第9章:憎しみ
「遅くなってごめん……っ!」
あの煩わしい部活の仕事を終え、私は全速力で走った。屋上へ、あいつに会うために。これこそが、私が一日中待ち焦がれていた瞬間だ。
待たせてしまった罪悪感が胸を刺す。共同作業者の恵美さんは、さっきまで私の時間をこれでもかというほど奪い続けた。しかも最悪なことに、この作業はあと数日も続く。
気まずい空気、そして彼女が見せた恐ろしいほどの「闇」。あの一瞬の彼女は、本当に、ただただ不気味だった。
……でも、もういい。今はどうでもいいわ。
大事なのは、あいつに……あの変な男の子に、また会えたっていうこと。
もしあの時、あいつのことを思い出していなかったら、私は今頃どうなっていただろう。あいつは、何もしなくても私を救ってくれる。
「お、レナさん。来ないかと思ったよ」
いつもの、あの「作り物」の満面の笑みであいつが迎えてくれた。
本当なら「その嘘くさい笑顔はやめて」と言ってやりたいけれど、なぜか今日は、言葉を飲み込んでしまった。
あいつは私のことを「レナさん」と呼んだ。礼儀正しく、けれど慣れない響き。
呼び方を聞かれた時、私は余裕がなくて答えられなかったのに。あいつは独断で、私を「レナさん」と呼ぶことに決めたみたいだ。
気づけば、私は自分でも驚くほどの明るい笑顔を返していた。あいつの「嘘の笑顔」に対抗するように。
頬が緩み、視線を上に向ける。そこには、いつものようにあいつが待っている。
私はハシゴを登り、あいつの隣に座った。
夕暮れの冷たい風が、火照った肌を優しく撫でる。
「ほら」
あいつが手を差し出してくる。
私は頷き、その手を握った。
不思議ね。前はあいつと手が触れるだけでパニックになりそうだったのに、今はこんなに心が落ち着いている。
「はい、これ。どっちがいい?」
隣に座ると同時に、あいつは両手を差し出した。
右手にオレンジジュース、左手にライチジュース。
今日はリンゴジュースじゃないんだ。あいつはリンゴしか飲まないんだと勝手に思い込んでいた自分を、手帳に書き留めておかなくちゃ。
「……悪いな。もう冷たくないんだ」
「いいわよ。……オレンジジュース、もらってもいい?」
「いいよ」
あいつは右手を差し出し、私に缶を渡した。
「あ、ありがとう……」
少しだけ、気恥ずかしくなる。
手の中にある、一本のオレンジジュース。
私はなんとなく、その缶をじっと見つめた。理由なんてない。ただ、そうしたかった。
飲み口に指をかけた瞬間、ふと、贅沢な考えが頭をよぎる。
(……少しは気が利くところを見せて、プルタブを開けてくれてもいいのに)
――って、私、何を考えてるの?
どうしてそんなことを期待しちゃうわけ?
「……バカ」
小さく毒づき、私は自分で缶を開けた。
――プシュッ。
心地よい音とともに、オレンジの甘酸っぱい香りが鼻先を掠める。
誘われるように、指先が少し震えた。
けれど、口をつける前に、私はあいつの横顔を見た。
あいつはぼんやりと、夜へと変わりゆく茜色の空を見つめていた。何度か、静かな溜息を吐きながら。
「……あんたは、飲まないの?」
沈黙を破って、私が尋ねる。
「……夜まで取っておくよ」
あいつは気だるげに答えた。
「……そう」
私は一口、ゆっくりとジュースを啜った。
オレンジの甘みと、微かな酸味が喉を通る。味自体は、なんてことのない市販のジュース。
けれど、次の瞬間。
心臓を、誰かにギュッと掴まれたような感覚に襲われた。
胸の奥から、何かが激しく叩きつけてくる。
記憶が、勝手に溢れ出した。
あの日。私が飛び降りるのをやめた日。あいつがくれたリンゴジュースが、私が今も生きている理由そのものになったあの日。
あの時の味を、はっきりと覚えている。
舌の上で踊るほのかな甘み、喉を通り、体中に染み渡っていったあの感覚を。
今はオレンジジュースなのに、なぜか、あの時と同じ感情が蘇ってくる。形を変えて、私の中に流れ込んでくる。
