第24話 基礎と応用
片付けが終わって、ソフィアが本棚の前でいくつかの書物を抱えながらそれらを選り分けているのを、私はようやく一人分のスペースが確保されたソフィアの部屋の端で眺めていた。窓から差し込む朝の光が、積み上げられた本の背表紙を照らしている。
「これとこれ、それからこっちの研究資料も使えそうですね」
ソフィアが数冊の本を床に並べると、その中にはあの氷結魔法の研究資料も含まれていた。ダガーさんはその表紙を一瞥してから、静かに視線を上げた。
「まず、基礎がどのくらいできてるか確かめさせてもらいますね。三つあって、魔力で体をまとうこと、魔法そのものの操作、それからまとった魔力の維持です。順番にやってみましょうか」
「……わかった」
ダガーさんが頷いたので、私も壁際に腰を下ろして様子を見ることにした。
最初の二つは、ダガーさんにとってそれほど難しくなかった。魔法の操作に関してはむしろ自然な動きで、調理場でプロテインバーを冷やしていたときと同じような、迷いのない手際の良さがあった。しかし魔力をまとう段になると、ダガーさんの動きがわずかに鈍った。形にはなっているが、どこかぎこちない。ソフィアは腕を組んでその様子をしばらく眺めてから、静かに口を開いた。
「魔法の操作はかなり上手ですね。でも魔力の操作の方は、まだ感覚が掴みきれていない感じがします。まずはそこから始めましょうか」
「……魔力の操作と、魔法の操作って違うの?」
「いい質問ですね。魔力の操作は、自分の中にあるエネルギーをどう動かすか、という話です。魔法の操作はそのエネルギーを使って何かを起こす、という話。ちょうど水を汲む作業と、その水を料理に使う作業が別々なのと同じです」
「……なるほど」
ダガーさんは短く答えたが、その目が少しだけ真剣な色に変わったのを私は見逃さなかった。こういうとき、ダガーさんは言葉が少なくなる。それは理解していないのではなく、むしろ深く考えているときの癖だと、一緒に過ごしてきた時間の中で私は知っていた。
「ダガーちゃんは料理の方は上手くできてるんですけど、水を汲むのが上手くできていないんです。井戸がボロボロだから。だからまずは土台を整えるところから始めましょう」
それからソフィアは私へと視線を移したので、私も言われるままに試してみたが、魔力をまとうどころか、どこを起点にすればいいのかさえわからなかった。
「クラリスさん、全然できてませんねえ……」
「おっしゃる通りですわ」
「落ち込まないでください。クラリスさんは今から練習するんですから。きっとできるようになりますよ!」
ソフィアはそう言ってから、二人に向き直った。
「魔力をまとうには、まずイメージが重要です。でもそのイメージはヒトによって全然違うんですよ。体を膜で覆うようなイメージの方もいれば、体の内側で煮えたぎる熱から出る煙のように広げていく方もいる。正解はないので、自分に合ったイメージを見つけることが大事です」
「ソフィはどんなイメージなの?」
ダガーさんが短く問うと、ソフィアはほんの少し目を細めて笑った。
「私の場合は、透明な糸を編んだ布を衣服のように着るイメージです。こんな感じに」
ソフィアがそう言いながら目を閉じると、次の瞬間には彼女の体の周囲にうっすらと魔力の揺らぎが現れた。ぼんやりとした膜のようなものが、ちょうど着込んだ衣服のように体の輪郭に沿ってまとわりついている。ただの布というより、細い糸が幾重にも編み込まれているような、そういう繊細な質感があった。ダガーさんはその様子を黙って見つめながら、わずかに目を細めた。
「なぜ布ではなく、糸を編んだものなのですか」
私が尋ねると、ソフィアは少し嬉しそうな顔をした。
「いいところに気がつきましたね。布でイメージすると糸がほつれたとき、どこから崩れているのかがわかりにくいんです。でも糸を編むイメージで始めれば、どこの糸が緩んでいるのかがわかりやすくて、崩れにくくなる。既製品と手作りの品だったら、自分で作った品のほうが直しやすいでしょう? これは後で出てくる維持の話にも関係してきます」
