第31話 たまの休日
早朝のスカナベ市場は、昼の賑わいとはまた違った顔を見せていた。まだ客足はまばらで、店主たちは店先に商品を並べたり、帳簿をつけたり、あるいは隣の店主と世間話に興じたりと、それぞれの朝の支度に追われている。石畳は夜の間に降りた露でしっとりと濡れていて、朝日を反射してかすかにきらめいていた。空気はひんやりと澄んでいるが、市場のあちこちから立ちのぼる湯気——おそらく出来たてのスープや蒸しまんじゅうを売る屋台のものだろう——が、通りにほのかなあたたかさを添えている。
私は今日、教会の買い出しを一手に引き受けていた。シスターが「たまには一人でゆっくり見て回っても良いですよ。買い物も包帯だけ買ってきてくだされば良いので」と言ってくれたのだ。最近はずっとダガーさんかソフィと一緒だったから、こうして一人で市場を歩くのは久しぶりだった。籠を片手に、私はまず野菜を扱う店へと足を向ける。
市場の中央通りを少し進むと、右手に色鮮やかな野菜の店がいくつも見えてきた。店先には色とりどりの野菜が所狭しと並んでいる。土のついたままの根菜、朝採れたばかりの瑞々しい葉野菜、籠に山盛りにされた豆類。どれもついさっきまで畑にあったのだろうと思わせるほど生き生きとしていて、葉の先についた朝露が陽の光を受けて宝石のように輝いている。
「おや、クラリスさんじゃないか。今日は一人かい」
そんなか、見覚えのある店主が、私に気づいて声をかけてきた。名をマルタと言い、この市場で二十年以上も野菜を売り続けているベテランだ。彼女はいつも明るく、気前が良いので、私も買い出しのたびに贔屓にしている。
「ええ、今日は一人でゆっくり見せていただこうと思いまして。いつもは誰かと一緒ですから、こうして自分のペースで回るのも久しぶりなのですわ」
「そうかい、そりゃ良かった。ゆっくり見てっておくれ。そうだ、今日はね、珍しいものが入ってるんだよ。ほら、これ」
彼女が店の奥から差し出したのは、薄紫色の小さな根菜だった。親指ほどの太さで、表面はつるりとしていて、陽の光を受けて貝殻のようにほのかに輝いている。私は手に取ってしげしげと眺めた。ずっしりとしていて、見かけよりも重たい。指の腹でこすり合わせると、表面がほんの少しひんやりと濡れているように感じた。
「これは……初めて見ますわ。なんという名前なのでしょう」
「紫詰って言ってね、山間の湿地にしか生えない希少なものなんだ。刻んで粥に入れると、美味しいんだよ」
マルタさんはそう言いながら、胸の前で鍋をかき混ぜる動作をしている。
「まあ、それは面白そうですわね。どんな味わいなのですか」
「うーん、そうだねえ。生のままかじると、ほんのり甘くて、舌がちょっとしびれるような感じがあるんだ。でも火を通すとしびれは消えるかわりに、なんともいえない深くて甘い香りが際立つって感じだね」
「舌がしびれる……それは痺椒葉に少し似ていますわね」
「ああ、あの香草かい。たしかに似てるかもね。でも紫詰は痺椒葉ほど刺激は強くないから、子供でも食べられるよ」
なるほど、それはありがたい。孤児院の子供たちに出す粥に使うなら、刺激が強すぎない方が良い。私は紫詰をいくつか手に取り、傷やしなびた部分がないか丁寧に確かめた。薄紫色の表面はつるりとしていて、指の腹でなぞるとほんのり冷たく、土の香りがかすかに残っている。陽の光にかざすと、皮の下に詰まった果肉が透けて見えるようだった。教会の子供たちが、この紫詰の入った粥を美味しそうに啜る姿が目に浮かぶ。
「ひとつ、試してみてもよろしいかしら。教会の子供たちにも食べさせてみたいのです」
「もちろんだよ。子供たちにねえ……じゃあ、もっと持ってきな。はい、おまけしておくね」
「そ、そんなに貰えませんわっ!?」
マルタはそう言って、私の籠にもう五つ、紫詰を放り込んでくれた。籠の中で紫詰がごろりと転がり、先ほど買ったばかりの山紫蘇の紙包みの上にのしかかる。私はあわてて財布を取り出そうとしたが、彼女は手をひらひらと振った。
「いいのいいの。教会の子供たちにはいつも世話になってるからね。それにクラリスさん、あなたがこの野菜の美味しさを広めてくれれば消費量も増えて、より多く入荷することも出来る。勿論安価にね」
「私はただ、美味しいと思う料理を作っているだけで、そんな皆さんがこぞって買いに来るほどの影響力は……」
