第8話 炊き出し作業
翌朝、まだ空気に冷たさが残る時間帯から、私は教会の掃除という役目に取り掛かっていた。これまで屋敷の使用人たちが担っていた作業を、自らの手で行うという経験は初めてに近く、箒の扱い一つを取っても無駄な動きが多いことを自覚させられるたびに、慣れというものの差を否応なく意識させられる。
床を掃き、布で拭き上げ、積もった埃を一つひとつ落としていく。単調で地道な作業のはずなのに、気付けば額にはじわりと汗が滲み、呼吸もわずかに熱を帯びていた。それでも手を止めるつもりはない。この場所で過ごすと決めた以上、どの仕事であれ中途半端にはしたくありませんもの。
一方で、同じ作業をしている孤児たちはというと、疲れを見せるどころか楽しげに笑い合いながら手を動かしており、その軽やかな様子はまるで遊びの延長のようにすら見える。
「こっち終わったー!」
「じゃあ次はあっちだ!」
声を掛け合いながら駆けていく姿に、私は思わず小さく息を吐いた。自分の動きと比べるまでもなく、その手際の良さと慣れた様子は明らかであり、日常として積み重ねてきた時間の差を実感させられる。
額の汗を袖で拭いながら、私は軽く気持ちを切り替える。
「負けてはいられませんわね」
誰に聞かせるでもなくそう呟き、手に持つ布に力を込める。どうせやるのならば、より丁寧に、より美しく。それが料理であれ掃除であれ、私の中での基準は変わらない。
そんな中で、ふと視線の端に気配を感じた。顔を上げずとも分かる、一定の距離から向けられる視線。その方向を意識するまでもなく、誰であるかは察しがつく。
ダガーさんに見られていると気付いているが、私はあえてそちらへ視線を向けることはしない。今は目の前の作業に集中することを優先するべきであり、無理に関わろうとすれば、せっかく保たれている距離すら崩してしまう可能性がある。
そうして掃除を終える頃には、最初に感じていたぎこちなさもいくらか薄れ、体の動きも自然になっていることに気付いた。慣れとは一朝一夕で身につくものではないが、それでも確実に積み重ねられていくものだと実感する。
次に子供たちに連れられ向かったのは、炊き出しの準備が行われる台所だった。そこに足を踏み入れた瞬間、私は思わず足を止める。
並べられた大量の食材。見慣れぬほど大きな鍋。そして、それを扱うための無骨な調理器具。屋敷の厨房とはまた異なる、実用性に特化した空間が広がっていた。
視界に入る一つひとつの要素が新鮮であり、同時に強い興味を引くのと同時に、胸の奥がわずかに高鳴るのを私は感じていた。
「クラリスお姉ちゃん、なんか嬉しそう?」
覗き込んできた孤児の一人。ルネ君の問いに、私は自然と頷いていた。
「ええ、とても」
別に隠す事でもないのでそう答えると、周囲の子供たちが顔を見合わせる。そして不思議そうに首を傾げた。
「料理って楽しいの?」
「そんなにいいもん?」
ルネ君と一緒に首を傾げているのは悪戯ら好きなジャン君だ。真面目そうなルネ君とジャン君は一見、性格が合わないように感じるが、いつも二人でシスターやマリーちゃんとリゼットちゃんに悪戯をして、神父様にこっ酷く怒られていくらい仲が良いらしい。
「ええ、とても素敵なものですわよ」
「えー? でも面倒くさいじゃん」
「だよなー!」
私の返事に口をとがらせながら笑い合うジャン君とルネ君の二人。 そんな二人を見かねたマリーちゃんが横から声を上げると、その隣でリゼットちゃんが控えめに頷いている。
「こら、サボってないで準備してよ!」
ぷんぷんと頬を膨らませる様子と、それに対してどこか気にしていない様子の少年たち。そのやり取りを眺めながら、私は自然と口元を緩めていた。
少し背伸びをしたい姉と、それに甘える弟たち。そんな関係性が、言葉にせずとも伝わってくる。
「んなこと言ってもさー。なあルネ」
「シスターに僕たち料理させてもらえないしー」
口ぶり的に、イタズラ好きな二人に包丁を握ら出たくないシスターが制限をかけているのでしょうか。ですがそれではいつまで経っても、技術も知識もつかないと思うのですが……。
そうだ。良いことを思いつきましたわ。
「二人とも。料理は、きちんと学べば誰でもできるものですわ」
私はそう言って包丁を手に取ると、包丁の重さを確かめ、一度だけ軽く振る。そして迷いなくまな板に置かれた野菜へと刃を入れた。
トン、トン、トン――規則的な音が台所に響く。無駄のない動き。一定のリズム。均一に刻まれていく野菜。その様子に、子供たちの視線が一斉に集まる。
「すごっ……!?」
「はやっ……!?」
「シスターより上手!!」
「大きさが一緒!」
子供たちの素直な感嘆の声に、私は内心で小さく安堵する。長く手を離れていたわけではないが、それでも環境が変われば感覚が鈍る可能性はある。だが、その懸念は杞憂だったようだ。これは馬車でご一緒した騎士の皆様に、料理を一任していただいたことを感謝せねばなりませんわね。
