第20話 思い出
「――クラリッサ様? もしかして、クラリッサ様じゃないですか!?」
その声が耳に届いた瞬間、私は反射的に足を止めていた。
振り返ると、石畳の上に立ってこちらを目を丸くして見つめる一人の女性。艶のある黒色の髪、少し上向きの鼻、そしていつも笑いを含んだような目。
「ソフィ―――どうして貴方がここに」
名前を呼ぶより先に、ソフィアは駆け寄ってきた。そのまま勢いよく私の胸に飛び込んでくる。
「よ、よかった……! ご無事で……っ、本当によかった……!」
肩が、小刻みに震えている。ソフィアの目には、みるみる涙が盛り上がっていた。
――これは。まずいですわね。
私は周囲に目を走らせた。通りを行き交う人々が、何事かと視線を向け始めている。身分を隠している私が往来で人に抱きつかれている姿を晒すのはあまり良いことではない。ましてや今の私はただの修道女見習いなのである。目立つことは避けなければならない。
「ソフィ、少しよろしいですか」
私は彼女の肩にそっと手を置き、人通りの少ない路地へと誘導した。ソフィアはメソメソとしながらも、私に引かれるまま大人しくついてくる。
学園時代の記憶では、ソフィアはこんなに涙もろい人ではなかった。どちらかと言うといつでも活発で陽気、何よりも笑顔の素敵な末っ子という印象だった。そんな彼女がこれほど泣くとは。戸惑いながらも、私は彼女の手をそっと取って歩き続けた。
あいばらくして路地に入り、人目が途絶えたところで私は足を止める。
「少しは落ち着きましたか?」
「……はい。すみません、みっともなくて」
ソフィは目元を拭いながら、少し恥ずかしそうに笑った。
「それで、どうしてここに?」
「えっと、私はここの街の出身だけれど……」
「え……ご存知ではなかったんですか?」
「……貴方がこの街の出身だとは知りませんでしたわ」
私の言葉にソフィアが不思議そうに小首を傾けた。
「ここが私の故郷だって、クラリッサ様は知ってるとばかり……」
「いいえ、初耳ですわ」
「あれぇ……。殿下やメリーちゃんたちには伝えていたたから、てっきりクラリッサ様にも届いているものだと思ってたのに……」
ソフィが申し訳なさそうに眉を下げた。
「親友の素性をいちいち調べたりなんてしませんわよ、私は」
私がそう言うと、ソフィアは少しの間ぽかんとした後、懐かしむようにはにかむ。
「……やっぱり、昔と変わってないね。クラリッサ様」
「昔、とは」
「ええ、学園で初めてお会いした時のことですよぉ……」
ソフィアは路地の石壁に背を預け、少し遠い目をして語り始めた。
◇
平民出身の自分が貴族ばかりの学園に入学した日のことは、今でもよく覚えているとソフィアは語る。
入学式より前、まだ構内の庭に人が集まり始めた頃のことだった。数人の女生徒に囲まれ、出身地や家柄のことで嫌味を言われていたソフィアのもとへ、一人の少女が静かに歩み寄ってきた。
「この学園に入学する者が優秀でないはずがありません」
凛とした声で、その少女は言い放ったのだという。
「身分など関係ない。それだけの努力をした者がここにいる。その努力を侮辱するということは、等しく努力を重ねてきた私をも侮辱するということになりますわ。この意味。わかりますわね?」
少女は女生徒たちを真っすぐに見据えた。その眼差しに威圧されたのか、女生徒たちはそそくさとその場を去っていく。
少女は去っていく彼女たちを静かに見送りながら、小さく呟いた。
「謝ることも出来ないとは。プライドも行き過ぎれば毒ですわね」
それから懐からハンカチを取り出して、ソフィアへと差し出す。
「そのハンカチは返さなくて結構ですわ」
それだけ言って、少女はその場を立ち去ろうとした。ソフィアが慌てて呼び止めようとした瞬間、今度は別の声がかかった。
「クラリッサ! 入学式はもうすぐだよ」
振り返ると、そこに立っていたのは見目麗しい青年だった。クラリッサと呼ばれた少女は青年に向かって軽く頷き、当然のように隣に並んで歩き出す。後から知ったことだが、あの少女こそがベルフォール公爵家の令嬢、殿下の許婚クラリッサ・ド・ベルフォール様だったのだという。
クラリッサ様の入学式での宣誓は見事なものだった。代表として壇上に立つその姿に、ソフィアは圧倒されながらも見入っていてしまうほどに。
式が終わり、組み分けられた教室へと移動すると、窓際の席にあの少女が座っているのをソフィアは発見した。
「あの、先ほどはありがとうございました!」
駆け寄って声をかけると、少女はこちらを一瞥して静かに口を開く。
