第56話 深夜の旅客機
海外出張からの帰り、私は羽田行きの深夜便の機内にいた。
消灯時間を過ぎ、周囲の乗客たちは皆、映画を見たり眠りについたりして静まり返っている。
「当機はまもなく、予定されたルートを通過いたします」
機長のアナウンスが響くが、その声はやけに無機質で、不自然なほどに抑揚がない。
ふと奇妙な違和感を覚え、私は窓の外を覗き込んだ。だが、そこには雲海も、星空も、地上の明かりすらも一切存在しない。世界そのものがレンダリングを放棄したかのように、完全なる「無」一色の空間が、どこまでも広がっていた。
怖くなった私は、客室乗務員を呼ぼうと頭上のコールボタンを押した。だが、どれだけ押しても反応しない。電子音さえ鳴らない。
焦って通路を見渡すと、先ほどまで映画を見たり、毛布を被ったりとまちまちだったはずの乗客たちが、今は皆、一様に異様なほど綺麗に背筋を伸ばし、微動だにせず端座している。
私はその顔をよく見ようと、すぐ隣の乗客に視線を遣り、薄暗がりの中で目を凝らした。
そして、その悍ましい輪郭を視認した瞬間、喉の奥が凍りついた。
それは、目も、鼻も、耳もない――ただ歪んだ「笑顔の絵文字」のテクスチャが表面にべったりと貼り付けられただけの、ただの赤黒い肉塊だった。
パニックになる私のポケットの中で、スマホが激しく震えた。
慌てて画面を見ると、真っ赤なエラー文字で、見知らぬシステム通知が届いていた。
『意識を深夜便の仮想空間にアーカイブしました。速やかに肉体をパージする準備を始めてください』
それを見た瞬間、私はフッと軽く笑った。
「なんだ……ただのバグだったのか」
深く安心した私は、スマホを静かにポケットに戻し、座席のシートに深く身体を預けて、そのまま眠りにつこうとした。
だが――意識が途切れる寸前、私の理性の一部が、ハッと気づかせた。
なぜ、私はこんな異常事態の中で、これほどまでに安心して眠ろうとしているのだろうか。
隣には絵文字を貼られた肉塊が座り、明らかに狂った状況なのに。
だが、抗おうとする私の意志とは裏腹に、脳の分泌腺が無理やりセロトニンを過剰に分泌させていく。
「まぁ、いいか。明日の朝には羽田に帰れるだろう」
根拠も何もない、楽観的な考えだけが頭を埋め尽くし、私はそのまま深い、深い眠りへと落ちていった。
だが、翌朝。
羽田空港の広大な管制レーダーの画面には、その深夜便の機影は、映ることはなかった。




