第6章:理由
時計の針は、すでに放課後を指していた。今日のすべての授業が終わった合図だ。
私たちはいつものように、貯水タンクのそばでくつろいでいた。約束をしたわけでも、連絡を取り合ったわけでもない。……ただ、自然にここで顔を合わせる。それが当たり前になっていた。
「ねえ、あんた、本当は何部なの? そんなに暇な部活なんて、あるはずないわ」
何度目か分からない質問を、私はまた投げかけた。どうせ、いつものようにはぐらかされるんだろうけど。
「部活っていうのは、実際は面倒なものだよ。……まるで森の中に押し込められるみたいでさ」
あいつが言う。
「……森?」
「森っていうのは抽象的な概念だ。学校の部活も、それと同じだよ」
「……何言ってるのかさっぱり分からない。もういいわよ、勝手にしなさい」
私は呆れてため息をつき、投げやりに答えた。
相変わらずだ。あいつはいつもこうして話をそらす。
好奇心が限界を超えて、もはやフラストレーションに変わっていた。
本当に、どこまでも癪に障るやつ。あいつの行動は予測不能で、言葉の一つひとつが捉えどころがない。
分かってる。あいつがサヴァン症候群で、少し変わっていることは。
でも、理解しようと歩み寄れば歩み寄るほど、あいつはさらに拍車をかけて「謎」を深めていく。
……嫌いじゃない。
というか、嫌いになれるはずがない。あいつは、私に何も期待せず、それどころか私のことを「邪魔者」だと思っている唯一の人間なんだから。
もう少しだけ、このままでいたい。
「……ねえ」
私は静かに、あいつを呼んだ。
「何?」
あいつは、私の方を見なかった。視線は、オレンジ色に染まり始めた夕焼け空に向けられている。
「……お願い。あんたのこと、何でもいいから教えて」
結局、私はそう言っていた。
ただ問いかけるのをやめて、今度は本気で、あいつに乞うた。
「……なんだか、落ち着かないのよ。私たちは毎日会って、いろんな話をしてる。……なのに、私は目の前にいる相手のことを、何一つ知らないんだから」
恥も外聞もなく、縋るような声だったかもしれない。
でも、構わない。今、私がこうして生きていられる理由は、あいつだけなんだから。
あの日、あいつがバカな真似をしてくれなかったら、レナ・シオリはこの世から消えていた。リンゴジュースが、涙が出るほど甘いなんてことも、知らないまま。
「君の名前は……」
「えっ……?」
あいつがいきなり私を強く見据えたので、私は息を呑んだ。
その眼差しが鋭すぎて、威圧感さえ感じてしまい、私は思わず視線を逸らした。
私の願いは、あいつにとって無理難題だっただろうか。やっぱり、嫌がられた?
あいつは顎に手を当てて考え込み、やがて口を開いた。
「レナ・シオリ」
「な……っ」
「なんて呼べばいい? シオリさん? それとも、レナさんか?」
あいつが私の名前を呼んだ瞬間、胸の奥が激しく波打った。
あいつが初めて、私を呼んだ。適当な呼びかけじゃなく、私自身の名前を。
額に薄っすらと汗が滲む。鼓動が早まり、心臓が痛いくらいに脈打つ。
逸らしていた視線を、私はあいつに、吸い寄せられるように戻した。
「……私のこと、知ってたの?」
消え入りそうな声で、私は問いかけた。
「……君のことを知らないやつなんて、この学校にいるのか?」
あいつは逆に聞き返してきた。
「最初はさ、君みたいな存在は俺の手の届かない場所にいると思ってたんだ。他の連中みたいに、君に対して特別な興味があったわけじゃない。……でも、あの日、君を見て気づいたんだよ。君はただの、普通の女の子なんだって」
「前にも言った通り、俺には感情とかそういうのがよく分からない。だから黙ってたし、……わざとミステリアスに振る舞ってた部分もある。君の人生を、これ以上かき乱したくなかったから」
あいつの言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙が溢れ出した。
もう、止められなかった。拭うつもりもなかった。
