第36話 既視感
襲撃事件から数日が過ぎ、教会の見張りは続いていたものの、街の表面には平穏が戻りつつあった。私はといえば、手の傷もすっかり癒え、再び調理場と教会を往復する日々を送っている。料理長は「無理するな」と言いつつも、新しい保存食の試作に付き合わせるあたり、いつも通りだった。
そんなある日、私は行軍粥の改良案を携えて領主邸を訪れた。息抜き器で密封した試作品の保存期間が当初の想定より延びたこと、それに伴って新たに試したい食材の組み合わせがあること——報告すべきことは山ほどあった。
「申し訳ありません、クラリス様。ただいま領主様は、エルドラーク伯爵とお会いになっておられます」
門前でセリーヌさんに呼び止められた私は、聞き慣れない名前に思わず足を止めた。
「エルドラーク伯爵ですか? 初めてお聞きする御方ですわね」
「はい。最近この地方で魔族の活動が活発化している件で、聖光派の騎士がこのマルシェリエに派遣されることになり、その打ち合わせにお見えしたそうなのです」
魔族の活動。聖光派の騎士。そして——エルドラーク伯爵という御方。それらの単語が頭の中でかちりと噛み合うまで、ほんの一瞬だった。
「聖光派……ということは」
「はい。第三王子テオドール様の陣営に連なる方でいらっしゃいます」
胸の奥で、警戒の鐘が静かに鳴り始めた。第三王子陣営の貴族が、よりにもよってこの街に——それも、つい先日起こった襲撃事件の直後に。偶然で済ませるには、あまりにもできすぎている。
「では、またあとで参ります。お邪魔するわけにはいきませんわ」
「申し訳ありません、すぐにお呼びいたしますので」
私は平静を装ってその場を辞し、いったん調理場へと足を向けた。見張りの騎士に軽く会釈をしながら門をくぐる。背後で、セリーヌさんが静かに頭を下げる気配がした。
調理場では、料理長が新しい配合の岩麦を挽いているところだった。石臼の重たい回転音が、いつもなら心地よいのに、今日はどこか遠くに聞こえる。
「どうした、クラリス。難しい顔して」
「いえ、少し考え事を。領主様がご来客中でして」
「来客? 珍しいな。誰だ」
「エルドラーク伯爵と仰る方だそうです。聖光派の関係でいらしているとか」
料理長は挽く手を止めずに「ふうん」とだけ言った。その無関心さがありがたかった。
しばらくしてセリーヌさんが調理場に顔を出し、「お話は終わりました。領主様がお待ちです」と告げる。私は料理長に断って調理場をあとにし、領主邸へと続く廊下を歩いた。石造りの廊下はひんやりとしていて、足音だけがやけに大きく響く。
角を曲がった、そのときだった。
不意に現れた人影と危うくぶつかりそうになり、私はとっさに足を止めた。
「これは失礼」
相手の男性が先に謝罪の言葉を口にした。背の高い、壮年の紳士だった。品の良い仕立ての外套をまとい、銀の混じった髪は丁寧に撫でつけられている。年齢は五十に手が届くかどうか——しかし、その目だけが異様に若々しく、ほとんど不自然なほどに冴え冴えとしていた。整った顔立ちは誰が見ても美形と呼べるものだったが、それ以上に、目の奥にある光が妙に印象に残る。
「これはこれは。もしや、最近この街で面白いお料理を考案されているという、クラリスさんでは?」
「……ご存じなのですか」
「領主様から伺いましてね。戦場で英気を養える粥をお作りになさったとか。素晴らしい発想です。この街の騎士たちも、さぞ心強いでしょう」
男の声はなめらかで、口調は完璧に礼儀正しかった。だが——どこか、教科書を読んでいるようなぎこちなさが混じっている。まるで「好感を持たれる話し方」を学んできたかのような、そういう作為的な滑らかさだった。
「お褒めにあずかり光栄ですわ。これから領主様にご挨拶をと」
「これは引き止めて申し訳ない。どうぞ、お気をつけて」
会釈をしてすれ違おうとした、まさにその瞬間だった。
「……ふむ。実に美しく、懐かしい目だ」
声は、驚くほど静かだった。聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で、けれど確かに、私の耳に届いた。振り返ったときには、男はすでに背を向けて廊下の先へと歩き出している。その足取りには微塵の乱れもなく、まるで今の言葉がなかったかのような自然さだった。