私がそう言いかけると、マルタはますます声を上げて笑った。
「あっははは。何いってんだい。クラリスさんが来てから、街じゃ味わえなかった料理が増えてみんな喜んでるんだよ」
「そうなのですか?」
「ああ、そのお陰でアタシらも、紫詰みたいな遠い土地の食材を、良い質で仕入れられるようになってきたからね。これもクラリスさんが新しい料理をどんどん生み出して、この街の食を豊かにしてくれたおかげさ」
マルタはそう言うと、店先に並べた野菜をひとつ手に取り、しげしげと眺めた。
「今回のおまけは、これまでのクラリスさんへのお礼も兼ねてるんだ。だから気にしないでいいよクラリスさん」
私は籠の中の紫詰を見つめながら、胸の奥があたたかくなるのを感じた。自分がこの街に来てから積み重ねてきたもの——行軍粥の試作、炊き出しでの献立、調理場での料理長との勝負——それらが確かに誰かの役に立っていて、こうして顔なじみの店主の言葉になって返ってくる。そんな実感が、じんわりと心に沁みていく。
「本当にありがとうございます、マルタさん。今後も皆様に満足してもらえるよう誠心誠意、料理を続けていきますわ!!」
「あっははは。その物言いじゃあアンタ。修道女じゃなくて料理人じゃないかい!」
「あら、たしかにそうですわね。うっかりしてましたわ。うふふ」
私は自分の言葉に気づいて、思わず吹き出してしまった。マルタもまた、腹を抱えて笑っている。それから私は代金を支払い、紫詰の入った籠を大事に抱えて店をあとにした。振り返ると、マルタはもう次の客を捕まえて、陽気に話し込んでいる。なんともたくましい商人根性だ。その笑い声を背中に聞きながら、私は次の店へと足を向けた。
◇
しばらく歩いていると、香辛料の店の前を通りかかる。そこでは店主の老爺が店先で、大きな麻袋を広げているところだった。中からは乾燥させた香草の束がいくつも取り出されていて、あたりにはすがすがしい青い香りが漂っている。老爺はひとつひとつの束を手に取り、傷んだ葉がないかを確認してから、棚に並べていく。その手つきはゆっくりとしているが、迷いがなくスパイスの良し悪しを瞬時に判断している。いわゆる玄人の成せる技といったところでしょうか。
「おはようございます、トマスさん。今日は何を仕入れておられるのですか」
「おお、クラリスちゃんか。これはな、西の谷から届いた山紫蘇の乾燥品だ。今年は出来が良くてな、香りが格別だよ」
トマスお爺さんはそう言うと、束の中から特に香りの良いものを一本選び出し、私の手にそっと置いた。葉は乾燥して縮れているが、指で軽く揉むと、爽やかな青い香りがふわりと立ちのぼる。山紫蘇——以前、行軍粥の試作のときに料理長が「青翠葉の代わりになるかもしれない」と言っていた香草だ。
「……まあ、本当にいい香りですわね。青翠葉よりも柔らかいといいますか、甘さがほのかにあって」
「そうだろうそうだろう。これはな、西の谷の霧がかった斜面でしか育たない希少品でな。今年は特に香りが強い。粥に入れてもいいし、肉の臭み消しにも使える。あとはそうだな——魚の煮付けに刻んで入れても美味いぞ」
「まあ、魚の煮付けにも。それは試してみたいですわね。よろしければ、いくつか見繕って頂いても?」
「ああ、もちろん。ちょっと待ってな」
トマスお爺さんは束の中からほど良い大きさのものを選び出し、紙に丁寧に包んで私に手渡してくれた。紙越しにも、爽やかな青い香りが立ちのぼってくる。
「そういえば、この前の熟れ塩の件はどうなった」
「魚屋の"カーリナさん"から海醤を譲っていただいて、蜜蝋樹の蜜と岩茸の戻し汁で代用しましたの。おかげさまで、友達も喜んでくれて」
「そいつは良かった。あの婆さん、たまーに気むずかしいところもあるが、知識は確かだからな。今度はその料理の話も聞かせてくれよ」
「ええ、ぜひ。ところでトマスさん、この山紫蘇は今だけのものでしょうか。もし長期保存ができるなら、少し多めに買っておきたいのですけれど」
「そうだな、乾燥させてあるから、風通しの良い冷暗所に置いておけば三ヶ月はもつ。ただ、香りはどうしても飛んでしまうからな。できればひと月以内に使ってしまうのが良いだろう」
「ひと月、承知しました。ではもう二束ほどいただけますか」
「あいよ。毎度あり」
