第10話 優先すべきは合理か道徳か
朝六時。まだ空気に夜の冷たさが残る時間帯、修道院の小さな礼拝堂には、静かな祈りの声が満ちていた。
淡く差し込む朝の光が、色褪せたステンドグラスを通して床へと落ちる。その柔らかな光の中で、子供たちは揃って膝をつき、手を組み、目を閉じている。
ジャン君も、ルネ君も、マリーちゃんも、リゼットちゃんも――そしてダガーさんも。
普段の賑やかさからは想像もできないほど、静かで穏やかな時間だった。そんな静謐な空間に、シスター・エトワールの穏やかな声が、ゆっくりと祈りの言葉を紡いでいる。
「今日という一日が、誰かにとって幸いなものでありますように」
それは決して長い祈りではない。だが、その一言に込められた願いの重みは、決して軽くはなかった。戦争の爪痕が残るこの街で、今日という日を平穏に暮らす。それだけでもきっと大変なことなのだから。
そんな祈りの中で子供たちもまた、それぞれの仕草で祈りを終える。ジャン君は少しだけ雑に、ルネ君はきっちりと、マリーちゃんは丁寧に、リゼットちゃんは少し遅れて、そしてダガーさんは誰よりも静かに。
そうして各々の祈りを終えたあとは、いつも通りの日常がすぐに戻ってくる。水汲み、簡単な掃除、朝食の準備。昨日の炊き出しとは違い規模は小さいが、決して手を抜く事はない。
「ジャン、それちゃんと拭いて!」
「やってるってー!」
朝から変わらぬやり取りに、私は小さく息を吐く。先程までの静けさは何処へやら、ジャン君とマリーちゃんの喧嘩から始まり、リゼットちゃんがアタフタしながら二人を止め。ルネとダガーさんは顔を見合わせてため息を吐いている。
軽作業を終え、朝食を済ませると、子供たちは自然と机の並ぶ部屋へと集まっていく。そこが、この修道院における"教室"だった。
特別な設備があるわけではない。机と椅子、黒板だけの簡素な作り。それでも、ここで行われる学びの質は、決して低いものではないと昨日の様子から理解している。
「では、始めましょうか。今日は、掛け算からです」
「うわー……」
シスターの言葉に、ジャン君が露骨に顔をしかめる。
「ジャン君。面倒くさがってはいけませんわよ」
「えー、クラリスお姉ちゃん。だってさー、掛け算って数えるの増えるからさー」
「あら、むしろ減りますわよ」
即座に返された言葉に、ジャン君が「え?」と間の抜けた声を出す。私は黒板の方に向き直ると、シスターは軽く頷いて静かに机の上に小さな木片を並べ始めた。
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「この木片はいくつありますか? はい、ルネさん」
「……6です」
ルネ君が即答するとシスターはにこやかに微笑み、黒板へと式を書き込む。
「2×3。では、この数式に変えるなら、どうやって分けますか?」
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「……えっと、こうやって。二つ組を3セットにします」
「ええ、それで正解です。よく出来ました。皆さん拍手」
シスターが笑顔で拍手すると、皆も合わせて手を叩き始めた。当のルネ君は少し恥ずかしそうにしているが、どこか誇らしそうにも感じられて、とても微笑ましい光景ですわね。
「これが掛け算の基本です。"同じ数をまとめて扱う"ための方法です」
ジャン君が眉をひそめる。
「でもさ、それ足し算でもよくない? 3+3で6じゃん」
「確かに。掛け算、足し算はあくまでも合計を導き出すもの。問題文を解くという一点ではジャンさんの意見も正しいと言えます。では―――」
シスターは配置を変えて、黒板にも計算式を書き込んだ。
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「次は3×2です。これの答えはなんでしょう。はい、ジャンさん」
「……6」
「はい、正解です。ではこの式と前の式。違いは何でしょう」
「同じじゃないの?」
ジャン君の言葉に、シスターは今度は少しだけ踏み込んだ話を始める。
