第54話 深夜の温泉旅館
旅の道中、私は山間にある古びた温泉旅館に宿を取った。
格安だけあって建物全体が薄暗く、古さは否めないが、料理の味と源泉かけ流しの温泉は文句のつけようがない素晴らしさだった。
特に夕食の料理は高級旅館にも引けを取らない豪華さで、上質な地元の和牛を使っているのだろうか、様々な肉料理が出され、どれもが言葉にできないほど美味しかった。
食べ終えた後、食器の片付けをしに部屋へやってきた女将さんに「どうしてこんなに安くできるんですか?」と何気なく訊ねてみた。
すると女将さんは、「皆さんにご協力していただいておりますから」と、にこにこと人の良い笑顔で返ってきた。
よく分からない答えだったが、深く考えることもせず、私は大満足で贅沢な食事を終えた。
その後、お酒も入って心地よい気分になった私は、そのまま布団に入り、ぼうっとテレビを眺めているうちに、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
そして深夜。ふと、目が覚めると――。
私の視界に広がっていたのは、朽ち果てて、今にも崩れそうな異様な天井だった。
テレビと電気をつけたまま寝落ちしたはずなのに、室内は完全な静寂と真っ暗闇に包まれていた。というよりも、テレビの画面は乱暴に叩き割られており、蛍光灯は天井の根元から千切れて電線だけが剝き出しになっていた。
確かに古い旅館ではあったが、寝る前まではここまで酷くなかったはずだ。
剥がれ落ちた天井の隙間からは蜘蛛の巣が垂れ下がり、壁の石膏はボロボロに崩れて漆喰がむき出しになっている。綺麗だったはずの布団には、何かの黒ずんだ大きなシミが広がり、大量の土埃に塗れていた。
私は恐怖で慌てて飛び起きた。
暗闇の中に激しく埃が舞い、思わずむせ返ってしまう。
腕を口許に当てながら必死に部屋を飛び出したが、やはり廊下も、数十年間放置されたかのような全く同じ惨状だった。
暗闇の中、スマホのライトだけを頼りにフロントまで向かうが、そこはとても営業中の旅館とは思えない、完全に荒れ果てた「廃墟」だった。
私は生唾を呑み込み、意を決してフロントの奥にある厨房の扉を開いた。
調理場の中は、一段と強烈な腐敗臭が漂っていた。
スマホのライトで照らしてみると、ドロドロに腐りかけた赤黒い肉の塊が、ステンレスの調理台の上にどっさりと放置されていた。
鼻を覆っていても突き上げてくる強烈な悪臭に、激しい吐き気を覚える。
だが、そこで私は、もっと恐ろしい事実に気が付いた。
ライトに照らされたその肉塊には、不自然に欠損した「人間の手足」がくっついていたのだ。
その瞬間、最悪に厭な予感が脳裏をよぎった。
あの時、私が笑顔で美味しいと食べていた、あの豪華な肉料理の正体は。
事実に思い至った瞬間、我慢できないほどの激しい胃の痙攣がこみ上げ、私はたまらずその場に吐き戻した。
床にぶちまけられた胃の内容物の中に、ライトの光で、未消化の人間の皮膚の破片や、黒い毛髪のようなものが混ざっているのが、はっきりと見えた。
胃の中のものをほとんど出し尽くし、涙目で私がゆっくりと顔を上げると。
スマホのライトの逆光を浴びながら、巨大な肉切り包丁を持ったあの女将さんが、暗闇の中にぽつんと立っていた。
"皆さんにご協力していただいておりますから"
女将さんが言ったあの優しい言葉が、壊れたレコーダーのように、私の頭の中で何度も、何度も、繰り返し鳴り響いていた。