「……最初からそこまで考えてるの」
「考えていますよ。魔法って、最初のイメージが後々まで影響するんです。だからこそ、最初のイメージは大事に選んでほしいんですよね」
ソフィアの言葉にダガーさんはしばらく考え込み、それから少し困ったような顔をした。視線が床へと落ちて、何かを探すように動いている。
「……うまく、イメージが出てこない」
「ダガーちゃんの場合は才能と感覚で先に魔法を扱えてしまっているから、基礎の方が逆に難しく感じるんだと思います。感覚で掴んでいるものを言葉やイメージに直すのって、実は結構難しくて」
「……それはわかってる。でもイメージっていうのが、そもそもわからなくて」
「うーん。そういうときは他の人のイメージを借りるのも手なんですよ」
ソフィアはそう言いながら、床に並べた書物の中からあの研究資料を手に取り、しおりの挟まれたページを開いた。
「レオポルド・シャテニエ先生の資料に、魔力操作についての記述があって。ここに先生ご自身のイメージが書かれているんですよ」
ソフィアが読み上げた一節は、こうだった。強風吹き荒れる山脈の頂で、肌感が鈍るようだ、と。
「……強風の、山頂」
「冷たい風が体に当たって、感覚が研ぎ澄まされながらも外側が鈍くなっていく感じ、っていうイメージだと思うんですよね。氷結魔法らしいイメージだと思いませんか」
ダガーさんはその言葉を聞いてから、静かに目を閉じた。部屋の中に、しんとした静けさが落ちた。ソフィアも私も、声を出さずにその様子を見守っていた。しばらくの沈黙の後、ダガーさんの体の周囲で魔力が静かに収束し始めた。ゆっくりと、しかし確実に、先ほどとは明らかに違う密度で魔力が体の周りに集まっていく。まるで冬の朝の空気が一点に凝集していくような、そういう静謐な変化だった。私は息を呑んでその光景を見守っていた。
「ダガーさん。目を開けてみてください!」
ソフィアの言葉に従ってダガーさんが目を開いた瞬間、自分の周囲に広がっている状態に気がついたのか小さく息を呑んだ。それからソフィアへと視線を移した途端、ダガーさんの表情にはっきりとした戸惑いが浮かんだ。
「……ソフィアさんって、何者なの」
ダガーさんが恐る恐るそう尋ねると、ソフィアは一瞬きょとんとしてから胸を張って得意げに口を開いた。
「ふふーん。改めて自己紹介しますね!私は【魔法師】の資格を持っているんですよ!」
「魔法師……。はい!? ちょ、ちょっと待ちなさい!?」
私は思わず声を上げた。
「確認ですが学園のときはそんな資格は当然、持っていませんでしたわよね?」
「はい、そうですよ。卒業してから頑張って取ったんです。えへへ」
「えへへ、じゃありませんわ。というかいつの間に……」
「それはもちろん、たくさん修行してたんですよ、色々と。帰ってきてからも研究は続けてたので」
「……なぜ黙っていましたの」
「言う機会がなかったというか。あ、怒ってますか?」
「……別に怒ってはいませんわ。ただ、驚いているのです」
私がそう答えると、ダガーさんが静かに首を傾けた。
「……クラリスさん。魔法師って、そんなに凄いの?」
「凄いなんてものじゃありませんわ。【魔法師】は魔術連が定めるエリート資格で、天才の中の天才が生涯をかけてようやく成れるものなのですよ」
「……そんなすごい人だったなんて。全然わからなかった」
その言葉はいくらか辛辣だったが、ソフィアは苦笑いを浮かべながらも気にした様子はなかった。ただダガーさんの方は、自分の言葉の棘に気づいたのか、少しだけ視線を逸らしている。
「ダガーちゃんも十分すごいですよ。あの魔力の収束の速さ、普通じゃないですから。それに今日初めてちゃんとしたイメージを使って、あそこまで綺麗にまとめられる人はなかなかいないですよ」