「では現実で考えてみましょう。3種類の果物が入ったものが2袋あるのと、2種類の果物が入ったものが3袋ある場合、これは同じと言えるでしょうか?」
「……あ」
シスターの問いに、ジャン君の表情がわずかに変わる。
「違う……かも」
「ええ。個数は同じでも、"扱い方"が違います」
シスターの指が木片をなぞる。
「こちらは"三つずつ分けたもの"。こちらは"二つずつ分けたもの"。配るとき、運ぶとき、保管するとき――やり方が変わります」
言葉と同時に、シスターはそれぞれの木片を軽く持ち上げて見せる。三つのまとまりはやや重く、二つのまとまりは軽い。その違いは、持ち上げる動きの中にも自然と表れていた。
子どもたちはその様子をじっと見つめていると、やがて、マリーちゃんが控えめに手を挙げる。
「例えば、パンを配るとき……ですか?」
その問いに、シスターはすぐに頷いた。
「その通りです。三つずつ配るのか、二つずつ配るのかで、配れる人数が変わりますね」
三つずつなら、少ない人数に多くの物を行き渡らせられる。逆に二つずつなら、適量をより多くの人に行き渡らせられる。数式と答えだけで考えれば同じに見えるが、現実になるとそうはいかない。単純な数の違いが、そのまま結果の違いになるから。
その説明を聞いた瞬間、リゼットちゃんが小さく息を呑むようにして口を開いた。
「……あ、昨日の炊き出し」
ぽつりと零れた言葉に、シスターは穏やかに頷く。その瞬間、教室の空気が、ほんのわずかに引き締まったように感じられた。
「そうです。昨日も同じことが起きていましたね」
静かにそう言ってから、シスターはゆっくりとジャン君の方へ視線を向ける。名前を呼ばれる前から、何かを察したのだろう。ジャン君の背筋がわずかに伸びる。
「ジャン君」
「は、はい」
いつも温和なシスターの声から先ほどまでの軽さが薄れ、少しだけ硬い印象が表に出てきている。
「私たちは昨日、炊き出しをしていましたね」
「? う、うん」
問い自体は単純だが、その先に続く言葉を予感しているのか、ジャン君はどこか落ち着かない様子で答える。シスターはその様子を見ながら言葉を続けた。
「炊き出しを終える際に、私は鍋の中を覗いてみました。すると具材だけが少なくなっていて、残りはスープのみとなっていました」
その言葉に、ジャン君の表情がぴたりと止まり次の瞬間、小さく声が漏れた。
そういえば最後に青年へスープを渡した後、底に少しスープが残っていたにも関わらず、シスターは炊き出しが終わったと言っていたのを思い出す。
「……あ」
私と同じで、どうやらジャン君も思い当たる節があったのだろう、先程以上に体を強張らせて目には涙を溜めていた。その反応を見て、シスターはさらに穏やかな声で続ける。
「気が付きましたか? 昨日、ルネ君に注意された後も、頼まれたら具材を多く入れていましたね」
教室の中に、わずかな沈黙が落ちる。
ルネ君は何も言わず、ただ静かにジャン君の方を見ていた。しかし決して責めるような視線ではない。どちらかと言うと、心配そうな目をしている。
ジャン君は視線を落とし、小さく肩をすくめる。
「ご、ごめんなさい……シスター」
それは消え入りそうな声だったが、シスターは静かに首を横に振った。
「いいえ。多く入れたこと自体を責めているわけではありません」
その言葉に、ジャン君がわずかに顔を上げる。
「ただ――分け方が変わると、最後まで配れる量も変わってしまうのです」
そう言って、シスターは再び卓上の木片を指し示す。
三つずつ分けた木片と、二つずつ分けた木片。
「同じ数でも、分け方ひとつで"何人に届くか"が変わります。昨日は、具材を多く入れた分、早く炊き出しが終わっていましたね」
そういえば、リゼットちゃんも炊き出しの終わりに、そのようなことを言っていましたわね。
「均等に分けていれば、もしかしたら、もう少し多くの人に渡せたかもしれません」
その一言に、ジャン君の肩がさらに小さくなる。そしてシスターは少し間を置いてから言葉を続ける。
「誰かに多く渡すと、その分だけ、別の誰かに渡る量が減ってしまいます」
