第22話 違和感の正体
ソフィアを見送り、夕食と後片付けを終えた頃には、修道院にすっかり夜の静けさが戻っていた。子どもたちはそれぞれの部屋へと引き上げ、ダガーさんも自室へ戻っている。
私は自分の部屋へ向かいながら、今日一日のことを振り返っていた。ソフィアのこと、子どもたちのこと、ダガーさんのこと。頭の中でいくつもの考えが行き来するうちに、ふとシスターの顔が浮かぶ。
何故かはわからないが、この教会に来てからずっと、シスターに対してぼんやりとした違和感を覚えていた。うまく言葉にできないまま日々が過ぎていたが、今日一日を経て、その輪郭がじわりと浮かび上がってきた気がした。
気のせいかもしれない。しかし気のせいで片付けるには、引っかかりが多すぎる。
私は自分の部屋へ向かう足を止め、廊下を引き返した。確かめなければならない。そう思うと、もう足は自然とシスターの部屋へと向かっていた。そしてシスターの部屋の前にたった私は、扉を静かに叩く。
「……はい。どうぞ」
少しの間があってから、穏やかな声が返ってきた。私は扉を開けて中へ入った。ランプの灯りの下で書物を読んでいたシスターが、顔を上げて私を見て、少し不思議そうな表情を浮かべる。
「クラリスさん? こんな夜分に、どうかなさいましたか」
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいですか」
「もちろんですよ。どうぞ、お座りになって下さい」
シスターが対面の椅子を示したので、私は静かに腰を下ろすと、改めて部屋の中を見渡した。
家具は必要最低限のものしかなく、装飾らしいものもほとんどない。しかしそれでいて、どこか不思議な整然さがあった。棚の上に並ぶ数冊の書物、畳まれた布、壁際に立てかけられた杖。どれもが規律正しく配置されており、乱れた様子が一切ない。質素でありながら、無駄のない美しさがあった。
長く修道院に住む人間の部屋にしては、どこか生活感が薄い。まるで今日来て今日整えたかのような、そんな清潔さだった。
そして棚の端に、見覚えのある背表紙が並んでいるのが目に入った。それは使い古された騎士教本だった。恐らくは授業でシスターが手元に置いていたものと同じでしょうか。
そして先日の騎士団の訓練風景を食い入るように眺めていたシスターの目。それから一年前にこの街へやってきたというタイミング。それらが頭の中で静かに一本の線として繋がっていく。
私はその背表紙をしばらく見つめてから、シスターへと視線を戻した。
「シスター。一つだけお聞きしても構いませんか」
「ええ、何でしょう」
シスターは穏やかに微笑んだままだった。私は一度息を整えてから、真っすぐにシスターを見据えた。
「シスターは……殿下の使いでいらっしゃるのではないですか」
室内に静寂が流れ、シスターはしばらく私を見つめていた。その表情は崩れてはいなかったが、わずかに目の色が変わったのがわかる。やがてシスターは静かに、深くため息をついた。そして困ったような、どこか苦笑いに近い表情を浮かべながら口を開く。
「やはり慣れない仕事は難しいですね。こんなにもすぐにボロが出てしまうとは」
その言葉はもはや答えだった。私は胸の中で、点と点が一本の線で繋がっていくのを感じた。
「……いつ頃から気がついておられましたか」
「初めて違和感を覚えたのは、教室で騎士教本を使っていた時です」
「……そうですか」
騎士教本はたしかに王国騎士団の規律指標となる物なので、倫理や道徳と言った教えから、基本的な計算や語学、歴史など乗っている。教鞭を振るうにはうってつけな教本のは確か。でも騎士教本はたしか……。
「騎士教本の他施設への持ち出しは禁止されているはず。例え国の手が入っているとはいえど、表向きは別組織なのでここにあるのはおかしい……そうですわよね?」
「……少し行動が迂闊だったかもしれませんね」
シスターは納得したように小さく笑い、それから椅子の背に少し身を預けた。
「では、せっかくですから正直にお話しましょう。私はおよそ一年前、殿下から任務でこの地へ派遣されました」
「任務、とは」
「クラリッサ様が他の派閥から狙われないよう、秘密裏に護衛すること。それが私に課された役目です。といっても、もはや秘密裏ではなくなりましたが……」
