第32話 路地裏での人助け
ベアトリスさんの店を後にして向かったのは市場の南側。そこは工具や武具を扱う商店が集まる一角となっていた。油や金軸の匂いが漂う一角を進んでいると、私はふと見覚えのある後ろ姿を見つけた。それは鍛冶屋のグリーダさんだ。彼は工具や武具を扱う商店の前で、鋭い目つきで品定めをしているところの様だった。その手には分厚い鉄のヤスリが握られていて、眼鏡をかけた細面の店主と何やら真剣な表情で話し込んでいる。
「おはようございます。グリーダさん」
「ん? おおっ、クラリスさんじゃないか!」
グリーダさんは私の顔を見るなり、それまでの真剣な表情をぱっと崩して、満面の笑みを浮かべた。鍛冶屋らしい、分厚い皮の前掛けと、煤で汚れた作業着姿。普段はかなり威圧感のある姿だが、その笑顔は驚くほどあたたかく人柄の良さを感じる。
「ダガーちゃんが見当たらないってことは、今日は一人か。珍しいな」
「ええ、たまにはゆっくり見て回ろうと思いまして。それよりグリーダさんは何を買っておられるのですか」
「これか? 砥石とヤスリがいい加減へたってきてな。新しいのを探してたんだ。刃物を研ぐのにいい砥石がないかと、ここの店主とあれこれ話してたんだが——」
グリーダさんは手にしたヤスリを店主に返しながら、苦笑いを浮かべた。
「どうもな、うちの求める品質に届くものがなかなかないんだ。鍛冶の仕事は道具が命だからな、妥協できん」
「それは大変ですわね。こちらには色々な種類の砥石があるのですか」
私は店先に並べられた砥石やヤスリ、小さな金槌などを眺めた。どれも職人向けの実用的な品ばかりで、装飾はないが、そのぶん機能性に優れているように見える。店主が「こちらは北の山で採れた砥石で、粒子が細かくて刃の仕上げに最適です」と説明してくれるのを、グリーダさんは腕を組みながら神妙な顔で聞いていた。
「うーん、まあ試しに一つ買ってみるか。だめだったらまた来るからな、店主」
「ええ、いつでもどうぞ。グリーダさんにはいつもお世話になってますから」
グリーダさんは砥石を購入し、それを腰の鞄にしまい込むと、改めて私に向き直った。
「そういえば、例の行軍粥の話、レオンから聞いたぜ。ずいぶん美味いものが出来上がったらしいじゃないか」
レオン様ったら。行軍粥に限らずああいった物は民間人には言いふらすものでは無いと思うのですが……。まあでも、レオン様とグリーダさんがそういう話をしているってことは、二人の仲もそれなりに良くなったということですわよね。だとするならば、それはとても喜ばしいことですわ。
「まあ、レオン様がそんなことを。ありがとうございます。まだ試作の段階ですが、だいぶ形になってきましたの」
「そいつは楽しみだ。今度、試食させてくれよ。鍛冶仕事の合間に食う携行食ってのは、また格別なんだ。腹が減ってるときに、さっと食えて栄養があって、しかも美味い——それだけで一日の仕事が変わるんだ」
「ぜひ召し上がっていただきたいのですけれど、調理場は騎士団の施設ですから、一般の方をご案内するのは難しくて……ただ、いずれ炊き出しのときに、行軍粥に近いものをお出ししようと思っておりますの。そのときにぜひ」
「おっ、炊き出しでか。そいつはいいな。教会の炊き出しは、俺もたまに世話になってるんだ。これでも一人暮らしでな、朝から火を起こすのが面倒な日もあるんでな」
グリーダさんはそう言うと豪快に笑う。鍛冶場の職人方は仕事柄、声が大きくなることが多いので仕方のないことであるが、その笑い声に通りすがりの人がちらりとこちらを見て驚いているのが目に入る。
「では、その日が決まりましたらお知らせしますわ。それまでにグリーダさんが満足していただけるような味に仕上げておきますね」
「おう、約束だぞ! 楽しみにしてるからな!」
グリーダさんはそう言って、私の肩をぽんと叩く。その手は鍛冶職人らしい、分厚くてあたたかい手のひらだった。それから彼は「仕事に戻る」と言って、人混みの中へと消えていった。その背中を見送りながら、私は自然と口元がほころぶのを感じていた。
◇
市場を一通り回り終えた私は、教会への帰路についた。籠の中には紫詰や山紫蘇、炊き出し用の乾燥肉。それにマルタからおまけにもらった新鮮な葉野菜。そしてベアトリスさんの店で買った包帯や蝋燭、裁縫道具が入っている。今日は新しい食材との出会いがいくつもあって、料理のレパートリーを広げる良い機会になった。
紫詰は粥に入れてみましょうか。この山紫蘇は行軍粥の風味づけに使えるか料理長に相談してみよう。そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか教会への大通りから逸れて、細い路地へと入り込んでいた。
「あら、私ったら曲がる道を間違えてしまいましたわ。それにしても街にも、このような場所があったのね……」
その路地は驚くほど静かだった。石畳の隙間から伸びた雑草が朝露に濡れ、両側の壁には古びた蔦が這っている。人通りはほとんどなく、自分の足音だけがやけに大きく響いていた。それに壁に遮られて陽の光も届きにくいのか、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。
路地の半ばまで差し掛かったとき、私はふと足を止めた。
「あれは……誰か倒れている?」
