少年の話 5
歩き疲れたから少し休憩しようと、立ち寄った喫茶店は、僕たちの他には客がおらず、静かだった。
こぢんまりとした店だが、大通り沿いにはあるので、それなりに賑わっているのかと思いきや、目立つ場所ほど、人は寄りつかないのかもしれない。
入ってすぐのところにあるカウンター席の向こう側には、店主と思しき男がいた。何やら書き物をしている。
白いシャツの上から黒いエプロンを着用しており、筋肉質な腕が、まくった袖から覗いている。太い眉と高い鼻が目立つ。面長で前髪が短く、口ひげを生やしている。年齢は三十前後に見えた。
そして、これは彼を貶しているわけではなく、あくまで個性として、僕には印象的に映っただけなのだけれど、彼は、生まれてこの方、一度として人の温もりに触れず、暗闇の中で生きてきたかのような真っ黒な瞳をしていた。じっと見つめていると、その瞳に自分の姿が映り、こちらを指さしてきそうな深淵を感じさせる。そんな目をしていた。
男は、僕たちが入店した際に、ちらりとだけ視線をくれたが、それきりで、すぐに手元の作業に戻った。まるで、僕たちに気づいていないかのようだ。
僕とマガ子さんは、店内を奥まで進み、窓際の小さな丸テーブルに向き合う形で座った。
彼女は卓上に両肘をつき、手の上に顎を乗せる。若干、こちら側に身を乗り出す恰好なので、僕の前には、コーヒーカップ一つ置く程度か、腕を組めるほどのスペースもない。
マガ子さんが、店主と思しき男に、コーヒーを二つ注文する。
彼はやはり、ちらりとだけこちらを見て、手元の作業に戻った。
あの様子だと、何年待っても、このテーブルにコーヒーが運ばれてくることはないのではないかと不安になったが、マガ子さんは特に気にしているようでもなかった。
なので、僕も気にしないことにした。そもそも、コーヒーを飲みたい気分でもなかった。
「ねえ、人間と魔法使いの違いって、なんだと思う?」
ふいに、マガ子さんが訊ねてきた。ツインテールの片方の房を、揉むように弄っている。
「なんですか、急に」
「人間と魔法使いが一緒に暮らしているのが不思議なんでしょ?だから、君にとって、二つの生き物はどう違うのかなって」
そう言ってきたマガ子さんの態度は、友人と雑談しているというよりかは、学者が調査をしているかのようであった。それなりの抜け目なさがあり、気軽に答えるのもどうなのかという迷うほどには、真剣だった。
「どう違うって言われても、見た目からして違いますし。魔法使いは、怪物みたいでしょう」
獣の頭蓋骨のような禍々しい頭部、人間より一回りも二回りも大きな身体、溢れ出る熱気、それらすべてが、人間にはない身体的特徴だ。
僕の脳裏には、突如、村を襲ってきた魔法使いの姿が浮かんでいた。
その圧倒的な存在感は、人間がどうやっても敵わない絶対的な強者の貫禄を感じさせた。
これが本当に、元は同じ生き物なのか。
人間という生命の存在していない異界の地からやってきた上位存在にすら見えた。
彼を前にして、恐怖を感じることはない。その余地すらなかった。生命体という括りから外れた、それに該当する言葉があるのかもわからない、大きすぎる存在を前に、感情が湧き上がることはないのだろう。それを痛感させられる存在感だった。
強いて言えば、普段通りと変わらない、朝起きて深呼吸をし、また仕事をして汗をかき、家に帰って食事をして眠るような、日常の何気ない時間を過ごしている時のような心地だった。ひそやかに送る日々の中で、きっかけもなく突然、恐怖の感情が湧き上がらないのと同じように、僕の心は穏やかに変わらないまま、魔法使いを前にしていた。
「じゃあさ、見た目以外には、どう?」マガ子さんは、首をくいと傾ける仕草をしてみせた。
「見た目以外ですか」
「うん。見た目以外」
「ええと」僕は言葉に詰まる。
「思いつかない?」
「彼らは、理性を失っているそうです」
「おとぎ話では、そう伝えられているよね。でも、理性を失っているって、なんで言えるんだろう。意思の疎通が不可能になったから?」
「わかりません。考えたこともないです」
「まあ、そうだよね。おとぎ話でそう語られているから、そう思っていた、としか言えないよね」
「何が言いたいんですか」
マガ子さんは、口の端を上げた。
「君は、人間と魔法使いの違いは、その外見だと言ったよね。確かに、君のよく知る魔法使いの外見は怪物じみていて、とても人間と同じとは思えない。けど、もし外見が人間のものと瓜二つだとしたら。そんな魔法使いが存在するとしたら、他に違いはどこにあるんだろう」
先ほど出会った、シロナガという少女や、薬売りの少年のことを言っているのだろうと察した。
彼女らは、見た目が完璧に人間で、僕の知る魔法使いの要素はどこにもなかった。
ああいった魔法使いが、この街には他にもいるのだろう。
マガツ区は人間と魔法使いが共に暮らす街だと、マガ子さんは言っていた。
「内面的な問題でしょうか」と、僕は言う。
「これは魔法使いに限った話じゃないよ。他の動物と比べてみてもいい。人間と、他の生き物たちとで、明確に異なる点は何だろうか」
「見当もつきません」僕は正直に答える。