ゆっくりとした言葉だったが、決して責めるような口調ではなく、どちらかと言うと励ますような優しい口調で話している。
「今回の場合――最後に受け取る方は、誰でしたか?」
問いかけに、子どもたちは顔を見合わせる。そしてルネ君が、静かに答えた。
「……広場の管理人さん」
「ええ、その通りです」
シスターは静かに頷く。
「いつも最後の一杯をお渡ししていますね。ですが昨日は、具材がほとんど残っていませんでした」
その場の情景が、自然と浮かび上がる。鍋の底、具の少ないスープ、そしてそれを受け取る人物の落胆顔。
ジャン君は唇を噛み、うつむいたまま動かない。
「うう……ごめんなさい……」
それはいつもの彼からは想像もつかないような、絞り出すような悔しそうな謝罪だった。彼は良かれと思って炊き出しの具材を多く持った。きっと感謝もされたのでしょう。しかしその結果、彼の知らぬ所で他の人が不幸になっていたと知って酷く後悔している。
けれどその声に、シスターはやわらかく微笑む。
「うふふ、大丈夫ですよ」
その一言で、空気が少しだけ緩む。
「管理人さんは、笑って受け取ってくださいましたから」
シスターはしゃがみ込み、ジャン君と目線を合わせる。そして優しく抱きしめた。
「ジャン君が"多く入れてあげたい"と思った気持ち。それはとても大切です」
その言葉に、ジャン君がわずかに顔を上げる。
「困っている人に、少しでも多く渡してあげたい。そう思えることは、とても良いことです。ただ、その優しさをどう使うかは、少し考える必要がありますね」
そう言うシスターの声はいつも通りの優しく、温かなものに戻っていた。
「みんなに少しずつ分けるのか、特定の人に多く渡すのか。その選び方で、結果は変わります」
シスターは立ち上がり、教室全体を見渡す。
「だからこそ、計算が必要なのです。どれだけあって、何人いて、どう分けるか」
再び、卓上の木片に視線が戻る。
「そしてもうひとつ」
シスターは少しだけ声を和らげた。
「問題は一人で解くよりも、みんなで解いたほうが間違えずらい……そうでしょう?」
その言葉に、子どもたちが顔を上げる。ジャン君も顔を上げて、真っ直ぐな眼差しでシスターを見つめている。
「昨日だって、途中で誰かに相談できたかもしれませんね」
ルネ君が小さく頷き、マリーちゃんも「私も言い過ぎてたかも……」と呟く。リゼットちゃんは、そっとジャン君の方を見ていた。
「自分だけで決めずに、周りと話すこと。それも大切な計算の仕方なのです」
それは静かながらも、確かな重みのある言葉だった。そして最後に、シスターはいつもの柔らかな微笑みを浮かべる。
「ですから皆さんも、困ったときは助け合いましょう。いいですね?」
その言葉に、教室の空気がふっと軽くなる。
「……うん」
そう小さく呟いたのは、ジャン君だった。まだ少しだけ気まずそうではあるが、その表情には先ほどまでの沈み込んだ様子はない。そして隣でルネ君が「今度は一緒に考えような」と声をかけると、ジャン君は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……ボーッとして、どうしたの?」
そんな彼らの姿を静かに眺めていると、隣りに座っていたダガーさんが私の腕を指で突いてくる。
「いえ、ただ驚いていたのですわ。ただの計算の授業のはずが道徳……いえ、世の中の仕組みと生き方の授業にまで昇華されているのですから」
「……いつものこと」
そう言いながら前を見つめる彼女の表情はいつも通り無感情に見えるが、どこか楽しそうな雰囲気を感じる。きっとこの光景は彼女の言う通り、いつもの事なのだろう。でも……。
「でも素晴らしいことですわ」
「……そうなのかな?」
ダガーさんは少し困ったように首を傾げる。まあ、言いたいことはわかりますわ。
「ええ、そうですわ」
「ふーん。そっか」
その言葉を最後に会話は途切れてしまう。だが、先程までの静けさが嘘であるかのような、目の前で広がる子供たちの騒がしい勉強風景を私たちはついつい微笑んでしまうのだった。
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