第11話 買い出しと怒号
マルシェリエの大通りには朝の湿り気がまだ残り、軒先から伸びる日除け布の影が斜めに重なり合いながら、ゆっくりと人の流れを包み込んでいた。露店では野菜を並べ替える音や秤の皿が触れ合う軽い金属音が続き、遠くからは焼きたてのパンの香りが風に乗って漂ってくる。
私は抱えた籠の重さを感じながら、隣を歩くダガーさんの足取りへ自然と歩幅を合わせていた。
「今日買うのは干し肉と豆、あとは種油。それから少なくなってきたから、安い乾燥野菜も沢山必要……お金足りるかな」
彼女は振り返らず手順を確認するように淡々と口にしているが、これは私に教えているのではなく、シスターに任された買い物リストを頭の中で整理しているのでしょう。
「……新鮮なものより、長く持つものを優先なさるのですね」
そう問いかけると、ダガーさんはわずかに肩をすくめ、当然といった様子で答えた。
「新鮮なものは美味しいけど高いし、保存が難しい。それに炊き出しに来るヒトだって、毎日同じ人数じゃない。増える日もあれば少ない日だってある。」
なるほど。実に合理的な理由ですわね。炊き出しの日には予想外の人数が集まり、孤児院では成長期の子どもたちが常に空腹を抱えている。乾燥野菜であれば栄養もあるし量が買えるから、この場合はうってつけな食材なのですわね。
「なるほど。理解しましたわ。ではまず軽いものから買っていきましょう」
「……言われなくてもそうする」
ぶっきらぼうなダガーさんの言葉に頷きながら、私は大通りを見渡す。マルシェリエは戦争の影響を完全に脱したわけではない。荷車を引く老人、値段交渉をする主婦、走り回る子どもたちの笑い声――どれも脆い均衡の上に成り立つ平穏ではあるが、それでも皆が一様に努力してこの街を盛り上げようとしいる。
「ついた。ここがいつも野菜を買ってるお店」
「ここが……」
ダガーさんが足を止めた先には、木製の看板に野菜の絵が描かれた食料店があり、入口の扉は半分だけ開け放たれていた。店内は外より少し暗く、乾燥した香草の匂いと土の気配が混じり合っている。
「なるほど。いいお店ですわね」
「嬢ちゃん。見ない顔だな?」
中へ入った瞬間、カウンターの奥に立っていた大柄な男性が目に入る。彼は眉間に深い皺を刻み、顎には無精髭が残っており少しだけ圧を感じる。
初対面の私へ向けられたその視線は明確な警戒を含んでおり、歓迎とは程遠い空気が店内に落ちた。しかし次の瞬間、彼の視線が私の横へ移ると、わずかに肩の力が抜ける。
「……ダガーちゃんか。いつものか?」
低い声が漏れ、威圧感がほんの少し和らいだのを感じる。ただし顔つきそのものは変わらず、むしろ無愛想さだけが強調されている。
「うん。いつもの買い出し」
ダガーさんが短く答えると、店主は頷き、何も言わずに計量台を整え始めた。
その様子を見ながら、私は台の上に丁寧に置かれた食材を眺める。乾燥野菜だけでなく、新鮮な葉物に根菜、数は少ないが果物もおいてる。しかも全体的にかなり質が良いのには驚い来ましたわ。
「やだねぇダン。お客さんの前でまた怖い顔して。ほら笑顔だよ。え が お!」
店を散策していると奥から朗らかな声が響き、布の暖簾を押し分けて女性が現れた。丸みを帯びた頬に柔らかな笑みを浮かべ、両手を腰に当てながらこちらへ歩み寄る姿には、店全体の空気を一瞬で変える力がある。どうやら彼女もここの店員。いや彼女の対応を見るに、おそらくは奥様なのだろう。
その証拠にダンと呼ばれたカウンターの男性の表情が、少しだけほころんでいる様に見える。
「いらっしゃい。見ない顔だけれど、新しい修道院のお手伝いさんかしら?」
「ええ、少しだけお世話になっております。クラリスと申しますわ」
「あら、よく見たら随分と可愛らしい嬢ちゃんね。まるで何処かのお貴族様みたいだわ!」
挨拶を返すと、女性は嬉しそうに目を細め、隣の店主を肘で軽く小突いた。
「私はアン。それから、この人ねダンっていうの。怖い顔だけれど悪い人じゃないのよ。昔からこういう顔なのよ。ちなみに私の旦那様ね」
