002 敗北からのスタート
衝撃的な入学式の翌日。
見廻組に配属された無月カゲロウは、風紀委員の腕章を腕に巻き、刀を腰にぶら下げ放課後の校内を歩いていた。
放課後の裏庭。
無月カゲロウは、真面目な顔で空を見上げる。やおら右手を突き出すと、虚空に向かって人差し指で『福利厚生』と滑らかな筆跡で描き、満足げに一つ頷く。
「初日からサボりか、無月」
背後からの声に、無月は『福利厚生』の文字をポケットに仕舞い込むような仕草をしてから振り返った。生徒会長の柳生ジュウザだ。
こんなにも存在感のある男の気配を、声をかけられるまで察知できなかった。
その異常が、無月の中に正体不明の不安を生じさせた。
「……言い訳していいですか? 会長殿」
「言ってみろ」
「空に文字を描くと、なんだか心が落ち着くんです」
「だからなんだ。大体、落ち着けなきゃならない理由でも?」
「そりゃ、たっぷり。俺、右も左も分からない新一年生ですから」
「道は示してやったろ、お前の道は風紀委員として学園に尽くすことだ」
これは一本取られた。
無月は、こめかみをポリポリと搔いて誤魔化すように微妙な笑みを向けた。
「そんなに暇なら、立ち合ってみるか?」
「……はい?」
「なに、ただの座興だよ。剛力を叩きのめしたからといって、風紀委員をナメられるのもよくないと思ってな」
「あの、言ってる意味がよく分からないのですが。立ち合うって、誰と?」
「俺だ」
……瞬間、無月の目に青い炎が宿る。
この立ち合いは、侍就職への特急券。最も『日の本』に近い男に勝つことが出来れば、自分の将来はより確実なものになるだろうと悟ったからであった。
「勝ったら、何をしてくれるんです?」
「そうだな、生徒会長の椅子でもくれてやろうか」
無月が、刀に手を置く。
立会人はいない。勝負開始の合図は一羽の鳥の声だった。
――ガギィン!!
「惜しいな」
閃光の如く振り抜かれた無月の刃を、柳生は間一髪で受け止める。
しかし、その表情に焦りの色はない。まるで、分かっていたと言わんばかりの余裕だ。
「まだだ」
一瞬、力尽くで押したかと思えばすぐさま刀から手を離した無月は、地面の砂を握ると迷わずに体勢を崩した柳生の顔面へ投げつける。
更に、水面蹴り。弧を描いて疾走る脚を、しかし、柳生は潰れた視界のままに半歩だけ下がって躱した。
「これも避けんのかよ……ッ」
空中に跳ね上げた刀の柄を跳躍の頂点で掴み、着地と同時に鞘へ滑り込ませる続けざま――踏み込み。
助走より早く疾走って閃光の居合を発動したが――またしても、柳生は受け流した。
だが、その先まで読んでいるのが無月だ。
突っ込んだ勢いに任せ、今度は前方宙返り。見舞ったのは、頭上から降りかざすアクロバットな蹴り。
完全に視界の外からの攻撃だ。これを躱すことなど――。
「一つ、教えてやろうか」
……っ!?
「最強は、俺じゃない」
返事をするより先に、異常な反射神経で躱した柳生が、刀の柄を無月の土手っ腹へ突き刺す。
刃で斬られれば『魂の痛み』で済むが、峰や柄による打撃はただの『物理的な暴行』だ。
これは、気を失わない限り逆に苦しい。地に膝をつき鳩尾に手を当てると、無月は大きく息を吸い込み――。
「おご……っ」
そんな姿を、柳生はまるで遥か天上から見下ろすように目を向けた。
「勝負ありだな、無月」
「く……クソ……っ」
「さて、座興とはいえ俺は生徒会長の席を賭けたんだ。等価値とまでは言わねぇが、なんかくれてもいいだろう?」
悪戯な笑みで、茶化すように言う柳生。
そんな生徒会長の姿を見て、無月はニヒルに笑った。
「あげるわけないでしょう、まだ負けてない」
「……ほう」
「決闘は仕切り直しですよ、会長殿。もう一年もすれば、俺はあなたよりも……ゲホっゲホっ」
「そうか、仕切り直しか!! うわっはっは!! そりゃいいプレゼントだ!!」
柳生は、空が割れんばかりの大声で笑う。
そんな姿を見て、無月は、なぜ最強でない柳生ジュウザが生徒会長に君臨しているのかが分かったような気がした。
「いいか、無月。合理主義者が合理的思考を貫くことに合理性はないんだ。言ってること、分かるか?」
「今度は説教ですか。随分とハイになってらっしゃるようだ」
「ククッ。あぁ、気持ちがいいぞ! これこそが勝者の特権だ!」
心底悔しそうな顔で俯く無月。
立ち上がることも出来ないから、黙って耳にするしかないのが尚のこと腹立つ。
「組織で学べ、無月。人間が、如何に自分の思い通りにならない生き物であるかを……な」
「まるで、すべてを見てきたかのようですね」
「クククッ、そう感じるならお前も未熟だな。可愛げがあって安心したぞ!」
