第72話 宿りぬいぐるみ
姉には、幼い頃から片時も離さず大切にしている、1匹の熊のぬいぐるみがあった。
長年可愛がられてきたため全体的に古びてはいるものの、姉の手で実に丁寧に手入れがなされており、どこか温かみを感じる愛らしさがあった。
そんな姉が不妊治療の末に子どもを授かった時、真っ先に言ったのが「このぬいぐるみをお腹の赤ちゃんのお友達にするの」という言葉だった。
初めて母親になる姉の喜びようを、私は傍で微笑ましく見ていた。まだ見ぬ我が子のために可愛いベビー服やおもちゃを熱心に買い揃え、毎日優しくお腹に手を当てては、胎教の音楽を聴かせたり、嬉しそうに話しかけたりしていた。
異変が起きたのは、姉のお腹が大きく膨らみ始めた妊娠後期の頃だ。
姉は、それまでお腹の子に向けていた歪みのない愛情を、急にあのぬいぐるみへと向け始めた。片時も腕から離そうとせず、今までのお腹に語りかけていた言葉を、今はぬいぐるみの耳元へ向かって熱心に囁きかけている。まるで、そのぬいぐるみこそが我が子であるかのように。
「ねぇ、お姉ちゃん。この子、なんだか変じゃない?」
ある日、姉の家に遊びに行った私は、ソファにぽつんと座っているそのぬいぐるみを見て、強烈な違和感に襲われた。
丁寧に洗われていたはずの毛並みは、どこか脂ぎったように薄汚れており、気のせいか、以前見たときよりも一回りほど膨らんでいるように思える。
不審に思って持ち上げてみようとした瞬間、指先から冷たい戦慄が走った。中身は綿だけのはずなのに、妙にずっしりとした肉の重さを感じる。さらに、合成繊維の表面は、まるで水分を含んでいるかのようにしっとりと湿り、生暖かい。
「お姉ちゃん、これ普通じゃないよ! 捨てよう!」
毛細血管を思わせる無数の赤い筋が浮き出た「布地」と、湿った粘膜に覆われた「ガラスの目」に見つめられながら、声を震わせて私は言った。
姉は狂気じみた鋭い視線を私に向けると、ぬいぐるみを私から奪い取るように、愛おしそうに強く抱きしめて言った。
「何を言うの。この子はもうすぐお兄ちゃんになるのよ」
その瞬間、姉の腕の中で、ぬいぐるみの布のお腹が、確かにどくん、と強く脈打った。
出産の日。
激しい陣痛に襲われた姉は、産院のベッドの上でも、皮膚の擦れ合う生々しい音を立てるぬいぐるみを、大きなお腹の上に抱きしめていた。
そして、姉が出産を終え、小さな赤ちゃんがベッドの上に転がり出たとき。
私は確かに目撃してしまった。
産声を上げる赤ん坊の背中に、パッチワークのような痛々しい「縫い目の痕」が、くっきりと刻まれているのを。
姉は、一体何を産み落としたのだろうか。