アンさんがそう言うと、ダンさんは不貞腐れたように背を向ける。そんな二人の姿に私は思わず笑みを浮かべてしまう。最初は警戒されているのだと思ったが、失礼ではあるがどうやらそう言う顔の方だったらしい。
「安心しましたわ。少し緊張してしまいましたの」
そう答えると、奥さんは声を上げて笑い、棚から籠を取り出して差し出した。中には見たことがない小さな果物が沢山入っていた。
「嬢ちゃん面白いね。気に入ったよ。ここから何か一つ好きに選んでいいよ。もちろんダガーちゃんもね!」
「よろしいのですか?」
「気にしないでちょうだい。傷があるからどうせ売り物にならないからね。もちろん味はアタシが保証するよ!」
そこまで言われたら断るのは逆に失礼というもの。お言葉に甘えていただくとしましょう。
横を見るとダガーさんは一口サイズの果実を手に取り、口の中に放り込んでいた。そしていつもの無表情とはうってかわって、頬に手を当て年齢相応な笑みを浮かべる。そんな彼女につられて、私も果実を一つ口に含んだ。
「こ、これは……!?」
果物が舌に触れた瞬間、私の口の中に広がる程よい酸味。しかし決して不快なものではなく、どちらかと言うと爽快感のあるものであった。そして次にやってきたのは油分を多く含んだミルキーな甘み。
「こんな美味しいもの初めて食べましたわ! 一体何という果物ですの!?」
「あははは。ずいぶん美味しそうに食べるね! これは果物じゃなくて、アシッドっていう木の実だよ。この地域で群生しているんだけど、この季節になると沢山の実をつけるのさ」
「なるほど、これは木の実なのですね。通りで!」
見た目と強い酸味と甘さから果物だと思っていたましたが、まさか木の実だったとは……確かに油分の多さは果物にしてはおかしいと思いましたが、アンさんの言う通り木の実なら納得ですわね。
「……おい。野菜は詰め終わったぞ」
「あら、もう少し話したかったけど、まだ用事もあるだろうしこの辺で終わりましょうかね」
私がアシッドの実に興奮していると、山盛りの野菜が詰まった奥から籠を抱えるダンさんがやってくる。それをダガーさんが受け取ると、袋から銀貨を数枚手渡している。
「ちょうどだな。また来い」
「また来い。じゃないでしょう!まったく。じゃあねお二人さん!」
「ふふ。ええ、それでは御機嫌よう」
「うん。また来る」
そう言いながら真逆の性格を持つ二人に見送られ、店を出たときに私はふと違和感を覚えた。籠の中身と支払った金額が、どう考えても釣り合っていないのである。
「……随分とお安くありませんか?」
ダガーさんは歩きながら当然のように答えた。
「……炊き出し。孤児院が手伝ってるから」
その言葉に私は足を止めかける。つまりこれは慈善ではなく、関係性によって成立した相互扶助だと言うことですわね。
「皆、シスターが来てから変わったらしい。店も、人も」
彼女の視線は前を向いたままだったが、その声には確かな敬意が含まれている。だがその言葉にまた違和感を感じた私は思わず尋ねる。
「神父様は、以前からそのような交流を?」
「神父様は……外、あまり出ない人。シスターが来てから始まった」
続いた言葉に嘘は感じられなかった。
「そもそも炊き出しが始まったのは、ここ1、2年くらい前から」
私は思わず目を瞬かせる。もっと長い歴史があるものだと思い込んでいたが、この街の支え合いは意外なほど新しいものだった。それどころかシスターすら、ここ最近この街にやってきたばかりだと言う。
しばらく歩いたあと、私は少し言葉を選びながら尋ねた。
「……ダガーさんも、その頃に?」
彼女は歩みを止めず静かに頷くがそれ以上の会話はなく、それからしばらく沈黙が続いた。
◇
通りを進むにつれて人通りはさらに増え、露店の呼び声や値段交渉の声が幾重にも重なりながら街の温度を押し上げていった。私たちは肩が触れない程度の距離を保ちながら歩きながら、自然と隣の少女へ視線を向ける。
ダガーさんは両手に籠を抱え、慣れた様子で人波を避けていく。その歩き方には迷いがない。
「その、突然、知らない人が来て働き始めたら……やはり驚きますよね」
沈黙に耐えられなくなった私がそう言うと、彼女は少しだけ歩調を緩め、視線を前に向けたまま小さく口を開いた。
「……少し、不安だった」
