第30話 すき焼きパーリナイ
教会の厨房に戻ると、私は早速支度に取りかかった。ダガーさんは買ってきたばかりの食材を手際よく並べてくれる。
「まずは蜜蝋樹の蜜を煮詰めますわ」
「煮詰める? どうして?」
「水分を飛ばして、甘みを濃縮するのですわ。これをソースに足すことでコクを出すことができるのです」
私は小鍋に蜜を入れ、とろ火にかけた。蜜は熱を受けるとふわりと甘い香りを放ち、表面に小さな泡がぷつぷつと浮かんでは消えていく。
「……甘くていい匂い。私この蜜、結構好きかも」
ダガーさんが鍋のそばに寄ってきて、泡の動きをじっと見つめている。その横顔は、いつもの無表情よりも少しだけ緩んでいた。
「ダガーさんは甘いものがお好きなのですか」
「……うん。すき」
「あら……。では、あとで蜜を少しだけ分けておきましょうか。パンにつけると美味しいのですよ」
「……いいの?」
「もちろんですわ。その代わり——」
「代わり?」
「このあとの味見を手伝ってくださいね」
「……ん。わかった。まかせて」
彼女はこくりと頷き、それからまた鍋の中の泡を見つめ始めた。
やがて蜜の水分が抜けて琥珀色の濃い液になり、木匙ですくうとゆっくりと糸を引くようになったところで火を止める。
「次は岩茸を戻しますわ」
「戻す? 地面にでも埋めるの?」
そう言いながらコテンッと首を傾げるダガーさんに、私はついつい微笑んでしまう。
「うふふふ。面白い発想ですわね。まあ、そういう調理もあるにはありますが……。今回言っているのは、干したものを水に浸して、元の柔らかさに戻すのです。こうすると、出汁が取れますの」
干し岩茸を水に浸すと、じわじわと茶色い色が水に滲み出していく。しばらく待ってから布で濾すと、戻し汁はうっすらと色づいていて、鼻を近づけると森の地面を思わせる落ち着いた香りがした。
「泥水みたい……これ、飲めるの」
「このままでは流石にキノコの香りが強すぎて、飲むことは厳しいですわね。なので今日は調味料として使いますわ。いわゆる出汁というものになります」
「出汁……これを入れるの? ほんとに?」
まじまじと眺めるダガーさんの表情が少しだけ険しくなる。先ほどもつぶやいていましたが、見た目だけなら泥水と言われても納得してしまう色合いですものね。
「疑いたくなる気持ちは分かりますわ。でも魚屋のお婆様が言っていたのですから間違いありませんわ」
「クラリスさんは、初めて会う人の助言をよく信じられるね」
「商人は信用がすべて。ケチな嘘は絶対につきませんわ。それに年の功というのは、私たちが思う以上に侮れないものなのですわよ」
私はそう言いながら小鉢に海醤を入れ、煮詰めた蜜蝋樹の蜜をほんの少しずつ足しながら混ぜていく。塩気の強い海醤に蜜の甘みが加わると、味はまだ荒々しいが、目指す方向に近づいたように思えた。最後に干し岩茸の戻し汁をほんのわずか垂らす——その瞬間、海醤の尖った塩気がふと丸くなり、代わりにふくよかな香りが広がった。
「どうかしら」
私は小皿に少しだけ垂らしてダガーさんに差し出す。彼女は指先でちょんと触れ、舌にのせてしばらく味わっていた。
「……すごい。あんなに癖の強かった海醤が美味しくなった。それに奥の方にも何かかんじる」
「奥の方、ですか?」
「……うん。最初は魚の匂いだけど、あとから甘かったり、なんだか山の香りみたいな……でも嫌な香りじゃない、いい香り」
「それが出汁、ですわ」
「……クラリスさんって、やっぱりすごい。ちょっと変なところもあるけど」
ダガーさんがはっきりとそう言ったので、私は思わず顔をほころばせた。
「あ、あはは。ダガーさんにそう言っていただけると、自信が持てますわね。それに一口でそこまで分かるダガーさんも相当すごいですわよ」
「……そう」
彼女は少し照れたように視線を逸らしたが、その口元がわずかに緩んでいるのを見て、私の胸もあたたかくなった。
「では、いよいよ本番ですわね」
私は鉄鍋を火にかけた。まず鍋にほんの少しの脂をひく。脂がじわりと溶けて表面に透明な膜が張ったところで、薄切りの獣肉を少量ずつ広げながら並べていく。
「わあ……すごくいい匂い」
肉が熱い鉄に触れた瞬間、じゅうっという小気味よい音がして、白い湯気とともに獣脂の芳ばしい香りが立ちのぼった。ダガーさんが思わず声を漏らし、少しだけ背伸びをして鍋を覗き込む。
「いい音でしょう。やはりお肉を焼く音を聞くと一番、料理をしているという実感が湧きますわね」
「……うん。食欲が出る音。ジャンとルネがいたら飛びついてくると思う」
「うふふ。容易に想像がつきますわね」