視線の先には痩せた体を丸めるようにして、男がうずくまっていた。外套はぼろぼろで、色褪せたフードを深くかぶっている。壁に手をつき、もう一方の手で脇腹を押さえていた。その指の隙間から、うっすらと赤いものが滲んでいる。
「あ、あの大丈夫ですか?」
私の問いかけが聞きとれなかったからか、男はまったく答える素振りを見せない。しかしフードの下から覗く目だけが、警戒と困惑を宿して揺れていた。
そして痛みを堪えるような短い息遣いが、静かな路地に微かに響く。次第に抑えたてから赤い液体が滴り始める。
「あなた怪我をしているのですか!? 傷を見せてくださいまし!!」
私が近づいて手に触れると、男性は「……かまうな」と呟き私の手をはねのけた。その時見えた傷はまるで、鋭利な刃物に切り裂かれたような跡だった。このまま放っておけば、出血がひどくなる一方。
——ソフィがいてくれたら、これくらいの傷なら治せるのに。
一瞬そう思ったが、今はそんなことを言っている場合ではない。何より本人がそれを望んでいないのだ。どういった理由かはわからない。しかし私がこの街に来た時と同様に、後ろめたい過去があるのだと瞬時に理解する。
「な、なにをして―――」
「喋らないで。貴方が何者で、何をしでかしたのかは知りません。興味もありませんわ。ですが私の眼の前で、むざむざと死んでいく姿だけは、たとえ見知らぬ犯罪者であろうと見たくありません」
私は、ついさっきベアトリスさんの店で買ったばかりの包帯の束を籠から取り出し、封を切った。真新しい麻の布が、すっと手の中でほどける。
「くっ……」
男は痛みに呻きながら、ただ包帯を巻かれている。フードの下の目が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。私はさらに、帰り際に買った干し肉の小袋を彼の足元にそっと置いた。血を失った体には、少しでも滋養のあるものが良いと思ったのから。本来ならもっと食べやすいものがベストだが……この方はどうでしょうか?
「……手に力が入りませんか」
「……そう、だな」
男は力なうなだれると、震える手のまま小袋をこちらの籠に戻す。
「手当してもらってなんだが、もう放っておいてくれ。それが俺にとって一番―――むぐっ!?」
私はまるで生きるのを諦めたかのように笑う彼の顎を掴む。そして袋から出した干し肉を、小さく食いちぎって咀嚼―――そのまま彼の喉に流し込む。
「ぷはっ……貴方の意見なんて、関係ありませんわ!!」
「お、おま、なにをしてるのか分かっているの―――むぐっ!?」
私は口を抑える男性の腕を払い、もう一度干し肉を咀嚼して、そのまま彼の口に移す。彼も最初こそ抵抗しようとするが、弱った彼の力ではか弱い私の力ですら抑え込めてしまう。次第に諦めたかのように、なされるがままとなってしまう。
まったく、何をしているかですって?
「ぷはっ……そんなの決まっています。人助けですわ!!」
「人助け……?」
「そうですわ。先程も言いましたが、貴方が何者かなんてどうでもいい。ただ私が貴方を助けたいからそうしている。それだけですわ」
「それはまた、随分とお転婆で、はた迷惑なお嬢さんだな……」
「ふふ、昔からよく言われてましたわ」
そう言いながら乾燥肉を1枚消費した所で、困惑する男性を無視して静かに包帯を巻き付ける。たまに痛みからか男性のうめき声が聞こえてくるが、力を緩めることはせずに固定する。ここで雑に巻いてしまうと、折角の包帯の意味がなくなってしまう。
「さて、その包帯は止血の薬草が擦り込まれていますわ。ですが無理はなさらないでくださいね。血は止めれても開いた傷までは塞ぎきれませんので。それから教会はすぐ近くです。辛くなったら、いつでもいらしてください。私はいつまでもお待ちしておりますわ」
男は顔を上げると、ほんの一瞬だけ私の顔をまっすぐに見た。その目はどこか飢えた獣のようでありながら、深い後悔の色を滲ませている。長い沈黙の後、かすれた声が路地に落ちた。
「……すまない。この恩は忘れん」
彼が口を開いたのはそれが最後だった。私はそれ以上何も言わず、静かにその場を立ち去る。路地を曲がる間際、ちらりと振り返ると、男は脇腹に巻きつけた包帯を触って、何かを考えるようにうつむいていた。朝の光が差し込む路地に、その痩せた影が長く伸びている。
私は足を速めて教会への道を戻った。胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残っている。あの男の目——拒絶と後悔の奥に、ほんの少しだけ、助けを求める光が潜んでいたような気がしたからだ。
教会に戻り、買ってきた食材や備品を棚に運びながら、私は紫詰や山紫蘇の香りを思い返した。新しい食材との出会いは、いつも私の心を躍らせる。けれど、それと同時に、あの路地裏の男の目が頭から離れなかった。
あの人は、何と戦っているのだろう。誰に傷つけられ、どこへ行こうとしているのだろう。
私はエプロンを締め直しながら、小さく息を吐く。今は、私にできることをしよう。買ってきた食材で、子供たちに美味しい朝食を作ること。それが今の私の役目だ。けれど——もし、あの人が本当に助けを必要としているのなら、いつかまた会える日が来るだろうか。
そんなことを考えながら私は朝の厨房に立って、先程の行いに顔を赤らめるのだった。
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