第29話 現地調査
「ふうっ……。そろそろいい時間ですね。今日はこれくらいにしましょう!」
「お疲れさまですわ。ソフィアさん」
「……ありがとうございました。ソフィアさん」
その日、教会の裏庭でダガーさんと魔法の特訓を終えたソフィは、いつものように明るく手を振ってパン屋へと帰っていった。けれど、その背中が門の向こうに消えるのを見送りながら、私はふと隣のダガーさんと顔を見合わせた。
「……ねえ、クラリスさん。今日のソフィアさん、最近なんだか疲れてた?」
ダガーさんが私の方に向き直って、ぽつりと呟く。その声には、自分が教えを受けている相手への、そして同じ教会で過ごす仲間への、少し不安げな感情がこもっていた。
「やはりダガーさんも、そう思いますわよね?」
「うん。笑ってるときも、どこかぼんやりしてるっていうか……目が、遠くを見てることが多い。なんだかため息も多かった」
ダガーさんが今言ったことは、私も感じていた。表面ではいつも通り快活に笑い、軽口を叩き、ダガーさんの魔法の上達を我がことのように喜んでいる。けれど、ふとした瞬間——誰も見ていないと思ったときの横顔にかすかな、かげりが走るのを何度か目にしていた。それに近頃、ほんの少し頬が痩けたようにも見える。
「パン屋の仕事に、ダガーさんの魔法の指導。それだけでも十分に忙しいはずなのに、何か別のことにも気を遣っている——そんなふうに感じ私は感じましたわ」
「……」
ダガーさんはしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げると、じっと私を見た。
「クラリスさん」
「はい。どうしましたか?」
「私はソフィアさんからいろいろ教えてもらって、少しでもいいから恩返しがしたい。だからソフィアさんを元気つける方法。何か知りませんか?」
ダガーさんが私に向けるその無垢な信頼がくすぐったくて、私は少しだけ笑みをこぼしてしまう。
「そうですわね……。うん。それじゃあ、あの子が好きだったものを作ってみようかしら」
「好きなものを?」
「ええ。学園時代に、ソフィが一番好きだと言ってくれた料理があるのです。確か——すき焼き、という名前でしたわ」
「……すき焼き? 聞いたことない料理」
ダガーさんが首をかしげているが、それは無理もない。私とて、名前と味の記憶はあるが、それは【美食啓示】によるもの。実際に食したこともなければ、そもそもこの街にある材料で作れるのかも定かではない。
「私も詳しくは知らないのですけれど、ソフィが昔、大好きだと言っていたのです。ただ——」
「ただ?」
「あの料理に必要な調味料が、この街の市場では見かけないものなのですわ。色は濃い茶色で、とろりとしていて、塩気があって、でも甘みもあって、こう、深い発酵の香りがする——そんな調味料ですの」
私が両手で瓶の形を描きながら説明すると、ダガーさんはしばらくその瓶の幻をじっと見つめてから、こくりと頷いた。
「……わかった。スカナベ市場に行こ」
「スカナベ市場ですか? 名前は聞いたことがありますが、行ったことはありませんわね。どういった場所なのですか?」
「あそこはほかの領の商人がいっぱい来るから、聞けば誰か知ってるかもしれない」
そう言うと彼女はもう歩き出していた。心なしか目がいつもより輝いているような気がする。私はそんなダガーさんの背中を追いかけながら、自然と口元がほころぶのを感じた。
「ダガーさん、なんだか楽しそうですね」
「……クラリスさんの癖が移っただけ」
「あら、まあまあまあ」
「そんなことより。早く行こ」
そう言いながら赤い耳のまま先に進むダガーさん。言葉の歯切れは悪いが、そういう不器用な優しさを、私はよく知っていた。
◇
午後の陽が傾き始める頃のスカナベ市場は、どの店も客足が落ち着いていた。客がいないことはないが、ほとんどの店は暇そうにしているか、店の人同士で立ち話をしている。
「まずは、あちらの香辛料のお店から聞いてみましょうか」
「うん」
まず私たちが訪れたのは乾物と香辛料を扱うお店で、痩せた老爺が山と積まれた麻袋の間から顔を出した。店先には乾燥させた香草や木の実、色とりどりの香辛料が所狭しと並んでいる。
「いらっしゃい。何かお探しかね」
老爺が気さくに声をかけてきたので、私はダガーさんと目配せをしてから口を開いた。
「はい、実は調味料を探しておりますの。色は濃い茶色で、とろりとしていて、塩気と甘みが一緒にくるような——そんなものなのですが、こちらには置いてありませんか」
「へえ、塩気と甘みが一緒にねえ」
老爺は腕を組み、しばらく考える素振りを見せた。店先の香辛料の瓶をいくつか手に取っては戻し、また別の棚を覗き込む。
「……うちじゃあ取り扱いがないな。塩辛いのはいくらでもあるが、甘みも一緒になってるとろっとしたのは、ちょっと見当たらねえ」