私は代金を払い、紙包みを受け取ると、籠の隅に大事そうにしまった。山紫蘇の爽やかな香りが、籠の中の野菜たちと混ざり合って、なんとも心地よい。
山紫蘇の香りを感じながら市場の中央通りをさらに進むと、左手に雑貨と薬種を扱う店が見えてきた。店先には布や裁縫道具、それに小瓶に入った脂軟膏や乾燥させた薬草が所狭しと並んでいる。
私はシスターから預かった紙に書かれた店名と、店先に掲げられた看板の文字を見比べる。
「……エラント薬魔堂。ここで間違いありませんわね」
私達の教会で使う日用品の多くは、この店で揃えているらしい。店主は四十がらみの女性で、名をベアトリスと言う。几帳面な性格で、品物の管理もよく行き届いているので、シスターも信頼を置いているらしい。
「おはようございます、ベアトリスさん」
「あら、クラリスさん。今日はお一人で?」
ベアトリスさんは帳簿をつけていた手を止め、にこやかに顔を上げた。店の中は整然としていて、棚には用途別に商品がきれいに区分けされている。
この会話からわかるように、実は私とべアリスさんは初対面ではない。そもそもエラント薬魔堂は本来、薬魔師のエラントさんという方が経営するお店。ベアトリスさんはそんなエラントさんのお弟子さんで、よく教会にも移動販売でお会いする機会が多かったのですわ。
「ええ、シスターから『たまには一人でゆっくり見て回るといい』と言われまして。そのついでに、今日は教会の備品をいくつか買い足したくて伺いました」
「それはちょうど良かった。この前、包帯と蝋燭が入ったばかりなの。よかったら見ていって。品質は……まあ、師匠が直接的調合したり、目利きして仕入れたものだから気にしなくてもいいわ」
彼女は棚から包帯の束と、細長い蝋燭の箱を取り出して、私の前に並べてくれた。包帯は麻の布を細長く裁断したもので、手触りはざらりとしているが、織り目がしっかりと詰まっていて安物とは違う。蝋燭は蜜蝋樹の蝋から作られた上等なもので、手に取るとほのかに甘い香りがした。
「この包帯、いつものよりも織り目が細かいですわね」
「そうなの。今回のは北の織物職人が手がけたもので、肌触りは少し固いけど、何度洗ってもへたれないんだって。教会みたいにたくさん使うところには向いてると思うわ。それに染み込ませた薬の効能も高くなってるから、止血にはうってつけよ」
そう言いながら自らの腕を見せてくるベアトリスさん。そこには赤い色が滲んだ包帯が巻かれていた。これは決して不慮の事故で大怪我をしたというわけではなく、薬効を確かめる為に自分で傷を作っているのだと言う。
「それはありがたいですわね。それから、裁縫道具も見せていただけますか。子供たちの服の繕いものが増えてきてしまって」
「ああ、それならこっちに良い針と糸があるわ。ほら、この針は先が丸くなってるから、間違って子どもが触れても刺さりにくいわ」
ベアトリスさんは小さな針立てから数本の針を取り出し、布に刺して見せてくれた。たしかに先端がわずかに丸みを帯びていて、指に当てても痛くない。
「まあ、これは良いですわね。子供たちにも裁縫を教えているところでしたから、こちらもいただきます」
「あら、子供たちに裁縫を?」
「ええ、孤児院の子たちに手先の訓練も兼ねて。簡単な繕いものから始めていますの。上手くなれば、将来の仕事にも繋がりますから」
「クラリスさんは本当に良く気がつくわねえ。教会に来てくれて、みんな喜んでると思うわ」
「買いかぶりですわ。私にできることはほんの少しですもの」
「その『ほんの少し』ができる人は、そう多くないのよ。師匠だって地道な事こそが最も苦労するって言ってるしね」
ベアトリスさんは優しく微笑みながら、包帯と蝋燭、針と糸をまとめて包んでくれた。代金を支払い、紙包みを籠に加える。ずっしりとした重みが、なんだか心強かった。
「これから定期的には訪問するけど、また何かあったら寄ってちょうだいね。クラリスさん。あなたなら歓迎よ」
「ありがとう存じます、ベアトリスさん。ではまた」
私は店をあとにし、市場の南側へと足を向けた。そして視線を感じて後ろを振り向くと、ベアトリスさんが優しく微笑んで軽く手を振っている。私は改めてお辞儀をしてから、再度南側へと歩いてゆくのだった。
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