私はその言葉を、静かに受け止めた。殿下は一体、どこまで手を回しているのか。あの方はいったい、どこまで先を見据えていたのでしょうか。そんな疑問が私の頭を支配する。
「殿下が息をかけているこの教会で活動することになりましたが……正直に申し上げると、かなり苦労しました」
「きっと、そうなんでしょうね」
シスターはそう言って、またひとつため息をついた。今度は少し、自嘲めいた色を含んでいた。
「私は元々、聖騎士団に籍を置いておりました。修道女の務めは、まるで勝手が違いまして。最初の数ヶ月は、以前の記憶を手繰り寄せながらなんとか形にしていたような有様で……」
「それで騎士教本を」
「ええ。恥ずかしい話ですが、騎士団での規律だけは体に染み込んでいましたから。それを拠り所に、少しずつこちらの生活に馴染んでいきました。今日の訓練場の様子を眺めていたのも……やはり、懐かしさがあったのかもしれませんね」
シスターは少しだけ遠い目をしてから、また穏やかな表情に戻った。私はその横顔を見ながら、この方がどれだけのものを抱えてここにいるのかを、改めて思った。殿下の命を受けて慣れない土地で慣れない仕事を一人続けてきた。それだけでも、並大抵のことではないはずだ。
「ありがとうございます。正直に話してくださって」
「クラリッサ様が気がついてしまった以上、隠し通しても意味がありませんから」
シスターはそう言って、柔らかく微笑んだ。
私はしばらく沈黙してから、もう一つだけ聞かせてほしいと口を開いた。
「それからもう一つ。ダガーさんのことなのですが―――」
その瞬間、シスターの表情がわずかに変わった。穏やかさはそのままだったが、その目に少しだけ慎重な色が滲んだ。
私は内心で、一つの記憶を辿っていた。
「それ以上は、言わない方が良いと思います」
シスターは私の考えを見透かすように、そして静かにはっきりとそう言った。
私はその言葉を受けて、しばらく黙っていた。言わない方が良い。それはつまり、私の推測が的外れではないということでもある。
私は意を決して、口を開いた。
「ダガーさんは……レオポルドが大切にしていた方なのではないですか」
シスターは困ったような表情を浮かべ、私をじっと見つめた。その視線には、どこか痛ましいものが混じっていた。そしてしばらくの後、静かに頭を縦に振った。
私は胸の奥で、何かが静かに落ち着くのを感じた。驚きというよりは、やはりそうだったという確信に近いものだった。
あの日、レオポルドと握手を交わしたとき、指先に感じたあの冷たさ。あの感覚を、私は知っている。調理場でダガーさんが型に手をかざしたとき、あの場の空気がひやりと変わった。皮膚の表面が、内側から冷やされるような感覚。そしてレオポルドの手から伝わってきた冷たさは、あれと同じ質を持っていた。触れたものを冷やす魔力の気配。血を分けた者同士ならば、魔法の性質が似通うことはあり得る話だ。
いつだったかソフィが教えてくれた魔力の性質は、使い手の素質に影響を受ける。火なら熱くなり、雷なら痺れるし、氷なら―――
「……ありがとうございます、シスター。お話しくださって」
私がそう言うと、シスターは静かに微笑んだ。
「クラリッサ様は、知った上でどうなさるおつもりですか」
「やるべきことをするだけですわ」
シスターはその答えを聞いて、何も言わなかった。ただ静かに、深く頷いた。
そうして私は立ち上がって、部屋を後にしようとした。しかしシスターに呼び止められる。
「クラリッサ様」
振り返ると、シスターは穏やかに、しかし真剣な目をしていた。
「聖書にこんな言葉があります。『分かち合う手があってこそ、道は開かれる』……限界は誰にでも訪れます。だからこそ、信頼できる者を頼りなさい」
「ええ、そうしますわ。シスター遅くに失礼しました」
「気にしないでください。それに困ったらいつでも頼ってくださって構いませんからね。おやすみなさい。クラリッサ様」
「ええ、おやすみなさい」
私はその言葉を静かに受け止めた。感謝を伝えようとしたが、言葉が出てこなかった。代わりに小さく頷いて、扉へと手を伸ばした。
「……あら?」
しかしその瞬間、扉がわずかに半開きになっていることに気がついた。私はその隙間をしばらく見つめる。しかし私は静かに頭を横に振ると、気のせい。そう自分に言い聞かせながら、廊下へと出た。
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