「やはり、そうですか……」
私が肩を落とすと、老爺は顎に手を当てて天井を見つめた。
「だがよ、ずいぶん昔に南方の商人が『熟れ塩』っつうのを持ってきたことがあるんだ。豆と麦を蒸して発酵させてから、塩と水を加えて長いこと寝かせるんだそうだ。出来上がりは黒くてとろりとしていて、舐めると塩気と甘みが一緒にくる——あんたの言うのに近いかもしれねえ」
「熟れ塩……!」
まさにそれだった。私の記憶にあるすき焼きの味の正体は、きっとその調味料に違いない。
「それ、いま店にありますか」
私が身を乗り出すと、老爺は残念そうに首を振った。
「いや、残念だが……」
「そうですか……」
「だが——」
老爺は指をくるりと回し、市場の南側を指さした。
「魚屋の婆さんが知ってるかもしれねえ。あの人は若い頃に南方まで買い付けに行ってたから、ああいう珍しいものに詳しいんだ」
「魚屋さん、ですか」
「ああ。市場の一番南の店だ。魚屋は1軒しかないから、いけば分かるぜ」
私とダガーさんは顔を見合わせ、同時に老爺に礼を言った。
「ありがとうございます、助かりましたわ」
「……ありがと」
私たちが店をあとにしようとすると、老爺が背中越しに声をかけてきた。
「なにに使うかは知らないが、うまくいくといいな。ああ、そうだ。今度はうちのも買ってくれよ」
「ええ、必ず」
私は振り返って微笑み、小さく頷いた。
「ダガーさん、魚屋に行ってみましょう。望みはありそうですわ」
「……うん。熟れ塩、見つかるといいね」
ダガーさんがこくりと頷き、私たちは市場の南へと足を向けた。
◇
教えられた魚屋は、市場の一番端にぽつんと構えられていた。店先の台には大小さまざまな魚が並べられ、氷の上に載せられたものは銀色にきらめいている。老女が一人、手際よく魚をさばいているところだった。鱗をひっくり返す手つきは無駄がなく、銀色の刃が陽にきらめくたびに、まな板の上で魚の身がみるみる切り分けられていく。
「あの、すみません」
私が声をかけると、老女は顔を上げ、皺くちゃの顔をほころばせた。
「いらっしゃい。今日は何をお探しだい」
「実は、調味料のことでお伺いしたいことがありまして。『熟れ塩』というものを探しているのですが——」
「熟れ塩? ああ、知ってるよ。あれはいい調味料だ」
老女は魚の腹を開きながら、器用に話を続ける。
「ただ、いまここには置いてないんだよ。あたしが若い頃に買い付けた先で製法を教わって、自分で少しだけ作ったことがあるんだけどね。仕込みに最低でも半年、本格的に熟成させるなら一年はかかる。お嬢さんたち、そんなに待てるのかい」
「半年……それは、いま作っても間に合いませんわね」
私が肩を落とすと、横からダガーさんが口を挟んだ。
「……なにか、代わりになるものはないの」
老女は手を止め、ダガーさんの顔をじっと見た。
「お嬢ちゃん、随分と真剣な顔だね。大事な人に食べさせるのかい」
「……友達。最近、すごく疲れてて」
「なるほどね」
老女はまな板の上の鱗をさっと拭い、手近な瓶を手に取った。どろりとした琥珀色の液体が、陽の光を受けてかすかに揺れる。
「これはうちで出してる海醤さ。魚を塩漬けにして発酵させたもので、熟れ塩とは別物だけど、これだけだと尖りすぎてる。でもな——蜜蝋樹の果実の蜜を煮詰めたものを混ぜて、それから香りづけに干し岩茸の戻し汁を少し加える。そうすりゃあ、ずいぶん熟れ塩に近くなるはずだよ」
老女は小皿に海醤をほんの少し垂らし、私に差し出した。鼻を近づけると、潮の香りと発酵独特のくせのある匂いが鼻をくすぐる。私はそれを指先でちょんと触れ、舌にのせた。塩気が強烈に立ち上がり、その後から海の底を思わせる深い旨みが追いかけてくる。
「……たしかに、これだけだと尖りすぎていますわね。でも、この深い旨みは熟れ塩に通じるものがある」
「だろ? 蜜の甘みと岩茸の香りで丸くなる。あとはお嬢さんたちの腕次第さ」
「……クラリスさん」
ダガーさんが私の袖をそっと引いた。その目は「やってみよう」と語っている。
「ええ、やってみましょう」
私は老女に向き直った。
「その海醤を一瓶、譲っていただけませんか」
「あいよ。ちょっと待ってな」
老女は奥の棚から壺を取り出し、小さな瓶へと黒い液体を入れる。
「こんな珍しい調味料が欲しいだなんて、何かおもしろい料理でも作るのかい?」
「はい。大切な友達を、少しだけ労わるための料理に、この調味料が必要なのですわ」
老女は一瞬手を止め、それから皺くちゃの顔をほころばせた。
「そいつは何よりのご馳走だね。がんばりな」
「はい、ありがとうございます」
「……おばあちゃん。ありがと」
そうして私たちは手に入れた海醤をもって、足早に教会へと戻るのだった。
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