気づけば、涙が零れていた。
一滴、また一滴。止める術なんて、私には分からない。
「……レナさん? 泣いてるのか?」
あいつが、戸惑ったような声を出す。私が泣いていることに、ようやく気づいたみたいだ。
手の甲で必死に拭うけれど、次から次へと新しい涙が溢れてくる。
「あー……悪い。やっぱり、ジュースは冷たい方が美味しかったよな」
あいつのその言葉を聞いて、私は思わず俯いた。
恥ずかしいからじゃない。あいつのそのあまりに純粋で、ピントのズレた優しさが、胸に痛かったから。
「明日、ちゃんと冷えてるやつ持ってくるから。約束する」
「……なによそれ。そういうことじゃないわよ……」
声が裏返る。怒っているわけじゃない。
ただ、少しだけ、もどかしかった。
私の涙が「ぬるいジュース」のせいだと思っているあいつ。どこまでも空気の読めない、変なやつ。
でも、それ以上に、安心している自分もいた。
あいつは変わっていない。初めて会った時と同じ、気だるげな表情と、理解不能なロジックを持った不思議な男の子のまま。
そして……ずっと、このままでいてほしい。
あいつが私を「ただの普通の女の子」だと言ってくれた時から、私は、本当にそんな風に生きられるんじゃないかって期待し始めてしまったんだ。
あいつの前でだけは、本当の自分でいたい。
脆くて、弱くて、傷だらけで……誰かに寄りかかりたいと願っている、一人の少女として。
私は深く息を吸い込み、涙を飲み込んだ。
「ねえ。……今日の一問、いいかしら」
あいつは瞬きをして、静かに頷いた。
「いいよ。何でも聞いて」
「……正直に、答えてね」
「ああ」
私は唇を噛み、涙で霞む視線であいつを真っ直ぐに見つめた。
「……あんた、私のこと、嫌い?」
消え入りそうな声。あいつは、沈黙した。
息を止め、私はその答えを待った。
分かってる。こんなの、バカみたいな質問だって。
でも、さっき恵美さんに「大嫌い」と突きつけられた言葉が、棘のように胸に刺さって抜けなかったんだ。
彼女に嫌われても、何とも思わなかった。
でも、もしあいつに同じことを言われたら……そう思うだけで、息が止まりそうになる。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた後。
あいつは、笑った。
その笑顔は、いつもの作り物じゃない。
もっと温かくて、もっと柔らかい。心の底から、何かが漏れ出したような、本物の笑顔。
「俺が? 君のことを?」
あいつはゆっくりと、首を横に振った。
「嫌うわけないだろ、レナさん。君には、俺が嫌うような要素なんて一つもない」
胸のつかえが、一気に取れた。
答えそのものよりも、あの笑顔に救われた。
……それこそが、あいつの本当の心の声なんだと、信じられたから。
私はオレンジジュースの缶を強く握りしめ、小さく笑った。
「……よかった。嫌われてなくて、本当に安心したわ」
あいつはまだ微笑みを浮かべたまま、不思議そうに付け加えた。
「でも、いいのか? 名前、聞かなくて。てっきり今日はそれを聞かれると思ってたんだけど」
あいつの言う通りだ。
本当に気になるなら、今、ここで聞けばいい。
けれど、私はそうしなかった。
震える人差し指を立てて、自分の唇に当てる。
「内緒」の合図。
そして、最高の笑顔を作った。少しだけ、子供っぽくて不敵な笑顔。
「……来月のテストで、あんたに負けたくないのよ」
あいつが眉を上げた。
「試験の結果……私も、1位を狙うから」
あいつは少しだけ首を傾げて、不思議そうな顔をしていた。
……いいのよ。今は、クラスも学年も分からないままで。
名前を知るなんて、そんなの、ありふれたことじゃない。
私はもっと、別の方法であんたに近づきたい。
もっと深く、もっと特別に。
あんたの正体を、あの日、掲示板の一番上で見つけるまで――私は「レナ・シオリ」を完璧に演じきって、あんたを追い詰めてみせるから。




