第17話 神聖な調理場
私はレオン様の後ろを歩きながら、少し前の出来事を思い返していた。
私が領主様から許可を得て、調理場へ向かうと告げたとき、子供たちは揃って不満そうな顔をした。しかしシスターが優しく言い聞かせると、ならば自分たちも何か手伝えることをしたいとジャン君が言い始める。それがきっかけで、皆が騎士団員の仕事を少しだけ手伝うという流れに自然と落ち着いた。ダガーさんは無言でその輪に収まり、シスターが穏やかに頷いて引き受けてくれた。それぞれが自分の居場所を見つけていく様子は、いつ見ても微笑ましいものですわ。
「難しい顔してますね」
前を歩くレオン様が、振り返らずに言った。大丈夫だとわかってはいても、やはり少し心配なのことはいくつかある。シスターとダガーさんは大丈夫だと想いますが、子どもたちが騎士団員に迷惑をかけてしまわないか。自分を受け入れてくれるか。そして私の料理を評価してもらえるかという不安。
「……顔に出ていましたか」
「少しだけ。でも大丈夫ですよ。ここの騎士たちは根はいい奴らばかりですし、シスターもいる。子供たちのことなら心配いらないと思います。もちろん、これから行く調理場の皆もね」
私はその言葉に、小さく息を吐いた。心配していることを見透かされるのは少し恥ずかしいものですが、それ以上に、さらりと気遣いを向けてくれるこの方の人柄に、私は素直に救われた気持ちになっていた。
「……ありがとうございます」
私はレオン様と並んで廊下を進みながら、自然と話を続ける。石造りの廊下は天井が高く、外の喧騒が遠くなるにつれて、二人の足音が静かに響いていた。
「グリーダさんとは、その後いかがですか?」
「ああ。翌日、俺の方から菓子折りを持って謝りに行きました。向こうもまあ、根は悪くない人なので今はふつうに話せています。注文していた剣の修繕も、先週ようやく上がってきました」
「それはよかったですわ。あの時は私も肝を冷やしましたもの」
「見ず知らずの美少女にビンタされたときは、度肝を抜かれましたがね……」
「あら美少女だなんて、お上手ですわね。私はそんな、皆が言うほど美しくはありませんわ」
「いや、流石にそれは謙遜が過ぎやしないかなぁ」
レオン様は苦笑いを浮かべながら首の後ろを掻いた。
「騎士団の生活というのは、毎日訓練ばかりなのですか?」
「訓練と見回り、たまに遠征かな。今は休戦中なので、食事と睡眠以外はだいたいそれですね。慣れると悪くはないんですが、正直飽きますよ」
「まあ……それは少し、大変ですわね」
「遠征先で食べるものが、毎回硬いパンと塩漬け肉というのも、そろそろどうにかしたいと思っていて。今日持ってきてくれたあれ、本当にありがたいです」
「お役に立てたなら何よりですわ。あれは冷めても味が落ちないように配合を工夫しましたから、水分量を調整すれば遠征先でも十分召し上がれると思いますわ」
「そうなんですか。それは助かるな」
レオン様が目を少しだけ細める。それは素直な安堵の表情だった。
「そういえば、今向かっている調理場の料理人たちは、みんなマルシェリエ近郊の出身なんですよ。料理長は北の山の出でして、ジビエ料理が得意な人です。他にもパーメ出身の者や、ウガスタから来た者もいる。だからここの食事は、わりと種類が豊富なんですよ」
北の山脈というと、帝国との境に連なるミョンヘル山脈出身ということですわよね。あそこの麓には確か、山角獣のチーズで有名な村があったはず。
それにパーメはワイン。ウガスタは生ハムで有名な小さな町。私も両方いただいたことがありますが、ワインはとても上品な味わい。生ハムの方は癖はあるものの、甘い脂身と程よい塩気で、お父様が珍しく絶賛していたのを記憶しています。
「それは羨ましいですわ。私もマルシェリエの料理は好きですが、騎士団の食卓はさぞ賑やかなのでしょうね」
「ええ、まあ……それは確かに」
レオン様が少しだけ嬉しそうな顔をした。普段は凛としているこの方も、地元を褒められて表情が緩んでいる。そういう一面を見ると、どこか親しみが湧いてきますわね。
私たちが話しながら歩いていると、やがて廊下の奥に大きな扉が見えてきた。近づくにつれて、隙間から香ばしい肉の香りと焦がしたバターの甘い匂いが漏れてくる。思わず足が少しだけ早まりそうになるのを、私は意識して抑えた。
レオン様が扉の取っ手に手をかけた。が、そこで私は彼が不意に足を止めるのに気がついた。
「……あの、一つだけ」
「はい」
「調理長は少しだけ気難しい人でして。悪い人ではないのですが、その……あまり気にしないでいただけると」
私に向かって珍しく言葉を選びながら、どこか申し訳なさそうに告げてくるレオン様の様子に、私は思わず口元を緩めた。先ほどまでの武骨さが鳴りを潜めて、まるで友人を紹介する前に慌てて取り繕っているような、そんな微笑ましさがあった。
「ご心配ありがとうございます。でも、慣れているので大丈夫ですわ」
「慣れて……?」
私の言葉の意味を測りかねているのか、疑問を浮かべたまま、レオン様は小さくわかったと言って扉を押し開けた。途端に、熱気と香りが私に押し寄せてきた。
