第8章:妨害者(その2)
私を心から必要としてくれる人なんて、どこにもいない。
最初から分かっていたはずなのに、私はずっと、その事実から目を逸らし続けてきた。……あの、変な男の子に出会うまでは。
確信している。私の人生は、ただ「誰かの期待に応えること」と「誰かに嫌われること」の二つだけでできている。期待を裏切れば、待っているのは「嫌悪」という選択肢だけだ。
いまだに、生きる目的は見つからない。
地図も持たずに歩き続け、迷子になっていることに気づきながら、それでも足を止められない。そんな絶望的な行軍。
もし、誰も将来の夢を持たず、進むべき方向も分からずに震えている一人の少女に気づいてくれたなら。……でも、誰もヒントなんてくれない。
私も、誰かに導いてほしい。
だから、こんな風に剥き出しの悪意を向けられる状況に、どう対処すればいいのか分からないんだ。
「……あんたなんて、大嫌いよ」
真正面からそう告げる相手と、どう向き合えばいい?
蒸し暑い備品倉庫。閉じ込められた空間で、私は恵美さんと二人きり。
酸素が足りない苦しさを感じる余裕さえ、今の私たちにはなかった。
彼女は、溜め込んでいた私への不満をすべて吐き出した。
……それは、私がかつて、あの変な男の子にぶつけたものと同じだった。
私は黙るしかなかった。脳が思考を拒否し、ただ本能だけで動こうとしている。
「……最近、ずっと考えてたのよ。レナさん」
長い沈黙を破り、彼女が言った。
私を見つめる彼女の目は、真っ直ぐで、鋭かった。
獲物を狙い、決して逃がさない……そんな、飢えた獣のような視線。
恵美さんが、ゆっくりとカバンの中に手を伸ばした。
チャックが開く音が、私の耳には死を告げる鐘の音のように響く。
彼女が取り出したのは、一本の鉄定規だった。薄暗い電球の光が、その冷徹な銀色の表面に反射する。指の関節が白くなるほど、彼女はそれを強く握りしめていた。
「……恵美さん?」
なぜ、鉄定規なんて持っているの?
彼女の姿が、急に恐ろしいものに見えた。迷いは消え、体からも震えが消えている。
「その綺麗な顔……これで傷つけられたら、どんな風になるかしらね?」
彼女は淡々と問いかけながら、手のひらで定規を軽く叩いた。
――パシッ、パシッ。
金属が肌を打つ音が、私の本能に警報を鳴らす。
……まずい。
恐怖が足元から背骨を駆け上がってくる。無意識のうちに、私の足は一歩、後ろへ下がっていた。
体が震える。今度は、私の番だった。
嫌な汗が止まらない。肝心な時に、私の脳は協力してくれない。
「ねえ、レナさん」
彼女が追い詰めるように呼ぶ。
「なんで下がるの? 全部、あんたのせいじゃない。あんたがそうやって愛想を振りまかなければ、こんなことにはならなかったのに」
どうしよう。
本当に怖い。足が勝手に後退を続ける。
彼女が近づいてくる。一歩、また一歩。
ついに、私の背中が冷たい壁に当たった。
もう、逃げ場はない。
荒くなる呼吸を、顔を覆った両手で必死に抑える。
……ここで傷を負うしかないの?
彼女は私の顔を狙っている。一瞬だけ、彼女を見返した。
今の彼女は、私の知っている久保田恵美じゃない。後先なんて何も考えていない、理性を失った怪物だ。
……ん?
待って。何か、思い出した。
理性を失った、怪物……?
そうか。私も、本能に従えばいいんだ。
危険な状況に置かれた時、人間は生存のために最高のパフォーマンスを発揮する。
いつか読んだ安全ガイドに、そう書いてあった気がする。
落ち着かなきゃ。脅威そのものじゃなく、自分が今すべき「動作」に意識を集中させる。
彼女が、もう目の前まで迫っている。
周囲に武器になるものはないか探すけれど、役に立ちそうなものは見当たらない。
「レナさん……詩織レナさん……どこへ行くつもり?」
言葉に反応してはダメだ。
集中しろ、私……!
