔つきをしていた。
診療所の扉を開けると、そこは異世界へと繋がっていたのです。そんな語り部の声が聞こえてくるかのようだった。
僕はふと、昔読んだ、この世界は同じ空の下にあり、すべて空の下で繋がっているという、子どもが手に取るには、いささか畏まった内容の本のことを思い出した。
世界はたった一つ限りの空間に過ぎず、そこから逸れている世界は架空の世界、すなわち、おとぎ話でしかないと唱えた学者の著作だった。
僕は本の内容について、村長と議論を交わしたことがある。
村長は、この論説を肯定も否定もしなかった。
確かに世界は一つの空の下に成り立っているが、よく見ると、世界はさらに細かく別れており、それぞれが独立して、まるで異なる歴史や秩序、雰囲気や空気を持っているのだと、教えてくれた。
村長の言っていたことに、僕はあまりぴんとこなかったけれど、故郷の村から出て、このような街という集落に訪れてみて、わかった。この街にはこの街特有の雰囲気があって、歴史や秩序があって、それは僕の暮らしていた村とは異なるものであると。マガツ区という街ならではの世界が、存在しているのだと。
この診療所には、マガツ区の世界観とは異なる空気があるように思えた。
「初めまして、ミルラだ」
受付にいた白衣姿の女性は、そう名乗った。
目つきが鋭く、威圧感のある女性だ。それは彼女の生まれ持った容姿というわけではなく、凛とした、冷たいとも取れる突き放すかのような話し方がそう思わせていた。
僕は名乗ったあとで、彼女の案内に従って、診療所の奥へと続く長い廊下を進んだ。まるで、すべてが手筈通りかのようだった。マガ子さんから紹介されたとはいえ、少なくとも、僕は気まぐれでこの場所を訪れたにもかかわらず、ミルラ女医は、僕が来ることを知っていたかに見えた。
彼女は歩くのが速く、僕は何度か早足で追いついた。
やがて案内の終着点である、診察室に入る。
診察室は、想像よりも広い空間だった。そして、想像よりも生活感のある場所だった。
部屋の中心には、背の低い長テーブルを挟んで向かい合う大きなソファがあり、右の壁にはスライド式で開けるクローゼットが埋め込まれている。
左の壁には、何やら小物が丁寧に飾られたショーケースと、大量の専門的な書物を抱える本棚が並んでいる。
その隣、左奥の隅には、さらに奥へと続く別の扉があった。
壁は白色だが、床は仄かに空色で、清潔感のある部屋だが、診察室というのが、患者を通す部屋の認識で正しいのかは自信がなくなってくる。どちらかというと、個人的に利用してる事務室の雰囲気だ。
よくもわるくも、診療所の空気からはまた一つ、独立していた。
しかし、その独立は、僕にわずかながらの高揚をもたらした。
位置的には、外界との連続した関係性がありつつも、実際には、誰にも認知されていない一つの世界だ。
まるで、おとぎ話に登場するような秘密の国みたいじゃないか。僕はこの湧き上がる熱に気を取られ、一瞬、くらりと立ち眩みそうになるほど、この部屋を気に入っていた。
「どうぞ、好きにかけてくれ」
ミルラ女医に促され、僕はソファに腰掛ける。
彼女は向かいのソファに座った。
それから、「いいソファだろう」と、言った。
途端、彼女の態度が柔らかくなったかに思えて、僕は、なぜか胸が軽くなるのを感じた。
「はい。座り心地がとても」と、僕は答える。ソファに座るのは生まれて初めての経験だった。
「職人がいるんだ。専門の。これは、その彼に頼んで、特別につくってもらったものなんだ」
彼女はどこか誇らしげに言い、背中をソファに沈めた。
「さて、君は、どうしてこの診療所に訪れたのかな」
ミルラ女医の赤い瞳が、僕の全身をじっくりととらえていた。一挙手一投足を逃さまいと、気を張っている迫力さえあった。
「マガ子さんが教えてくれました。この街を知るには、魔法使いについてを知るのがいいって。そのためには、研究者に話を聞くか、図書館で本を読むか」
「なるほど」
ミルラ女医は溜め息を吐く。何かを察したか、思いついた様子だった。
「君は、この街の人間じゃないんだよね」
「はい。ここよりずっと東にある、小さな村に住んでいました」
「どうしてこの街に来たのかな」
「成し遂げたいことがあって」
「妹との再会?」
「知っているんですか」
「マガ子さんから聞いた。詳しくは知らない。ただ、君がそう望んでいることは知っている」
ミルラ女医はそう言うと、深く座り直し、腕を組んだ。
「いきなりで申し訳ないけど、君のことを教えてもらえないだろうか」
「僕のことですか」
「君が、どのようにしてこの街に辿り着いたのか。これから何をしようと思っているのかを具体的にね」
「どうやってこの街に来たのかは、僕にもわからないんです」
「そうなんだ」
「はい。気がつくと、この街に来ていました」
それから僕は、「隊長」と名乗る片目に眼帯をした男が、村にやってきた日のことを、彼女に話した。