すると、マガ子さんは得意げに口の端を上げた。これからサプライズの演出で、何か重大な発表をするかのような、期待と興奮に満ちた表情だ。妹が僕に、サプライズで贈り物をしてくれた時のことを覚えている。彼女もまた、同じような顔をしていた。
「思うに、人間はね、欲望の扱い方が特殊なんだよ。他の生き物たちとは違って」
マガ子さんが言った途端、辺りが急に静かになった。気がした。
元々、騒がしくはなかったけれど、彼女の発した言葉を皮切りに、世界中の音が停止したかのような錯覚を覚えた。体重を預けた椅子が、ぎっと軋む音。窓から見える通りを人々が往く音。自分の呼吸の音すら気にならなくなり、マガ子さんの声だけが、世界には残っていた。
「欲望、ですか」
辺りの音が消えたせいか、僕は、自分がうまく発声できているのかすら、わからなかった。自分の声が自分のものではない気がしていた。
「欲望とは、何かを望む心のことだよ」
「わかります。特殊だというのは、人間だけが?」
「そうだよ。単に欲望の有無だけだと、この世界のあらゆる生命が保有しているだろうけど、それをどう扱うのかまでを考えた時、その異端の例として筆頭になるのは人間だろうからね」
「その『欲望を扱う』という言葉は、どうもしっくりこないですね。今まで生きてきた中で、一度だって、欲望をうまく扱おうとか、今、欲望が扱えてるとか、思ったことなんてないですから」
「意識的なことじゃないんだもん。もっと雑に、曖昧な感じでいいんだよ」
「そう言われても」
会話が続いていることから、自分の思っている通りの言葉を伝えられているのだろうと、僕は予想した。
僕の世界には、相変わらずマガ子さんの音しか存在していないけれど、それはそれで、心地良いとさえ思い始めていた。
マガ子さんが、指をぴっと立てる。「『欲望』っていうのは、生きるために必要なもので、誰もが保有しているものなの。その時々での、ああしたい、こうしたいという簡単な思いとはちょっと違って、もっと根底に潜むような、人生の芯みたいなもの」
「そうなんですね」僕は頷く。
「そして、それはどんな生き物だって一緒。人間だけじゃなくて、獣にも魔法使いにも、欲望はあるんだ」
マガ子さんが、横目でカウンター席の方を見やる。
つられて視線をやると、店主と思しき男がこちらを見ていた。
書き作業を終えたようで、不動のまま僕たちの席の方を向いている。
彼の瞳に、実際に何が映っていたのかは定かではないが、僕とマガ子さんの席を視界にとらえ、会話に耳を傾けているようであった。彼の全活動エネルギーをそれに費やされているかにも見えるほど、まるで生業としている職人であるかのような集中力で、こちらを凝視していたのだ。
小気味悪いなと正面に視線を戻すと、マガ子さんが、にやにやとしていた。「話、続けるよ」と言うので、「お願いします」と僕は頷いた。
「欲望は生きるために必要なものって言ったけどね、人間は少し違うの。生きるための欲望のはずが、それを死ぬために保有する者が存在するんだから」
「死ぬための欲望、ということですか?」
「そう」マガ子さんの目が、きっと細くなる。「自害する生命は、この世界で人間だけなんだよ」
「そうなんですか」僕は感心する。これまで考えたこともない領域の話だった。
「それは、人間が理性を持っているからだと、私は思うんだ。知性を持つ生命は多い。けど、理性までもをセットで保有している生命は、どの宇宙を探してみても人間しかいないんだよ。人間という生き物は、欲望と知性と理性、そこに少しの愛と恥を加えて造られた、混沌の化身なんだよ」
「なんだか、自分が人間じゃないみたいな言い方ですね」
僕は、マガ子さんの顔を見つめる。
彼女の外見は、どこからどう見ても人間である。
けれど、見た目が人間の魔法使いだっているのだ。彼女もそうなのだろうか。
あるいは、その道に通ずる学者や研究者にとっては、自分自身という存在ですら、客観視しているということだろうか。
いずれにせよ、マガ子さんの言動からはどこか人並み外れた——それどころか、人から外れたような——異質性を抱かせられるのは違いない。彼女はその存在そのものが、この街のように、どこまでも不思議なのだ。
あれこれと考えていると、すぐ隣に気配を感じた。
ふっと湧いて出たその気配は、先ほどまでそこになかったはずのものが突然現れた意外性があり、僕は勢いよく首を動かし、顔を向けた。
そこには、店主と思しき男がいた。コーヒーカップの乗った皿を二つ、手にしている。
僕は気恥ずかしくなり——もしかすると、自分の縄張りを守ろうとする獣のような形相をしていたかもしれない——彼がコーヒーをテーブルに置いてくれている間、ずっと顔を伏せていた。
「びっくりした?」マガ子さんは悪戯な笑みを浮かべている。
「足音がしなかったので。あの人、狩人か何かですか」
「いや、一般人だよ」
「ですよね」
僕は再びカウンターの方に視線をやる。店主と思しき男は、奥の厨房へと消えていった。
「見分けつかないでしょ」
「何のですか」
僕はコーヒーカップを両手で丁寧に持ち上げ、口をつける。熱い。舌の上で火事が起きたので、慌ててカップを戻す。
「あの段階までいくと、彼らも、見た目だけは人間と変わりないんだよ」
「彼らというのは」
「もちろん、『魔法使い』たちのことだよ」マガ子さんは笑う。「あの店主だって、そう。彼もまた、魔法使いなんだよ」