何か、突破口を。
思考が混濁する中で、なぜかあの男の子の顔が浮かんだ。
あいつの、あの気だるげな声。あいつに聞きたい「質問」のこと。
……どうして、よりによって今、あいつのことを思い出すの?
でも、そのおかげで、私の心は不思議と凪いだ。
おかしな話だけど。……そして、私は「気づいた」んだ。
「……あはっ、そう。そういうことね」
追い詰められ、沈黙していた私が、ようやく声を出した。
そして私は、満面の笑みを浮かべた。
「……何よ。なんで笑ってるの?」
定規を振りかざそうとしていた彼女が、毒気を抜かれたように動きを止めた。
「ねえ、恵美さん。お願いがあるの」
私は言った。
「……はぁっ!?」
彼女の困惑が、苛立ちへと変わる。
視線が泳ぎ、彼女の集中が切れた、その瞬間。
私は動いた。彼女の運動神経では、私の動きについてこられるはずがない。
自分でも驚くほど、体が軽かった。
一瞬の動作で、私は定規を持つ彼女の手首を掴み取った。
「な、ちょっと……何よ!? 離しなさいよ!」
彼女が必死に抗う。
驚くのは無理もない。抵抗したところで、元々のスペックが違う。
先ほどまで下がっていた私の士気は、今や限界まで高まっていた。
あいつの顔を思い浮かべただけで、負けたくないという衝動が体を突き動かしたんだ。
私は彼女の手を無理やり引き寄せ、鉄定規の角を自分の頬に押し当てた。
「……恵美さん。お願い、私の顔を切り裂いてみて」
「レ、レナさん……っ!? あんた、正気なの!?」
「それは、こっちのセリフよ」
圧倒的な優位に立った私の前で、今度は彼女が汗を流し始めた。
勝てない悟ったのか、彼女の体から力が抜けていくのが分かる。
「……どうしたの? 黙ってないで、やりなさいよ」
私はさらに追い詰める。
「……クソっ! あんた……よくも、私をコケにしてくれたわね!」
彼女が吠える。
「言葉が汚いわよ。……言っておくけど、私、誰とも付き合ってなんていないから。そんな暇ないの」
彼女を至近距離で睨みつける。
彼女の瞳には、すでに涙が溜まっていた。
「……嘘よ! 零治くん、最近ずっと私を避けてるんだから! なのに、あんたのことだけは気にして……!」
「それ、ただの思い込みじゃない? 証拠はあるの?」
狭くて暑い倉庫の中。私たちの呼吸が混ざり合う。
汗が滴り、沈黙が痛い。
「……零治くんは、私にやりたくない仕事ばっかり押し付けて、自分はあんたのリハビリのことばっかり……っ!」
「……それだけ?」
「……っ!? それだけ、ですって……!?」
「……悪いけど、私、恋愛ごっこなんて興味ないのよ」
「嘘つき……! あんたみたいな女は、いくらでも男を囲えるくせに……っ!」
彼女の言葉に、私は深い溜息をついた。
「……そうね。あんたの言う通りかも。私みたいな女は、何もしなくても男が寄ってくる。この、化粧もしてない顔だけでね」
「……自慢してるの!?」
「いいえ。逆よ。だから、壊してほしいのよ。トラブルしか運んでこない、この顔を」
私は彼女の手を強引に動かした。定規が、私の肌を擦る。
……頬が切れたって構わない。
同情してくる連中には、もううんざりなんだ。私が不細工にでもなれば、みんな興味を失ってくれるかもしれない。
けれど。
定規が私の肌を深く裂こうとした、その時。
「……いやっ!! やめてっ!!」
彼女が悲鳴を上げた。
彼女は定規を床に投げ捨て、その場に力なく崩れ落ちた。
結局、彼女にはそこまでの覚悟なんてなかったんだ。
私は、どこか失望していた。
彼女の手を乱暴に離し、泣きじゃくる彼女を冷めた目で見下ろす。
「……なんで……こんなことに……っ」
嗚咽する彼女。私は何もせず、ただ立っていた。
慰める気なんて、一ミリも起きない。……ただ、腹立たしかった。
あいつとの約束。あいつに聞きたかった質問。
彼女のせいで、あいつに会える時間がどんどん削られていく。
こんな無意味な衝突に、私の大切な時間を奪われたことが、許せなかった。