控えめだったがその声の感じから、それが誤魔化しのない本音だと理解できる。
「最初にあなたが来たとき、シスターがいなくなるかもって思った……」
私は思わず息を止める。その言葉に含まれているのは疑念ではなく、失うことへの恐れだった。戦争孤児として生きてきた子どもにとって、居場所を与えてくれた存在がどれほど大きいものなのかは想像に難くない。
「私は少しお手伝いをしに来ただけで、シスターの代わりになるつもりはありません。それに誰かを追い出すような立場でもありませんよ。だから安心してください」
その説明を聞いた瞬間、ダガーさんの肩からわずかに力が抜けたのが分かった。表情はほとんど変わらないものの、歩幅が自然なものへ戻っていく。
しかし安堵は長く続かなかった。彼女は不意に足を止め、真っ直ぐこちらを見上げる。
「……じゃあ、だれに頼まれて来たの?」
その視線には子どもらしい遠慮がなく、相手の核心へ踏み込もうとする強さがあった。
「名前は聞いた。でも、それだけ。言葉づかいも、料理も、知識も、立ち振舞も……普通じゃない」
彼女は言葉を探しながら続ける。
「かと言って私達みたいな平民には見えない。クラリスさんは―――きっと悪いことをした貴族の人なんでしょ?」
その言葉に街の雑踏が遠くへ退いたように感じられた。周囲では人々が行き交い、商人の声が響き続けているにもかかわらず、私たちの間だけ時間が静かに止まったような感覚がある。
私はすぐに答えることができなかった。
嘘を重ねることは簡単ではあるし、曖昧な説明で誤魔化すことも可能だったが、この少女の真っ直ぐな視線を前にすると、それらはどれも不誠実に思えてしまう。しばらく考えた末、私はふっと小さく微笑み、彼女の頭へ手を伸ばした。
その瞬間、驚いたように目を瞬かせるダガーさんの髪を軽く撫でながら、わざと肩の力を抜いた声で言う。
「隠していましたが私はですね――食と愛の伝道師なのですわ」
数秒の沈黙のあと、彼女の眉がわずかに寄った。からかわれたと思ったのだろう。
視線が露骨に不満を帯び、口元がほんの少しだけ尖る。その反応があまりにも素直で、私は思わず小さく笑ってしまった。
「……冗談です。申し訳ありません」
私はダガーさんにすぐに謝り、表情を改める。
「ただ、身の上を無闇に明かせない事情があるのは事実です」
冗談を消した声で続けると、ダガーさんは黙って聞いていた。
「ですが、皆さんに迷惑をかけるつもりはありません。ここで出会った方々は、本当に良い人ばかりで……だからこそ、この街が戦争によって傷ついている様子を見るのは、とても悲しいのです」
私は歩きながら街並みへ視線を向ける。修繕途中の壁、欠けた石畳、武具屋の前に並ぶ修理待ちの剣や盾――どれもが戦争の影を静かに語っていた。
「私が今考えていることは一つだけですわ。それはこの街を、少しでも救うこと」
私の言葉にダガーさんはしばらく何も言わなかったが、やがて小さく肩をすくめる。
「……そう。なら今はそれでいい。信じる」
素っ気ない返答だったものの、その目の奥にはわずかな高揚が混じっていた。抑えようとしても隠しきれない期待の光が、ほんの一瞬だけ覗く。
それはここに来た時に見た、ルネ君やジャン君達に近しいものを感じた。
「なにか期待されてます?」
「……してない」
即座に否定しながら歩き出す背中を見て、私は軽く肩を揺らした。
その後も私たちはいくつかの店を巡り、油、布、香草などを足りないもの買い揃えていく。店ごとに挨拶が交わされ、値引きが自然に行われ、時には余った食材がそっと籠へ追加される様子を見ながら、修道院がこの街の中でどれほど深く根を張っているのかを実感していた。
買い物が一段落し、帰路へ向かおうとしたそのとき――通りの奥から、空気を切り裂くような怒鳴り声が響いた。
怒気を帯びた低い声が石壁に反響し、続いて別の甲高い声が重なる。市場のざわめきが一瞬揺らぎ、人々の視線が同じ方向へ集まっていく。私はダガーさんと自然に顔を見合わせ、自然と怒号のする方角へと足を進めた。
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