そんな事を考えながら包丁を振るっていると、ふと視線を感じて顔を上げる。その視線の先では、ダガーさんが手を止めてこちらを見ていた。だが目が合った瞬間、彼女はわずかに視線を逸らし、そのまま何事もなかったかのように作業へと戻っていく。
流石にああまで避けられてしまうと、少し悲しい気分になってしまいますわね。でも私はまだ言葉をかけることなく、再び手元へと意識を戻した。
そうして下ごしらえを終えた食材を大鍋へと入れていき、水を張り、火にかけると、やがて静かな泡が立ち始めた。
「こちら、見ていてくださる?」
「任せて!」
「いつもやってるもん!」
私のお願いに、元気よく応じる子供たちに頷き、私は鍋を託す。そして、そのままダガーさんのいる場所へと歩み寄った。
近づいた瞬間、彼女の肩がわずかに強張るのが分かる。それでも私は特に気にした様子を見せることなく、隣に立ち、自然な動作で洗い物に手を伸ばした。
水の流れる音が静かに響く。
私とダガーさんの間に会話はない。だがここで無闇に話しては、沈黙が不快なものであると印象づけてしまうかもしれない。だからあえて言葉を挟むことはせず、ただダガーさんが心を開いてくれるまで静かに作業をする事にした。
静かに洗い物を片付けていると、やがて扉が勢いよく開かれる。
「すみません、少し目を離してしまって――」
扉から慌てた様子で入ってきたシスター・エトワールがそこまで言うと、調理場の様子を見て言葉を止めてしまった。
「……あら?」
視線が整えられた台所を一巡している。
「あんな短時間でもう、ここまで……?」
「皆様が手伝ってくださいましたので」
私がそう答えると、シスターは柔らかく微笑んだ。
「そうですか」
そして、その視線がダガーさんへと向けられる。
「これなら、私が付きっきりでなくても、問題は無さそうですね」
その言葉に、ダガーさんはわずかに不安そうに視線を揺らしながらも、小さく頷く。その反応を見るに言葉にはしていなくとも、少なからず認めてくれていたということでしょうか? 正直、最初は嫌われているのだと思っていましたが、そうでなくて良かったですわ……。
私の心配を他所にシスターは相変わらず優しい微笑みを浮かべながら、ダガーさんも頭を撫でている。
そうして撫でられた瞬間、そのほんの一瞬だけ見せたダガーさんの表情は、先ほどまでの警戒とは異なる柔らかさを帯びており、その変化は言葉にせずとも十分に伝わってくる。
私はその光景を見ながら、自然と呼吸を整えていた。この場所で築かれてきた関係性。その中に流れる温度。やってきたから1日やそこらの私が、今のシスターの様になれるとは思っていません。ですが……。
先ほど見せたダガーさんのしおらしい笑顔を、必ずや引き出してみせますわ!!
「ダガーさん。これからも、よろしくお願いいたしますわ」
私は決意を込めた瞳を向けながらそう告げると、ダガーさんは少しだけ顔を逸らしながら、「……うん」と、小さく呟いた。
シスターはその様子を穏やかに見守りながら、静かに頷いている。
やがて調理が再開される。シスターが加わったことで台所はやや手狭になるが、不思議と窮屈さは感じない。
むしろ、張り詰めた緊張のないこの空間は、屋敷の厨房とは違い、穏やかで余白のある広がりを感じさせる。
しばらくして、鍋の中からは食欲をそそる香りが立ち上った。子供たちのは皆一様にその香りに目を輝かせ、シスターやダガーさんもそのかをりを楽しんでいるように見えた。
私は鍋の中を覗き込み、十分に煮込まれたことを確認すると、私はシスターと共に鍋を持ち上げる。
「……っ、重いですわね」
しかし想定以上の重量に体勢が崩れかける。その瞬間、横からしっかりとした支えが入った。
それはダガーさんだった。
「……ありがとうございますダガーさん」
そう伝えるが、彼女は視線を合わせることなく、「……うん」とだけ小さく返してそのまま顔をそらされてしまった。そんな彼女の姿に私とシスターは顔を見合わせ、軽く微笑みあった。
それから三人で鍋を運び、移動台へと載せて教会の裏口まで運ぶと、その先には朝日立ち込める街の景色が広がっていた。美しい光景に見とれていると、ダガーさんが肩を軽くぶつけてきた。
「……早く行こ。折角の美味しそうな料理が冷めちゃう」
「そ、そうですわね。申し訳ありません」
「……ん」
まだ何も知らないこの土地で、これからどのような光景を目にし、どのような現実と向き合うことになるのかは分からない。それでも、ここで積み重ねていく一つひとつの出来事が、やがて自分の目的へと繋がっていくのだとすれば、この一歩にも確かな意味があるはずだと、私は静かに意識を定める。
そうして私たちは、炊き出しのために街へと歩み出した。
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