私はそんな事を話しながらも、決して鉄鍋から視線を外しはしない。そして表面がほんのり色づき、縁がわずかに反り返り始めたところで手早く裏返す。両面に焼き色がついたら、先ほどの自作の調味料を鍋肌に沿って回しかけた。汁が熱された鉄に触れるやいなや、じゅわああっと大きな音を立てて湯気が噴き上がる。
「うわっ」
吹き上がる蒸気にダガーさんが一歩後ずさり、私は思わず笑ってしまった。
「驚きましたか」
「……だって、急に大きい音がしたから」
「ふふ、ごめんなさいね、言うのを忘れていましたわ」
「……いい。それより、すごい匂い」
海醤の潮の香りと蜜蝋樹の蜜の甘い香り、岩茸の落ち着いた香りが渾然一体となって厨房いっぱいに広がっている。ダガーさんが鼻をひくつかせ、ごくりと唾を飲み込んだのが聞こえた。
「さあ、もう少しで完成ですわ」
私はそこへ、ざく切りにした硬めの葉野菜と、薄く削いだ甘みの強い根菜を加えていく。野菜がしんなりと縮み始め、汁の色がさらに深くなった。
「なんで少しの肉の脂だけを焼いてから、野菜を煮るの?」
「いい質問ですわね。簡単に言うと、肉脂の香ばしさが汁に溶けて、野菜にも絡むからといのもありますが……一番は食材の火の通りが違うからですわ」
「……いつもはみんな一緒にいれてるよ?」
「一度に大量の食材を長時間煮込む料理なら、それでも問題はありませんわ。でも今回みたいに薄い肉を使う料理の場合だと、野菜に火が通る前に肉に、火が通り過ぎてしまいますの」
「だから肉脂だけ焼いてるの?」
「ええ、そうですわ。お肉の方は最後に食べる直前に煮ますわ」
ダガーさんは鍋を覗き込み、こぽこぽと煮える汁の泡をじっと見つめている。その瞳には、泡が弾けるたびに小さく光が映り込んでいた。
「ダガーさん、鍋を見る目が料理人みたいですわよ」
「……最近。料理をするのが楽しい」
「あら、それはいい兆候ですわね」
「いい兆候?」
「ええ、だって子ども達に料理を教えるには、やはり周りで料理をしている者達が面白さを知っていなければなりませんもの」
「……そういうものなの?」
「少なくとも、私はそう考えていますわ」
私はそう言いながら最後の具材を詰め終えると、鍋の蓋をして火を弱め、少し蒸らす。その間、ダガーさんは厨房の隅で、私が前に作った行軍粥の試作品を少しだけ味見していた。
「……これ、前より美味しくなってる」
「料理長が配合を微調整されたのですわ。痺椒葉を少し増やして、あとは——」
「やっぱり、クラリスさんが一番楽しそう」
「……そうですか?」
「うん。いつも以上に変になるから」
「そ、そんなに変ですか私?」
「……うん。すごく。ソフィアさんも言ってた。料理中はクラリスさんから目を離すと、一生料理をするくらい夢中になるから気をつけてって」
「あー……」
ダガーさんの言葉に私は、思い当たる節が多すぎて苦笑いを浮かべることしかできなかった。
◇
夕刻。教会の扉をくぐったソフィは、いつもの調子で「ソフィア先生がやってきましたよー!」と声をかけてきた。けれど、その声にはかすかな掠れがあって、笑顔の下に隠しきれない疲れが滲んでいる。
「ソフィ、今日はあなたのために用意したものがあるの」
「うん。いつものお礼」
「ええー、なんですか藪からスティックにぃ」
そう言われた彼女は、私に案内されて奥の部屋へと足を踏み入れた。そして、湯気を立てる鉄鍋と、その周りに並べられた色とりどりの具材を見た瞬間、ぴたりと足を止めた。
「え。これって……すき焼き……!?」
「あなたが昔、大好きだと言っていたでしょう。最近、少しお疲れのようだったから、記憶を頼りに再現してみたのです」
ソフィはしばらく鍋を見つめ、それからゆっくりと笑った。いつもの快活な笑顔ではなかった。どこか遠くを見るような、懐かしさと切なさの入り混じった、静かな笑みだった。
「どうして、クラリスさんがこれを。それに調味料はどうしたの? 醤油なんてなかったでしょう?」
「ええ、ですので市場で海醤を譲ってもらって、蜜蝋樹の果実の蜜と岩茸の戻し汁で味を調えたのです。本当のすき焼きとは少し違うかもしれませんけれど——」
「ううん。いい匂い。これ、ちゃんとすき焼きの匂いだよ!!」
ソフィは小さく息を吐き、腰を下ろした。その目が、ほんの少し潤んでいるように見えたのは、湯気のせいだけではないだろう。
「ええと、それじゃあ……いただきます」
三人で囲む鍋。箸を伸ばしたソフィは両手を合わせると、まず肉をひと切れ取り、口に運んだ。そして目を閉じ、しばらく味わうように噛みしめてから、ふっと息を漏らした。
「……うん。すっごく美味しい」
「……よかった」
ダガーさんが小さく呟き、私も胸を撫で下ろした。
「ソフィ、野菜も食べてくださいな。硬めの葉野菜を入れたのですが、煮込んでも形が崩れなくて、いい歯応えなのですわ」
