第58話 深夜のフェリー
午前2時、本州へ向かう深夜の大型フェリーの展望デッキに、私はひとりで立っていた。
気が付くと、船はすっぽりと、恐ろしいほど濃い海霧に包まれていた。海面も、星空も、何一つ見えない。
水平線も境界線もすべて失った船は、まるで真っ白な虚空の中にぽつんと浮いているような、不気味な浮遊感を漂わせていた。
ただ、乳白色の闇の奥で、船のエンジン音だけが虚しく響き渡っている。
ふと、ポケットの中でスマホが小さく震えた。
画面を見ると、電波は完全に『圏外』と表示されている。それなのに、何故か1通の不審な通知が届いていた。
「なんだこれ……」
呟いた瞬間、静まり返った霧の奥から、奇妙な音が聞こえてきた。
ザ、ザザザッ――。
それは波の音などではなかった。テレビの画面が乱れたときに聞こえるような、無機質なグリッチノイズだ。
驚いて霧の向こうを凝視する。スマホのライトを向けて照らしてみると、白い闇の中に、いくつかの「人影」が立っているような気がした。
不思議な感覚に陥りながら、私は何気なく船べりまで歩み寄り、手すりから海面を見下ろしてみた。
航跡が白く泡立つ海面に、何か妙なものが見える。
先ほどの霧の中の人影と、何か関係があるのだろうか。
スマホのカメラを起動し、海面をいっぱいまで拡大してみる。
そこに映った映像を視認した瞬間、私は呼吸を忘れた。
そこにいたのは、スーツを着た無数の「真っ白い人間」だった。
彼らは霧の立ち込める海の上に、重力に逆らうようにして直立しながら、フェリーの巡行速度に合わせて、ゆっくりと平行移動していた。
さらに不可解なことに、彼らの身体の輪郭は、まるで壊れた映像のノイズのように左右へ激しくブレ続けている。
そして、その真っ白な人間たちは全員が、手にしたスマホの画面の明かりで、自分の霧に溶けそうなくらい白い顔を、下からぼうっと照らし出していたのだ。
その時、私の手の中で、再びスマホが震えた。
通知画面を開くと、そこに表示されたのは、他でもない、自分自身の番号から届いた1通のメッセージだった。
『お疲れ様です。席、空けて待っています』
画面からゆっくりと視線を上げると、海面を滑る霧の中の「彼ら」が、一斉に首をこちらへ向けてきた。
スマホの光に照らされた、その無数の白い顔の中に。
私とまったく同じ顔をしたスーツの男が、ノイズでブレた笑顔を浮かべながら、私に向かって嬉しそうに手を振っているのが、はっきりと見えた。
ここはもう、現実の海ではない。あまりにも濃い霧が、世界の輪郭を失わせ、すべてを曖昧にしてしまった。
ふと足元を見ると、私の靴の先が輪郭を失い、ゆっくりと乳白色の霧と同化して、溶け始めていた。