「……そうなの?」
ダガーさんは短く答えたが、逸らしていた視線がゆっくりとソフィアの方へ戻ってきた。完全に納得したわけではないかもしれないが、少なくとも聞く気持ちはある。そういう顔だった。
「ええダガーさん。彼女の言っていることは本当のことですわ。―――さて、じゃあ次は私の番ですね」
ソフィアは今度こそ私へと視線を移したので、私は静かに目を閉じて、自分の好きなことや印象に残っていることを頭の中に思い浮かべようとした。
「クラリスさん。無理に難しいことを思い浮かべないでください。ただ一番最初に思い浮かんだ情景を感じるんです」
ソフィアの言葉を聞きいて頭の中に浮かんできたのは、初めて自分で作ったイチゴのタルトを家族に振る舞ったときの記憶だった。焼き色がまだら模様になっていて、クリームも均一ではなかったあのタルトを、家族も料理長たちも口々に褒めてくれた。今思えば遠く及ばない出来だったものをあそこまで褒めるなんて、単に甘やかされていただけだったかもしれない。でも当時の自分にとって、あの瞬間の心がポカポカと温かくなる感触と、皆に頭を撫でられるあの柔らかい感触は、本当に嬉しかった。私はその温もりを手繰り寄せながら、口元をわずかに緩めた。
「クラリスさん、目を開けてみてください」
ソフィアの声に少し遅れて、私は目を開いた。しかし自分の体の周囲には、ダガーさんのような魔力の収束はどこにも見えなかった。私は肩を落とした。
「やはり才能がないのですわね……」
「気を落とさないでくださいクラリスさん。さっきのイメージのとき、魔力が動き出す予兆みたいなものは感じられましたよ」
「……予兆、ですか」
「ええ。クラリスさんにはもともと、魔力はちゃんとあります。いまだって動き出すところまでは来てるんですよ。あとはそのイメージをもう少し解像度を上げて、具体的にしていけば形になると思います」
「……解像度、とは?」
またわからない言葉を使うソフィアに私は首を傾げる。すると彼女は焦ったように口早に説明し始める。
「あっ、えーっと。たとえばクラリスさんが思い浮かべたイメージ、何でしたか?」
「……温かい記憶でしたわ」
「そうでうすか。クラリスさんがそう言うのだったら、きっととても幸せなイメージなんでしょうね。でも、ただ温かいだけじゃなくて、その温かさがどこから来ているのか、どんな質なのか、それをもう少し細かく掘り下げていくと、魔力が形になりやすくなりますよ。次にやるときは試してみてください」
「ええ、わかりましたわ」
私は静かに頷いた。ソフィアの説明は丁寧でわかりやすかった。それでも悔しさが少し残るのは、隣でダガーさんが初回からあれほど上手くやってのけたからかもしれない。そんな私の様子を見てか、ダガーさんがこちらへちらりと視線を向けてから、また前を向いた。
「じゃあ次に進みますね。これが多分、今日一番の難所になると思います」
「……どんなこと?」
「他人の魔力と自分の魔力が触れ合った状態で、自らの魔力を維持する技術です」
「……それって難しいの?」
「そうですねえ……。こればかりはやってみた方が早いと思うので、実際に試してみましょう。ダガーちゃん、もう一度魔力をまとって、腕を前に出してもらえますか?」
ダガーさんが頷いて腕を伸ばすと、ソフィアも自分の魔力をまとったまま手を伸ばし、ダガーさんの手首をそっと掴んだ。
次の瞬間だった。ダガーさんを包んでいた魔力の、ソフィアの手が触れている部分より先がすっと消えた。それから消えた部分を起点にして、まるで霧が晴れるように魔力が少しずつ霧散していく。ダガーさんは自分の腕を、黙ってじっと見つめていた。その表情には驚きというより、何かを確認しようとするような、静かな集中があった。
「今何が起きたかわかりますか」
「……ソフィアさんが触れたところの魔力が、消えた?」