「気にすることではありませんわ」
こちらに興味なさそうな口調。それでもソフィアはそんな少女の手を半ば強引に両手で包み込んで、花が咲いたような笑顔で頭を下げた。
「それでも、嬉しかったんです。本当にありがとうございます!」
少女は一瞬だけ目を見開いた。しかし次の瞬間にはもとの表情に戻り、ソフィアから静かに手を引く。
「……そう」
ちょうどそのとき鐘が鳴り、生徒たちが一斉に席へと戻っていく。ソフィアも自らの学生手帳に書かれた識別番号の席に座ろうとして、あることに気がつく。
「わあ、私たち隣みたいです!」
「……どうやらそのようね」
少女は窓の外へと視線を移しながら静かに呟いた。ソフィアは笑顔でこれからよろしくお願いします、と頭を下げて授業に望むのだった。
ソフィアにとって学園の授業は慣れないことだらけだった。計算や歴史といった座学はなんとかなったが、貴族特有の所作や礼儀作法の授業では、平民出身のソフィアは周囲についていくのが精一杯だった。対してあの少女は、一通りの授業を淀みなくこなし、所作に至っては先生すら感嘆するほど洗練された動きで、教室中の視線を集めている。
そんなこんなで午前の授業が終わり、皆が昼食のために食堂へと移動していく。ソフィアはそんな皆の行動に少し戸惑っていた。街の教育施設では皆が教室で食事していたが、この学園ではどうやら違うのだと知り驚く。
そして手もとに置かれた持参した昼食を見つめ、決心したように食堂へと移動することにした。
移動中、場違いな自分の姿に向けられる周囲の視線を感じていいたが無視して進むと、またしても窓際の席で一人食事をしているあの少女を発見した。
「あの……隣のお席に、座ってもよろしいですか?」
「空いている席は自由に使ってよい場所。一言断りを入れるだけでよいのです。了承を得る必要はありませんわ」
やはり興味なさそうに語る少女だったが、彼女が料理を口に運んだ瞬間、ほんのわずかに表情が緩んでいるのが見てとれる。それを見てソフィアはふと微笑む。
「何かしましたか」
少女が怪訝そうに、こちらへ視線を向けた。
「いいえ。随分お食事が好きなのだなと思って」
少女はその言葉に恥ずかしがる様子もなく、静かに語り始めた。
「金や権力と違い、食は私の人生を豊かにしてくれます。私も調理を嗜みますが、この学園の料理は我が公爵家の料理にまさるとも劣らぬ質。心の底から尊敬しますわ」
そう口早に語る彼女の瞳は、授業中とは比べ物にならないほど輝いているように見える。
そして少女がふとソフィアの手元を見た。
「貴方は食事は取ってこないのですか。まさか偏食で食べられない……なんてことはないですわよね?」
「そういうわけではないのですが……お金があまりなくて。自分で弁当を作ってきたんです」
「弁当?」
少女が不思議そうな顔をした。ソフィアは手元の風呂敷包みを広げ、蓋を開けた。
中には、見たことのない料理がいくつも詰まっていた。お世辞にも貴族が食べるような洗練された見た目ではない。しかし少なくとも、見たことのない調理が施されているのは一目瞭然だった。
「これは……どのような料理ですか」
「えっと、これはカボチルの甘煮で、こちらがミルド肉の衣揚げ、それからサヤと根菜の炒め物、そしてこちらが、お米……こほん、失礼しました。ハーレン麦という穀物を釜で炊いたものです」
少女はじっと弁当の中を見つめている。
「よかったら食べますか」
ソフィアの提案に少女の表情が微かに揺れた。公爵家令嬢の私がそんな……という葛藤がありありと顔に出ていたが、それ以上に弁当を食べたいという気持ちが完全に表情に滲み出ていた。
ソフィアは機転を利かせて、空いている皿に一口分ずつ盛り付けた。
「私の料理を評価していただけますか。貴方様のような方のご意見、ぜひ伺いたくて」
少女はしばらく葛藤していたが、やがて静かにフォークを手に取った。
「……そこまで言われて断るのは失礼ですわね」
一口、口に運んだ瞬間。少女の目が開いた。
「……美味しい」
それから他の料理にも手を伸ばし、驚いたような表情で一つ一つ味わっていく。
「……これは、全て貴方が考えたのですか」
「あ、えーっと、親。そう、親から教えてもらったものです!」
「こんな素晴らしい料理を作ってくださっているのですか……とても良いご両親ですわね」
「美味しい料理が良い両親の基準なんですか」と苦笑いを浮かべたところで、少女が何かに気がついたように顔を上げた。
「……ねえ、あなた」
「はい、なんでしょう」
