第44話 新訳・テケテケ
冬の深夜、連日の果て無き職務により帰路が遅くなった私は、底冷えする高架下の、暗澹たる夜の帳を歩いていた。
このような夜には、否が応でも、この地に古くから伝わる「或る忌まわしき怪異」の噂を想起してしまう。
浮浪者や夜勤の鉄道員たちの間で囁かれるその怪異は、地面を這う独特の不快な音から「テケテケ」と通称されてきた狂気の存在――或る極寒の夜に、誤って電車に轢かれて下半身を失った女子高生が、その寒さによって切断面の血管が凍り付き、即死を免れてしばらく苦しみに悶え、やがて息絶えたという現代の寓話だ。
だが、理性を尊ぶ私は知っている。それは、あくまでも無知な大衆が好む都市伝説に過ぎないと。まず、肉体の血管が瞬時に凍り付くほどの極寒など現代日本においては気象学的にあり得ず、また、猛烈な速度の列車に激突した肉体は多くの場合、物理的な衝撃によって四散する為、綺麗に両断されることなどあり得ないのだ。現代の蒙昧で愚かな者どもは、その当然の事実にさえ気づいていない。
だが――私が白い息を吐きながら新雪を踏み鳴らしていると、暗闇の奥から、都市伝説に語られている「あの音」が聞こえてきた。
てけ、てけ。てけ、てけ。
まさか、そんなはずはない。おそらく、高架のボルトの緩みか、何か別の物質的な要因があるに違いない。私は自分に言い聞かせた。
だが――音は近づいてくる。
「テケ・テケ、テケ・テケ」
それは、古典的な怪談で語られる幽霊の類よりも、遥かに冒涜的で、名状しがたき悍ましい宇宙的気配を漂わせていた。高架下の空間に、太古の深海を思わせる、腐敗した魚のような悪臭が一気に充満する。
さらにそれが接近するにつれ、「テケリ・リ、テケリ・リ」と、くぐもった女性の声がハッキリと聞こえてくる。
闇の中から這い出てきたそれを見た瞬間、私の貧弱な理性を支える柱は音を立てて崩壊した。
それはセーラー服を纏った女性の上半身から、無数の黒ずんだ触手が、粘液を滴らせながら蠢いている、あまりにも冒涜的な「原初の肉塊」と言わざるを得なかった。
「テケ……テケ……」
再び、その声が響く。また別の怪異が背後から来たのか。
いや、違う。この「テケ、テケ」という、粘液が擦れ合うような不気味な自鳴は、今まさに、私自身の口から漏れ出ているのだ。
気が付けば、私の両手の指は一本残らず肉質が融解し、半透明の粘液性を帯びた触手へと変異していた。それは私の強固な意思を嘲笑うかのように、休む間もなく、湿った蛆虫のように蠢動している。
だが不思議なことに、我が精神はその悍ましき肉体の変異に対して、いささかの嫌悪も恐怖も抱いてはいなかった。それどころか、これは大いなる存在に受け入れられたという、至上の祝福とさえ感じていたのだ。
もはや、私の下半身は完全に原型を失っていた。
衣服を引き裂いて溢れ出た肉質はドロドロに波打ち、無数の触手と、格子状の器官が奇怪にのたうつ、新たな生命の形へと「調律」されていた。
視界が歪み、非ユークリッド幾何学的な狂った世界が広がる。
だが、すでに人間の平庸な理性を失った我が精神は、この哀れな街に顕現したであろう、星々の彼方より来たりし大いなる「何か」を、狂気と共に礼賛せずにはいられなくなっていた。
世界よ、大いなる主を、迎えるがいい。