私はしばらくその場に立ち尽くした。懐かしい目——そんなことを、初対面の相手に言うだろうか。それも、去り際に、こちらの返事を待たずに。心臓がほんの少しだけ早鐘を打っている。掴まれたわけでも、脅されたわけでもない。なのに、なぜか——あの目の光が、瞼の裏に張りついて離れなかった。
私は小さく息を吐き、気持ちを切り替えて応接室へと向かった。ノックをして中に入ると、領主様が一人、ソファに腰掛けて窓の外を眺めていた。テーブルの上には二つのカップが置かれ、片方はまだ湯気を立てている。
「お待たせいたしました、領主様」
「おお、クラリス嬢。ちょうど客人が帰ったところだ。すまなかったね、待たせてしまって」
「いえ。それより領主様、先ほどのお客様は——」
「エルドラーク伯爵だ。聖光派の関係者でな。近々、この街に聖光派の騎士が派遣されることになった」
「やはりそうでしたか。先ほど廊下でお会いしました」
「そうか。彼はなかなか話のわかる御仁だったよ。この街の現状にも理解を示してくれた。気持ち悪いほどにな」
領主様の口調はいつも通り穏やかだったが、その目を見ればわかる。それは私が抱いているような疑念の眼差しだった。私は次の言葉を選びながら、慎重に切り出した。
「その派遣というのは、先日起こった襲撃事件と何か関係が?」
「いや、表向きは魔族対策だ。ただ——」
領主様はそこで言葉を切り、カップに手を伸ばした。
「聖光派がこの街に関心を持つ理由が、魔族だけとは思えん。いずれにせよ、彼らが来る以上はこちらも相応の準備をせねばなるまい。クラリス嬢、君にはしばらく、教会の外では必ず誰かと行動を共にするよう勧めるよ」
「……承知しておりますわ」
私はそれ以上深くは問わなかった。領主様もまた、このタイミングでの聖光派の派遣に何かを感じている。そのことだけは、十分に伝わってきたからだ。
◇
領主邸をあとにした私は、教会へ戻る足でシスターを探した。彼女は礼拝堂の掃除をしていたが、私の顔を見るなり手を止め、すぐに奥の部屋へと移動する。
「どうされました、クラリスさん」
「聖光派の騎士が、この街に派遣されるそうです。それも——第三王子陣営の伯爵が、直々に打ち合わせに来ていました」
シスターの眉が、わずかに動いた。
「伯爵……名は?」
「エルドラーク伯爵と。それで——その方と、廊下で偶然お会いしたのですけれど」
私は伯爵との短いやり取りを伝えた。粥を褒められたこと、丁寧な物腰だったこと、そして——去り際に「懐かしい目だ」と言われたこと。
「懐かしい目、ですか……」
シスターが低く呟く。ちょうどそこへ、見回りを終えたレオン様が顔を出した。
「どうした、エトワールさん。難しい顔して。クラリスさんも」
シスターが手短に状況を説明する。レオン様は腕を組み、しばらく黙って聞いていたが、「懐かしい目、ねえ」と眉をひそめた。
「気味の悪い言い方をするもんだな。初対面の修道女に言う台詞か、それは」
「挨拶を交わしただけです。ただそれだけ——でも」
「でも、何か引っかかるんだろ」
私は静かに頷いた。
「あの方の目——何か、妙な感じがしました」
「妙な感じ?」
「うまく言えません。ただ、初めてとは思えないのです。自分でも奇妙だとは思いますが……」
「そいつはまた、不思議な話だな。初めてなのに見覚えがあるなんてな」
レオン様はそう言いながらも、その目は笑っていなかった。
「俺も騎士団の連中に聞いてみるが、表立って探りは入れられない。第三王子陣営の貴族相手に下手な動きをすれば、それこそ言いがかりをつけられる」
「ええ。ですから、まずは静かに様子を見ましょう」
シスターは私に向き直り、有無を言わせぬ口調で言った。
「クラリスさん、しばらくは必ず誰かと一緒に行動してください。教会の中でも、一人になる時間をなるべく減らしましょう」
「……わかりましたわ」
私は素直に頷いた。あの伯爵の目——何が、とは言えない。でも、確かにあの目は、ただの貴族の目ではなかった。まるで、獲物を見定める狩人のような——いいえ、それよりももっと静かで、だからこそ不気味な何かが、あの瞳の奥には潜んでいたように思う。
窓の外では、夕暮れが近づき、街に長い影が伸び始めていた。
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