コンクリートの上に、私の涙が次々と黒い染みを作っていく。
あいつが、私のことを考えてくれていた。
勝手に「無関心なやつ」だと決めつけて、悪く思っていた自分を、今すぐ殴ってやりたかった。
今の私、なんて泣き虫なんだろう。
「……ごめ、んなさい」
「いや、謝ることじゃ……」
「私……本当にあんたのことが知りたいの! どんなに変なやつでも構わない。あんたの名前も、年齢も、趣味も、好きな色も、好きな食べ物も、飲み物も、……嫌いなものだって。全部……全部、知りたいのよ!」
叫ぶように、私はあいつに想いをぶつけた。息が切れる。声も震える。
数日間、ずっと心に閉じ込めていたものが、一気に溢れ出した。
私たちは見つめ合った。
するとあいつが、今まで一度も見せたことのない表情をした。
眉間にシワを寄せ、少し汗をかいている。
口を半開きにしたまま、言葉を失っている。
……あいつは驚いていた。心の底から。
「……なんて言えばいいかな」
ようやく、あいつが声を絞り出した。
「……何か、言いたいことがあるの?」
あいつは首を少し傾けて、こう言った。
「俺は君には不釣り合いだ。正直、君は綺麗で、魅力的で、運動神経もいい。俺なんかより知る価値のある男は、他にたくさんいるだろ」
「俺は退屈な人間だ。感情もなくて、冷めてて……」
「……そんなことない!」
私はあいつの言葉を鋭く遮った。
「そんなこと言わないで! ……私は、他の誰かじゃなくて、あんたがいいのよ! もし本当にそう思ってるなら、あの日、私を跳ばせてそのまま死なせておけばよかったじゃない!」
感情のすべてを吐き出した。もう、抑えきれない。
あいつの「自信のなさ」が理由で私がこんなにももどかしい思いをしていたなんて。腹立たしくて、愛おしかった。
怒りと涙が混ざり合う。しゃくり上げるたびに、肺が苦しくなる。
でも、まだ話は終わっていない。全部聞いてほしかった。
「今すぐ……教えて」
震える声で、私は言った。
「感情がないなんて言うなら、どうして私を助けたの? 理由もなしに、そんなことするはずないわ」
あのアスファルトの熱気、リンゴジュースの冷たさ。すべてに理由があったはずだ。
あいつは沈黙した。けれどすぐに、ポツリと話し始めた。
「あの時……柵を越えて跳ぼうとしていたのが誰かなんて、俺には分からなかった。でも君の言う通りだ。目の前の命を見捨てれば、人は俺の道徳性を疑うだろう。……だから、俺は動いたんだ」
「死のうとしていたのがこの学校の有名人だってことも、気づいてなかった。ただ、俺が『道徳的な人間』であるために、行動しただけなんだ」
ようやく、理由が分かった。
あいつは自分の道徳を、規律を守ろうとしただけ。自分でもよく分からない感情を、論理で埋めるために。
「……そう、だったの」
「悪かった。君の人生を、余計にややこしくして」
私は首を横に振った。
「ううん、いいの。あんたのおかげで、私はたくさんのことに気づけた。……むしろ、私の方が謝らなきゃ。あんたを問い詰めたりして。……私のせいで、あんたの日常、めちゃくちゃになっちゃったでしょ?」
「めちゃくちゃ? ……いや。美少女と一緒にいられるなんて、まるで夢みたいだよ。実際」
「……なによそれ。口説いてるの?」
「……かもな。君の気分が晴れるならと思って」
「……言っておくけど、ちっとも効果ないわよ」
「そうか。じゃあ、どうすればいい?」
「……じゃあ、こうしましょう。明日から一日一つ、私の質問に正直に答えて」
あいつをもっと知るための、チャンス。私は「取引」を持ちかけた。
あいつは短く頷くと、こう言った。
「君が何を求めてるのかは分からないけど……分かった。そうしよう」
「……本気!?」
私は思わず、身を乗り出した。手が震える。
「ああ。それで君の気が済むなら」
嬉しかった。胸が熱くなる。
明日から、一日一つずつ、あいつの欠片を集めていける。
明日が来るのが、こんなにも待ち遠しいなんて。
……まずは、何から聞こうかな。




