少年の話 6
喫茶店内は相変わらず、がらんとしていて静かだった。僕たちが入店して以来、客は誰も来ていない。
僕たちは窓際の席で、話をしていた。
コーヒーカップ一杯で長居する迷惑客になりかけていることには忍びなさを感じていたけれど、マガ子さんはまったく気にしていない様子だった。
「人間の欲望の話をしたけどさ、魔法使いもちょっと変わってるんだよ」
「魔法使いに、欲望はあるんですか」
「あるとも。彼らは人間から変化した生き物なんだから」
「そうですけど」と、小さく僕は言う。
「言いたいことはわかるよ。意思の疎通が不可能な、しかも破壊活動を続けている凶悪な生き物に、はたして望むものがあるのだろうか」
「あるとは思えません」
「明確にはないのかもしれないね。彼らの欲望は、尽きるまで燃え続けているものだから」
それは、熱意で心を燃やしているといったふうな表現の一つなのかと思ったが、そうではないらしい。
けれどやはり、実際に燃えているわけではないので、表現なのかもしれないと、マガ子さんは言った。この話題に興味がなさそうな、かんたんな口調だった。
「少しだけ、説明するね。この世界の欲望について。まず、獣たち。彼らはこの大陸のあらゆる場所に生息している、人間ではない生き物のことだね。欲望は、大まかに一つしか保有していない。そして、人間。獣とはまた異なる生き物だ。さっき言った通り、欲望の扱い方も特殊だし、そもそも欲望を複数、保有している。この世界の生命として珍しい例だ。私は、これを『欲望のカオス』と呼んでる」
「混沌としているってことですか」
「そう。このカオスこそが人間。想像できるでしょう。人間は一つだけじゃなく、いくつかのことを望んでいる」
それは誰だってそうじゃないのか、と思ったけれど、この思考が、人間だからこそなのかもと思い直した。
「で、魔法使いだけど、彼らは欲望が燃えているんだ。アポロニウムから炎の力を与えられているからさ。つまり、欲望は薪なんだよ。それで彼らは、生きるためのエネルギーをつくっている」
その例え方を聞いて、僕にはひっかかるものがあった。
「それは、欲望を少しずつ失っているってことですか」
「その通り」マガ子さんはなぜか嬉しそうに言った。
「そんな状態で生きていられるんですか」
「生きてはいるね。欲望が果てた時、どうなるかは、また別の話だけど」
「どうなるんですか」
「燃え尽きて、もう燃やすための欲望がなくなったら、廃人だよ」
「廃人ですか」と、僕は呟くように言った。
「うん。だって、生きるための欲望がないんだもん。想像できる?人生において、目標がなくなるんだよ。明日を生きるためとか、そんなのじゃなくて、この世界に存在している意味そのものが、自分の中からさ。ね、どうにかなっちゃいそうでしょう」
「わかりません」僕は素直に答えた。
「廃人と化したら、また新たに欲望が生まれない限りは、元に戻るのは難しいの」
「そんなことまで知っているんですか」
「うん」マガ子さんが、ぱっと片手を開く。「私はね、魔法使いを生み出すことができるんだよ」
「は」
「だから、魔法使いについて色々と知っているんだよ」
「それは、つまり」
「ま、そんな反応になるよね」
「なります」
「君からしてみれば、意味がわからないもんね」
「まったく意味がわかりません」
「詳しく話してもいいけど、たぶん、今はまだ混乱するだけだと思うから、また今度にするよ」
「はあ、そうですか」
話をしていて、どうもこのマガ子さんという人物には、夢想癖があるように思えてきた。
一見、学者じみたことを言うけれど、彼女の口から語られるそれは、根底に妄想が一部、介入しているのではと疑わせる内容ばかりだった。
僕の知らない世界の歴史を学ぶ時のような、おとぎ話だとかの不可思議な物語を読む時のような、ふわふわとした気分だ。
自分じゃない自分が知っている物事を、無理やりに認識させられているような違和感が、どうも拭えない。