「私たち、まだ自己紹介をしていませんでしたわね」
完璧に見えていたあの少女が、今更気がついたというように少し申し訳なさそうにしている。ソフィアはその表情がとても可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
これが二人の交友が始まった瞬間であった。
◇
「……そんなこともありましたわね」
私は苦笑いを浮かべながら、路地の石壁に目を向けた。
「クラリッサ様に助けていただいたから、私はあの学園を最後までやっていけたんです。そしてクラリッサ様に出会えたから、自分の夢を追う勇気が持てました」
ソフィアは穏やかな笑みで言葉を続けた。
「卒業して実家に戻ってからは、パン屋を手伝いながら自分の夢に向かって頑張っていたんです。でも数ヶ月前に……クラリッサ様が殿下の殺害未遂で捕まったという噂が、この街に流れてきて」
ソフィアの声が、わずかに揺れた。
「私はずっと信じていました。クラリッサ様がそんなことをするわけがないって。でもつい先日、クラリッサ様が処刑されるという話まで流れてきて……私、本当に怖くて」
「ソフィ……」
「そしたら今朝、騎士団の施設の方へ歩いていくクラリッサ様の後ろ姿を見つけて。もしやと思って追いかけたら……本当に、本当にご無事で」
ソフィアは私の手を両手で包み込み、すがりつくように見上げてくる。
「クラリッサ様は殿下を……そんなこと、していませんよね!?」
その眼差しに、私は茶化す気持ちにはなれず真剣な表情で、真っすぐに答えた。
「私がそのようなことをするとでも?」
その一言を聞いた瞬間、ソフィアの膝からふっと力が抜けた。そのままその場にへたり込んで首を横に振る振っている。
「ソフィ、大丈夫ですか」
「……はい。良かった。本当に良かった……」
目に涙を浮かべながら、それでも笑顔で言うソフィアを見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ところで、どうして出身を教えてくれなかったのですか。一度も言いませんでしたわよね」
「あ……それは」
ソフィアが少し考えるように首を傾けた。
「クラリッサ様って、私のことをいつも身分とか出身とか関係なく、ただの一人のヒトとして接してくれていたじゃないですか。それに他の貴族様に出身地をけなされた時に、出身や身分など関係ない、ソフィはソフィですわって言ってくれていたから……なんとなく、言う機会がなくなってしまって」
「あー……」
私はやらかしたという表情で眉を下げた。そして少しでも友情を疑ったことを、心の中で詫びた。
「あっ私は全然気にしていませんよ!」
ソフィアはぱっと立ち上がり、元気よく首を横に振った。
「それよりもクラリッサ様がご無事だったことの方がずっと大事です。あ、でも殿下にもご報告しなければ……!」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
あたふたし始めたソフィアを、私は慌てて引き止めた。そして今の自分の状況を、できる限り簡潔に説明した。殿下が逃がす手筈を整えてくれたこと。今は身分を隠してクラリスという名前で修道院に身を置いていること。
「さすが殿下……! 本当に頭がよくていらっしゃる……!」
「落ち着きなさい」
コロコロと変わるソフィアの表情に、私は懐かしさを感じながら苦笑いを浮かべた。
「もし何かあれば修道院を訪ねてくれれば構いません。伝言を残してもらえれば、こちらから伺います。念のため、貴方の家を教えてもらえますか」
「はい!」
ソフィアは元気よく頷くと、持っていた紙に何かを書いて千切り、私に手渡した。私はそれを受け取り、目を落とした。
――んん?
私は思わず眉をひそめた。
「どうかしましたか?」
ソフィアが不思議そうに首を傾けている。私はその紙に書かれた内容ともう一度向き合い、静かに口を開いた。
「ソフィ。もしかして……炊き出しの時にいつもパンを分けてくださるオバサマをご存知ですか。白髪で小柄な方で、よく日に焼けた顔をされていて、いつも大きな籠を持って来てくださる」
「え? それ……私のお婆ちゃんだと思います!」
私はしばらく黙って、それからゆっくりと息を吐いた。
「……世間は、意外と狭いのですわね」
紙に書かれていたのは、以前から炊き出しに足を運んでくれていたあのお婆ちゃんの、パン屋の名前だった。
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