第57話 深夜の寝台列車
ずっと憧れていた長距離の寝台列車に乗り込み、私は一人で贅沢な旅情を楽しんでいた。
深夜2時。車内はレールを叩く「ガタゴト、ガタゴト」という規則的な走行音だけが心地よく、ベッドに横たわりながら、ただ何をするわけでもなくぼうっと天井を見つめていた。
やがて、列車が深い森の中へと差し掛かったとき。
「こういう山奥も走るのか」と、ふと窓から外の暗闇を眺めていた、その時だった。
線路のすぐ脇の茂みから、何かが突如として飛び出してくると、この列車完全を追走し始めたのだ。
野生の動物だろうか。
だが、時速100キロは出ているであろう、この列車と同じ速度で走り続けられるような野生動物など、この日本に存在するはずがない。
不審に思い、じっと目を凝らしてその影を見た瞬間、私は恐怖で叫び出しそうになった。
走っていたのは、毛むくじゃらの動物の身体に、生々しい人間の男の顔だけが乗っかった、怪異としか言えないような存在だった。その顔は不気味に口を吊り上げ、四足歩行のまま、凄まじい速度で列車のすぐ隣を並走している。
あまりの恐怖に身体がガタガタと震えるが、どうしても目を離せない。
――だが、直後に私は、視線を外さなかったことをひどく後悔することになった。
突如、化け物の顔が、ぐるりと不自然な角度でこちらを向いた。
――ヤバい。
そう思った時には、すでにガラス越しに完全に目が合っていた。
化け物は吊り上げた口をさらに耳元まで大きく歪ませ、泥に濡れた指先を、窓の向こうの私に向かって真っ直ぐに、突き刺すように指差してきた。
「まさか、この列車の中まで来たりはしないよな」
私は祈るような気持ちでそう呟いた。
しかし次の瞬間、ゴトン!と、列車全体が底からひっくり返るような激しい衝撃が走り、列車が大きく揺れた。
パニックになりながらも、私は個室のドアの鍵が確実に施錠されていることを何度も確認した。そして、ベッドの上で丸くなり、頭から毛布をかぶった。
ここまでは入ってこられない。ここは安全だ。そう自分に必死に言い聞かせながら。
だが、ガタゴト、ガタゴトという走行音に混ざって、頭上の天井から、ト、ト、ト……と、何かが屋根の上を不気味に歩き回るような「足音」が聞こえ始めた。
足音は徐々に下へと降りてきて、個室のすぐ外の通路へと近づいてきた。
バキバキバキッ!と大きな音が鳴る。強固な施錠など最初から存在しなかったかのように、個室の頑丈なドアが無理やりこじ開けられた。
そして、開いた暗闇の隙間から、私のベッドの上へと「何か」が投げ込まれた。
生暖かい液体の感触。
毛布をめくって目をむいた私の前に転がっていたのは、車掌の制服を着たまま、原型を留めていないほどぐちゃぐちゃになった、赤黒い「血塗れの肉の塊」だった。
喉の奥から、声にならない悲鳴が激しく衝いて出る。
逃げ場のない爆走する密室の中。
飛び散った返り血を浴びながら、暗い入り口の前に四足歩行で立ち塞がったあの人間の顔をした化け物が、私の視線の先にいた。




