第19話 再会
私は朝の冷気が染みている箒の柄を握り、礼拝堂の石床に積もった埃を丁寧に掃き集めていた。隣ではジャン君が盛大に埃を舞い上げながら箒を振り回し、マリーちゃんがそれに抗議の声を上げている。リゼットちゃんは窓際で雑巾を絞り、ルネ君は黙々と長椅子の木目を拭いていた。
そんな子供たちの様子を静かに眺めながら、ダガーさんとシスターは入口近くで、誰よりも丁寧に床を磨いている。
いつも通りの朝に私は、小さく息をついて箒を動かし続けた。そのとき、教会の重い扉を叩く音が響く。
「はい、少々お待ちを」
皆の視線が扉に向く中、シスターは手を止めて扉の方へと向かう。私も手を止めて、なんとなくその背中を目で追った。
扉が開いた瞬間、シスターの表情がわずかに変わった。
「これはレオン様。こんな朝間に一体どうなさったのですか?」
扉の向こうに立っていたのは、肩で息をしながら額に汗を光らせたレオン様の姿だった。普段の落ち着いた雰囲気が鳴りを潜めて、珍しく焦りの色が顔に出ている。
「どうぞ中でお休みを。ダガーさん、水を――」
「いえ、大丈夫です。それより」
レオン様はシスターの言葉を静かに遮り、私へと視線を向けた。
「クラリスさんに急ぎの用がありまして」
「私にですか?」
「はい。以前お話していたプロテインバーの包みの件です。目途が立ったと、領主様から至急施設まで来るようにとのことで」
包み。その言葉を聞いた瞬間、それは以前領主様に伝えていた、戦闘糧食用の金属製包み紙についてだと理解する。
私はシスターへと視線を向けると、シスターはすでに穏やかに微笑んでいた。
「掃除はみんながいますから、大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます。皆さん、後をお願いしますわね」
「いってらっしゃーい!」
「気をつけてねー」
「掃除は任せて!」
「いってらっしゃい。クラリスお姉ちゃん」
「……ん。気をつけて」
子ども達とダガーさんの声を背中に受けながら、私はレオン様の後について騎士団の施設へと足早に歩き出した。
「今のは後ろ姿は、もしかして―――」
◇
レオン様に連れられて施設に到着すると、私はすぐに屋敷の中へと通された。石造りの廊下を進み、突き当たりの扉を開けると、そこが応接室だった。
室内に入った瞬間、私は思わず背筋を正す。そこには領主様がすでに、上質な布が張られたソファーへ腰を下ろしていた。その傍らには、執事服に身を包んだ女性が小さな箱を両手で持って控えている。腰には細身の剣が一本、静かに提げられていた。切れ者の雰囲気が、立ち姿だけで伝わってくる。
「来たか。まあ座れ」
領主様はいつかと同じ、おおらかな口調で対面のソファーを示した。私は大人しくそれに従い、背筋を伸ばして腰を下ろした。
「セリーヌ」
領主様が短く名を呼ぶと、セリーヌと呼ばれた付き人の女性は一歩前へ出て、私に向かって軽く頭を下げた。
「クラリス様。失礼いたします」
そう言うとセリーヌ様は丁寧な手つきで箱をテーブルの上に置き、蓋をゆっくりと開いた。
中に収まっていたのは、紙ほどの薄さの板が何枚か重なっていた。光を受けてかすかに輝く、銀色の光沢。紙ほどの薄さで、まるで金属を限界まで延ばしたかのような代物だった。
「……確認してもよろしいですか」
「そのためにお前を呼んだ」
私は一枚手に取り、指先で軽く折り曲げてみる。滑らかに折れ、しかし破れない。指の腹で表面をなぞると、わずかな冷たさと、均一な厚みが伝わってくる。
――これは。
【美食啓示】が、静かに知識を呼び起こす。それは錫箔と呼ばれる素材に、感触も光沢も非常に近い。厚さはまだ完全に同じではないが、食品の包材として使うには十分な性質を持っていた。
「これはどのようにして」
「信頼できる職人に作らせた。ターリアという金属を、薄く薄く叩き延ばしたものだそうだ。食品にも使えると職人が言っていたから、安心しろ」
ターリア。見た目的に恐らく錫に近い金属なのだろうと思う。私はもう一度、その薄板を手の中で確かめた。
「……これなら、戦闘糧食の包みとして使えますわ。強度も申し分ない。それだけでなく、これならば一般の住民の方々が食材の保存に使うことも」
言葉を続けながら、私の頭の中でいくつもの可能性が広がり始めていた。
「キャンディや砂糖菓子をこれで包めば、見慣れない技術が付加価値になりますわ。嗜好品としての需要も見込めますし、贈り物としての用途も……各地の商人が興味を持てば、交易品としての可能性も……」