「ほんとだ。これ、なんて野菜?」
「市場の魚屋の老女が選んでくれたものです。名前は——たしか、冬緑菜だったかしら」
「へえ。これ、甘い汁が染みてて美味しいね!! ほんのり苦味とベストマッチグーですよ!!」
「ベスト、マッチグー……? まったくソフィったら、また変な言葉を……。ダガーさんも、もっと食べてくださいね」
「うん」
横を見るとダガーさんはすでに、三切れ目の肉を口に運んでいるところだった。その頬が少し膨らんでいるのを見て、ソフィが吹き出す。
「ちょっとダガーちゃん、ハムスターみたい。というか結構食べるね!?」
「……だって、美味しいから」
「まあ、嬉しいことを言ってくれますわね」
私は微笑みながら、自分の椀にも具材を取り分けた。
「そういえばソフィ。このすき焼き、学園で話してくれたとき、『卵につけて食べると美味しい』と言っていたけれど……。さすがに生はどうかと思って、用意しませんでしたわ。ごめんなさいね」
「ううん、全然気にしてないよ。これだけで十分!! それに——」
ソフィは箸を置き、しばらく鍋の湯気を見つめていた。
「こうやって三人で食べるのが、一番のご馳走だと思うの!!」
「……ソフィアさん、そういうこと言うの、恥ずかしいくないの?」
「えー、なんでよ。ダガーちゃんだってそう思ってるでしょ」
「……まあ、それは。うん」
ダガーさんが視線を逸しているけれど、その口元がほんの少し緩んでいるのを私は見逃さなかった。
「ソフィ、おかわりはいかがですか」
「うん、もちろん! いやー本当においしいです。さあダガーさんも、すき焼きパーリナイはこれからだよ!!」
私が鍋の蓋を開けると、立ちのぼる湯気とともに甘辛い香りが再び広がった。ソフィは嬉しそうに椀を差し出すその表情は、来たときよりもずっと柔らかくなっていた。
◇
楽しい食事も終わりを迎え、食後の片付けをしていると、ソフィが何かを思い出すようにぽつりと呟いた。
「私ね、これをずっと昔に食べたことがあるの。遠い、遠いところで」
「遠いところ……?」
「うん。もう、きっと帰れないくらい、遠い場所」
ソフィは口をギュッと閉じて、それ以上は深く語らなかった。けれど、その声の響きには、簡単に触れてはいけないものが込められているように思えた。
「……ソフィアさん」
ダガーさんが何か言おうとして、でも言葉が見つからなかったのか、黙ってソフィの袖をそっと握った。ソフィは少し驚いた顔をしてから、ダガーさんの頭にぽんと手を置いた。
「大丈夫だよ、ダガーちゃん。ちょっとセンチメンタルになっただけ」
「センチ……?」
「うん、ダガーちゃんはまだ知らなくていい言葉だったね。気にしないで!!」
「……むう」
ソフィに無理やり頭を撫でられたダガーさんは、少し納得いかない顔をする。そんな、はたから見ると年の離れた姉妹にしか見えない彼女たちに私は微笑んだ。
「ソフィ、また作るから、食べたくなったらいつでも言ってくださいね」
「……ありがとう、クラリスさん。ダガーちゃんも。今度は私がなんかしたげるね!!」
「……別に。それにお礼にお礼してたらキリがない」
「またまた、そんなこと言って。さっき一番たくさん食べてたくせにぃ」
「それは……美味しかったから。仕方ない」
三人で顔を見合わせ、どちらからともなく笑い声がこぼれた。その夜、ソフィが教会をあとにするときの足取りは、来たときよりもほんの少しだけ軽くなっているように見えた。
◇
私は厨房の片隅で、使った鍋を布で拭きながら、ふと手を止める。
「クラリスさん」
声のする方向を向くと、既に部屋へ戻ったはずのダガーさんが厨房の入り口に立っていた。
「……今日は、ありがと。ソフィアさん、すごく嬉しそうだった」
「いえいえ。ダガーさんも、たくさん手伝ってくださいましたものね」
「……また、作ろう。今度はシスターやジャン達にも。ついでに神父様も」
「神父様はついでなのですね……。ええ、もちろんですわ」
ダガーさんは小さく頷き、自分の部屋へと戻っていった。私は鍋を棚にしまい、窓の外を見る。夜の帳が下りた庭に、星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。
湯気の消えた厨房に、海醤と蜜蝋樹の蜜と岩茸の香りが渾然となった甘辛い匂いがまだかすかに残っている。私はその香りを胸いっぱいに吸い込んでから、エプロンを外した。
「もう帰れない遠い場所って、何処のことなのでしょうか……」
その呟きは決して返ってくることはなく、満天の星空へと溶けて消え去った。
面白かったら感想、評価していただけると、今後の作品制作の励みになります!!