ここではない異世界——たとえばそれは、就寝時に訪れることができる夢の中の世界のような場所——で経験したことを、現実世界でも当てはまるのだと主張しているように感じて、その様には狂気を感じないでもない。
さらに、そこに何か悪意や思想があるならまだしも、彼女の場合は、それこそが日常なのだと思い込んでいる節があり、物語を読んでいる気分の僕の目には、決して干渉し得ない世界間の境界線を平然と渡ってきた異端児にしか映らないのだ。
「これから色々と見て、回って、学ぶといいよ。ここから西に向かえば、図書館だってあるし。君には、しばらくの猶予があるからね」
「猶予?何のですか」僕は訊ねた。
「時計塔だよ」マガ子さんは窓の外を指さした。「私は、君を時計塔に導くためのナビゲーターだって言ったけど、今すぐにってわけでもないんだ。然るべき時が来るまでは、時計塔にいたとしても意味がない」
「意味がないという意味がわかりません」
「あれ、そういえば、なんで君を時計塔に連れていくかって話、したっけ?」
「願いを叶えにいくって、マガ子さんは」
言ったね、と彼女は笑う。
「願いを叶えるとは言ったけど、じゃあ、今すぐに行って、願いを叶えて、はいおしまいってわけでもないの。時計塔に入ることができる時ってのは決まっててさ」
「それは、今じゃないと」
「うん、まだ入ることはできない。少なくともあと三日は、ね」
その間、僕はこの街で自由に過ごしていいのだという。
時計塔のある中央広場までは、街の端から、徒歩で向かったとして、半日もかからないほどの距離らしい。
「三日後に、時計塔に行くんですね」
「そうだよ」と言い、マガ子さんは立ち上がった。「それまで君は自由だ。また迎えに行くから、ね。この街を好きに見て回るといい」
マガ子さんはそのまま店を去ろうとする。僕は慌てて引き留め、コーヒー代はどうするのだと問いかけた。
すると彼女は、大丈夫、私はマガツ区のマガ子さんだからと、理由にならない理由を言って、手を振った。
その様子を見ていた店主が、僕たちの退店時、何も言ってこなかったので、本当に問題なかったようではある。それも、このマガツ区という街が、マガ子さん曰く、ちょっと変わってるところなのだろうか。それとも僕の考えが、おかしいのだろうか。
彼が魔法使いである——らしい。定かではないけれど——ことも、何か関係しているのだろうか。
しかし、考えても考えても答えが見つかりそうになかったので、僕は大人しくマガ子さんに従い、何も支払わないまま、店を出ることにした。
「一つ、質問してもいいですか」僕は、店先で伸びをしているマガ子さんに、声をかける。
「うん、なに?」
「あと三日、時間があるなら、それまで僕をあの宿屋で軟禁していてもよかったんじゃないですか。それなのに、どうして今日、連れ出したんですか」
「軟禁じゃなくて、待機」
「あと三日、待機させておかなかったのはなぜですか」
彼女は、僕をあの宿屋に閉じ込めていたわけだけども、まだ猶予が三日も残っているうちに迎えに来た理由がわからない。
いっそのこと、時計塔に入ることができる日に迎えに来てくれてもよかったのではないか。と、思わないでもない。
「特に理由はないんだけどね。気が変わったというか、なんというか」
この街のことを知っておいてもらいたいと思ったんだ。そう、マガ子さんは言った。
「僕がこの街から出ていくかもしれないじゃないですか」僕はそんなつもりはまったくなかったけど、言ってみる。
すると、マガ子さんは、「出ないよ、君は。出ていったとしても、戻ってくるでしょ」と、すべて見透かしているかのような目を向けてきた。それこそ、人智を超えた存在を思わせた。
「まるで全部お見通しみたいな言い方ですね」
「この街のことなら、なんでもお見通しなんだよね。マガツ区のマガ子さんだから」
またそれか、と僕は呟く。
理由になってないじゃないか。