「そうです。私の魔力とダガーちゃんの魔力が触れた瞬間、接触した部分より先の供給が絶たれて、そこから崩れていったんです」
「……なんで供給が絶たれるの? 私は体を覆うような感じでまとってるはずなのに」
「それはですねえ。二つの異なる魔力が接触すると、お互いの流れが干渉し合うんです。川が二つ合流したとき、水の流れが乱れるのと同じです。ただし魔力は水と違い油の様な性質のものもある。互いに溶け合わず、流れの弱い方は乱されてしまう。そして乱れが供給を断ち切ってしまう。」
「……じゃあ、どうすればいいの。供給が絶たれたら、魔法を使えなくなるんでしょ?」
「ふふ、新たな供給源を作るんですよダガーさん。さっきの話で、魔力をまとうイメージを糸を編んだ布に例えましたよね。その糸を外から切られても、自分の体の中から新しい糸を送り続ける仕組みを作る。それが今から練習することです」
ソフィアがそう言いながら自らの身体に新しい魔力の膜を覆い始める。するとその光景を見た私は、ある魔法に技術を思い出した。
「……それって、結界魔法ではないですか?」
私が口を挟むと、ソフィアは少し目を丸くしてから頷いた。
「学園ではほとんどやっていない分野なのに、よく覚えていますねクラリスさん。そうです、この技術は結界魔法の基礎と同じ原理です」
「覚えるのは得意なのですわ……学園の授業でも上級に分類されていた魔法。基礎として教えるには難しすぎるのではないかと思いますが」
「確かにレベルは高いですよ。でも魔法を使ううえで、この技術は絶対に蔑ろにしちゃいけないんです」
「なぜですか」
「魔法というのは突き詰めると、自分の魔力をどれだけ安定して扱えるか、という話なんです。どんなに大きな魔法でも、どんなに繊細な魔法でも、土台にあるのは自分の魔力を意図した通りに動かし続ける力。これができるようになれば、あとは基礎の基礎を極めるだけで並大抵の魔法使いよりずっと上手くなれますから」
「……なるほど」
ダガーさんが静かにそう呟くと、部屋の中にしばらく沈黙が続く。窓の外から鳥の声が聞こえてきて、それがかえって静けさを際立たせていた。
「それにダガーちゃんならきっとできますよ。私が太鼓判を押します」
「太鼓ってのがよくわからないけど……なんでそう思うの?」
「さっきのイメージの精度を見ればわかります。レオポルド先生のイメージを一度聞いただけで、あれだけ綺麗に魔力を収束させられた。それは感覚だけじゃなくて、ちゃんと理解して動かしてる証拠ですよ」
ダガーさんはその言葉を静かに受け止めながら、少しの間だけ床を見ていた。褒められることに慣れていないのか、どう反応すればいいのかわからないような、そういう間だった。
「それから……これは私の感覚的な話なんですけど」
ソフィアが少しだけ声のトーンを落として続けると、ダガーさんが顔を上げた。
「ダガーちゃんが求める魔法はきっと、戦闘魔法みたいな物騒なものより、今練習しているこの技術の派生先の方がずっと似合うと思うんですよね」
「……どういうこと?」
「今日の練習を通してわかったんですけど、ダガーちゃんの魔力って、すごく繊細なんです。大きく荒々しく使うより、精確に細かく制御する方向に向いている。だからこそ、この技術が絶対に役に立つはず」
ダガーさんはしばらくソフィアを見つめてから、ゆっくりと頷いた。その目に、最初に会ったときの警戒の色はもうなかった。
「……そこまで言うなら、わかった。やってみる」
「よかった! じゃあ部屋では狭いですから、裏庭でやりましょうか。実際に動いた方がきっと為になりますから」
ソフィアは書物を数冊抱えて立ち上がると、裏庭へと続く扉の方へと向かいながら振り返って私とダガーさんへにっこりと笑いかけた。その笑顔は、どこか学園の授業で見せていた、あのいきいきとした表情と重なって見えた。
面白かったら感想、評価していただけると、今後の作品制作の励みになります!!