そこで私はハッとして顔を上げる。領主様がこちらを見ていた。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。どこか遠くを懐かしむような、穏やかな目をしていた。
「あ……申し訳ありません。つい」
「構わん」
領主様はそれだけ言って、ゆっくりと組んでいた足を解いた。
「それで。そのターリアの板、問題はないな?」
「完璧ではありませんが、今はこれで十分です。できればもう少しだけ薄くすれば、移送にも支障は出ないと思いますわ」
「よし。であれば職人たちと量産の算段をつける。大まかな加工は、職人のグリーダとエルギスに。それからより薄くとなれば、マルチナ一家にも頼む必要がありそうだな……セリーヌ」
「既に手配は済ませてございます」
「そうか。ならば並行して、加工の仕事を一部の職人たちに回すことも出来よう。そちらの手配も進めろ」
そう言って、領主様はわずかに口の端を上げた。その表情は戦闘糧食の話をしていたときよりも、いくらか深みのある笑みに見えた。
「領主様はグリーダさんをと面識があるのですか?」
「当然だ。彼らはこの街にはなくてはならない者たちだ。もちろん他の住人たちもな」
やはり領主様は街全体のことを、いつも同時に考えているのだと私は改めて感じた。
その後しばらく、応接室には穏やかな雑談が続いた。この地方の気候のこと、騎士団の食事の改善についてのこと、教会の子供たちの様子。領主様は聞き上手で、私が話すことを静かに、しかし確かに受け止めていた。セリーヌ様は終始無言で控えていたが、その目は常に室内の全体を捉えていた。
◇
「本日はお時間をいただきありがとうございました」
「また何かあれば遠慮なく来い。セリーヌ、送れ」
「かしこまりました」
私はセリーヌ様に案内されて応接室を出ると、廊下の突き当たりでレオン様が待っていた。
「よくもまあ、あんなに話し合えるもんですね」
帰りの道中にレオン様が隣を歩きながら、半ば呆れたような口調で言った。
「そうでしょうか。とても話しやすい方だと思いましたが……」
「はあ……そんな風に言えるのはアンタくらいのもんだよ」
レオン様は深い息をついて、心底不思議そうな顔をしている。
「領主様はたしかに優しい方です。でも同時に、怖い方でもある」
「怖い……ですか?」
「ええ。あの方は街のために、民のために全力を尽くされる。ですがその裏で、街に害をなす者には一切容赦しない。以前、長年仕えていた忠臣の一人が帝国に情報を売っていたことが発覚したときは……何のためらいもなく、処刑されました」
レオン様の声が、わずかに低くなった。
「俺はそれを間近で見ていたので。あの方の優しさの奥に、何があるかを知っています」
私は黙って前を向いたまま歩き続けた。
「それとクラリスさん。あなたがどういう理由でかはわかりませんが、領主様に近づこうとしているのは理解しています。もちろん悪い意味で言っているわけじゃないですよ。ただ……」
レオン様が言葉を選ぶように少し間を置いた。
「もしもマルシェリエに害をなす存在だと判断されれば、どれだけ有用な知恵や技術があろうと、関係ないということです」
その言葉を聞いて私は以前から薄々気がついていた事を思い出す。
それは領主様は、やはり私に気がついているということだ。お父様が開いた社交界で顔を合わせた夜、お父様と談笑していたあの姿。そして何よりも―――職人一人一人の名と得意を熟知している方が、仮にも主催者の娘を忘れているはずがない。
「……ありがとうございます、レオン様。肝に銘じますわ」
「そうしてください。短いつきあいではあるけど、貴方がいなくなるのは、何というか……さみしいですからね」
レオン様はそれ以上は何も言わなかった。私も黙って、石畳の上を歩き続けた。
しばらくして騎士の居住区域を抜けると、いつもの街並みへと戻っていく。石造りの建物が低くなり、行き交う人の顔に見覚えが戻ってくる。私はレオン様と別れを告げて、教会へと続く道を一人歩き始めた。
覚悟は、決まっていた。領主様が何を知っていようと、私はこの街でできることをするだけだ。それが積み重なったとき、この方がどう判断されるか。それは私にはどうにもできない。
そう思いながら歩いていると、背後から声がかかった。 私は聞き覚えのある声に、つい足を止めてしまう
「――クラリッサ様? もしかして、クラリッサ様じゃないですか!?」
「ソフィ―――どうして貴方がここに」
視線の先にいたのは、こちらを目を丸くして見つめる一人の女性。それは学園での親友ソフィア•フォーレだった。
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