「見下してんじゃ――」
「俺なんてまだまだ! 何せ、高校生だからなっ!」
柳生の器の大きさに、思わず言葉を失う無月だった。
「それでは、引き続き見廻りを頼む。あと、今日はお前が風紀委員室の鍵を返しに行くんだ。忘れるなよ」
「それって、用事もないのに最後まで室にいろってことですか?」
「おう」
「なんて非合理ですか、バカげてる」
「だが、お前は俺に負けたからなぁ」
「負けてねぇ!」
……とかなんとか言いながら、その後は柳生の言いつけ通り見廻組が揃うまで室にて待機している無月。
(クソ、なんなんだあの人は)
ジンジンと痛む腹をさすりながら、無月は一人、誰もいない風紀委員室の窓から夕焼けを眺める。
効率良く、最短距離で、ただ『将来の安定』だけを掴み取るための学園生活になるはずだったが――どうやらこの私立徳川学園には、自分の精緻な計算盤を軽々と狂わせてくる『非合理な化け物』がいるらしい。
「……くっだらね」
反論なら、いくらでも出来た。
しかし、反論すること自体が合理主義者である無月カゲロウに矛盾することを、彼は深く理解している。
だから、無月は頭を振って深いため息をつくと、再びオレンジ色の空へ目を向けたのだった。
× × ×
青春を謳歌する昼休みの教室の中、無月は一人、つまらなそうに窓の外を眺めていた。
当然だ。初日に生徒会長から直々のスカウトを受けた一年生など、同級生から恐れられないわけがない。
(見廻り……もっと効率的なルートはねぇのかな)
無月は孤独が好きだ。
しかし、それは同時に無知でもある。
彼は、あまりにも騙され過ぎて、一人で生きることに慣れすぎて、絆を結ぶことを本気で嫌っている。
それが、どれだけ寂しいことなのかを、彼はまだ知らない。
「ねぇ、無月くん」
そんな、寂しい少年である無月を気にかける者があった。
「なんだ」
夜叉キリコ。
長い前髪の奥から兎のように赤い目を覗かせる、白い肌と温厚な顔立ちが特徴の女子生徒。
そんな彼女だが、『姫夜叉』という容姿に似つかない異名を持っている。
一体、どんな由来があるのだろう。
無月は、セーラー服に帯刀する彼女を見ながら、そんなことを思った。
「明日から始まるね、『比武』」
比武とは、生徒同士で戦闘力を推し量るための実力比べのトーナメントである。
まずは教室単位で戦い、次に教室から代表を選出して学年首席を定める。
本来、一年生はこの比武で教室代表に勝ち上がることで、ようやく風紀委員の予備メンバーとなる資格を得るのだが――。
「無月くんは、入学初日から正規の風紀員だもんね。凄いよ」
「どうも」
無月は、憂鬱だった。
先日、この比武で学年トップに立てなければ、柳生が仕切り直しに応じないと命じたからだ。
『本来、俺と戦うには色々と資格が必要なんだぜ』
『でしょうね』
『だから、勝ってこい……というか、負けたら風紀委員もクビな。そうなったら、侍の夢も遠のくだろうなぁ』
(チクショウ、思い出したら腹立ってきた)
柳生に精神を乱されまくっている無月だった。
「無月くんは、どこで居合を覚えたの? あんな抜き方、見たことないけど」
「独学」
「ど、独学? 道場に通ってたわけじゃないの?」
「道場に通ってたら、あんな汚ぇ戦い方するわけねぇだろ」
だからこそ、彼は徳川学園を選んだ。
両親がいなくとも、育ちが悪くとも、ここでは実力さえ示せば無償で学費を借りられる。
アルバイトへ時間を費やすことが侍になる夢を叶えるのに無駄過ぎると考えた上で、無月は最も効率的な手段を選んだのだ。
「でも、武士道は大切だよ」
「勝つことより大切なことなんてないだろ」
嘗て、『武士道とは死ぬことと見つけたり』と語った侍がいたというが――初めて聞いた時、無月は鼻で笑った。
死ぬほど金がなくて明日食う飯に困っていた無月にとって、死の覚悟そのものが娯楽みたいなものだと思ったからだった。
「……ふふ」
昔のことを思い出していた無月に、妖しげな笑みを浮かべたかと思うと目を伏せる夜叉。
無月は、彼女の表情を一瞥すると「変な奴」と返事をして再び空を見上げた。
「いいこと思いついた、私が武士の心得を教えてあげる」
「いらない、濁るから」
冷たく突き放すと、周囲で見ていた生徒たちは夜叉を守るように彼女を無月から引き離す。
彼女は名残惜しそうに空を見上げる少年を見つめたが――彼は、意外なことに夜叉の言う『勝つことより大切なこと』について考えた。
(いや、ないな)
早くも結論づけて、再び空を見上げる。
そして、人差し指で『有給休暇』と描き、今度はポケットではなく、制服の胸ポケットへとそっと滑り込ませた。