そこは広い調理場だった。十人ほどの料理人が、それぞれの持ち場で忙しなく動いている。大きな竈が壁際に並び、鉄鍋がいくつも火にかかり、まな板の上では野菜が軽快な音とともに刻まれていた。立ち込める湯気が天井近くに漂い、そこへ差し込む光が白く滲んでいる。壁際には、私がこれまで目にしてきたどの調理場よりも品質の高い器具が整然と並んでいた。教会の台所とは比べ物にならない。実家の公爵家の調理場に近い、いやそれ以上かもしれない充実ぶりに、私は思わず目を細めた。
「これは……凄いですわね」
鉄と炎と食材の匂いが混ざり合ったその空間に、私は不意に懐かしさを覚えた。幼い頃から、調理場という場所だけは何処へ行っても変わらない熱気がある。その温度が、今もじわりと肌に染みてくる。
「料理長! 何処にいますか!」
レオン様が声を張り上げると、しばらくして奥の方から大きな声が返ってきた。
「今は忙しい! 後にしろ!」
「そうはいきません。領主様のご指示で、この方に調理場をお貸しすることになりました!」
その言葉が落ちた瞬間、調理場の空気が一変した。鍋をかき混ぜていた手が止まり、まな板の音が消え、視線がいっせいにこちらへ向いた。水を打ったような静寂の中で、奥から白いエプロンを几帳面に着込んだ初老の男がゆっくりと歩いてくる。体格はさほど大きくないが、長年の仕事で鍛えられた肩幅と、一分の隙もない立ち姿には、確かな重みがあった。その目には、長年積み上げてきた矜持がはっきりと宿っていた。
「お前らは調理を続けろ! それで?」
料理長は私の目の前で立ち止まり、上から下まで一瞥する。値踏みというよりも、品定め。この調理場に相応しい人物かどうかを測っている目だと、私にはわかった。
「お前、最近この街に来た修道女見習いらしいな。領主様が面白そうに、あのプロテインバーなる物を持って語っていたぞ」
その言葉に、私は内心で息を呑んだ。
表面上は穏やかな表情を保ちながら、私は素早く思考を巡らせる。領主様が語っていた、という部分が引っかかった。どこまで話していたのか。プロテインバーのことだけなのか、それとも――私が何者であるかまで及んでいたのか。
処刑されたはずの人物がここにいる。そこまでは恐らく知らないはず。だが、知らないと言い切れる確証もない。心の隅に、小さな疑念がじわりと滲んだ。
しかし今、この料理長の目を見る限り、これは純粋な脅しではないように思えた。どちらかと言うと、お前のことは把握しているぞという、この場における牽制。自分たちの縄張りに踏み込んでくる者への、職人としての警戒心から来るものだろうと感じた。
「……ええ、そうですわ。修道女見習いのクラリスと申します」
私は表情を崩さないまま、静かに答えた。
「ならばよけいに話は早い。どこの誰とも知れない者に、この調理場は使わせられん。領主様の命令とはいえ、こればかりは譲れん」
料理長は腕を組んだまま、一歩も退かない様子で言葉を続けた。
「ここは我々の祖先から受け継いだ土地に立っている建物で、この調理場で作られる料理はこの地の歴史そのものだ。この土地のことを知らぬ者が、我々以上にここの料理を作れるはずがない」
私が周囲を見渡すと、料理人たちが一様に頷いていた。誰一人として、料理長に逆らう気配がない。これは単なる意地や頑固さではなく、この場所への深い誇りから来るものなのだと、私にはわかった。だからこそ、むやみに言い返すことも憚られた。
「ですから私は、この調理場を奪おうとしているわけでも、あなたの仕事を侵害しに来たわけでもありませんわ。ただ、お互いに――」
料理長は私の言葉を静かに遮った。怒鳴るわけでも、感情を荒げるわけでもない。それがかえって、この方の言葉に揺るぎない重みを与えていた。
「もし認めてほしいなら、俺と勝負して、ここにいる全員に認めさせてみろ。それができんなら、神聖なこの調理場に立ち入る資格はない」
「オーガスタスさん。それは少し酷じゃないですか。相手は料理の場に慣れていない――」
「こんな事もできない者に、この神聖な調理場は任せられん。それだけのことだ」
レオン様の言葉も、料理長には届かなかった。だが私はその言葉を聞いた瞬間、自分の中で何かがふっと緩むのを感じた。
記憶が蘇る。幼い頃、実家の公爵家の調理場へ忍び込んで、厨房に立とうとした私の前に立ちはだかった、白髪交じりの料理長の顔。怒りでも困惑でもなく、ただ真剣な目でこちらを見下ろしながら言った言葉。
『――お嬢様。この場所は、覚悟を持った者だけが立てる場所です。もしも今後、ここに立ち入りたいのでしたら―――私を認めさせてごらんなさい』
あの日の熱さが、私の胸の奥でじわりと戻ってくる。あの言葉があったから、私は諦めなかった。どれだけ遠回りをしても、料理と向き合い続けた。そして今、こうして再び調理場の前に立っている。
私は気づくと、口の端が自然に持ち上がっていた。
「クラリスさん……?」
レオン様が心配そうにこちらを見ている。料理長は私の表情の変化に気づいたのか、わずかに眉をひそめてこちらを見つめていた。
私は背筋を伸ばし、料理長をまっすぐに見据えた。この目は知っている。覚悟を試す目だ。そしてこの熱気も、この張り詰めた空気も。私はずっと、この場所を求めていたのだから。
「わかりましたわ」
私は静かに、しかし一語一語を確かめるように言葉を紡いだ。
「その勝負、受けて立ちますわ!」
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