第5章:ランニングクラブ
放課後のあの場所は、いつの間にか私たちの「日課」になっていた。
屋上の隅、貯水タンクのそば。
背中合わせに座り、私たちは外の世界の喧騒から自分たちを切り離す。
時々、私たちはただ沈黙を共有する。
またある時は、鶏が先か卵が先かというような、本当に他愛もないことで言い争ったりもする。
何をしていても、不思議と退屈はしなかった。
けれど、あいつがいまだに自分のことを隠し続けているのだけは、少し恨めしかった。
何かを聞こうとするたびに、あいつは器用に話をそらす。連絡先の交換さえ拒否された。
「自分で調べろよ」
あいつはそう言って、私を突き放す。もちろん、そんなの納得できるはずがない。
私は、あいつ自身の口から聞きたいんだ。
好きな食べ物でも、趣味でも、好きな色でも。どんなに些細なことでも構わないから。
確かに、あいつについて知っていることがいくつかはある。
けれど、それはあまりに少なすぎて、手帳の1ページを埋めることさえできない。
――サヴァン症候群。共感性が欠如し、人の感情が分からない。空気を読むこともできない。笑顔は作り物。たぶん、リンゴジュースが好物。
コンビニで買ったばかりの、この手帳にすべてを書き留めている。
あいつに関する情報を集めるための、私だけの特別なノート。どんなに小さな欠片でも、逃さず記しておくと決めたんだ。
ノートのページを埋め尽くすために、私は考えを巡らせる。
――身なりがだらしない。外見を気にしないタイプ。制服はシワだらけ。平均的な男子より背が高い。手が大きい。サボりの常習犯。どこかの部活に入っているらしい(部長に怒られたと言っていた)。
「……他には?」
手帳の半分も埋まっていない事実に、少しだけフラストレーションが溜まる。
まだ4分の1程度。……何より、あいつの名前すら、私はまだ知らない。
あ、そうだ。
あいつは、テストで1位を獲ると言っていた。
もしその言葉が本気なら、来月の中間試験の結果を見ればあいつの正体が分かるはずだ。
前の試験の結果を調べれば済む話かもしれないけれど、私はそれを拒絶した。あいつの「今」を知りたいから。……でも、来月まで待つなんて、あまりに長すぎる。
「……最悪」
つい独り言が漏れた。
苛立ちのあまり、教室の机を叩きそうになる。
今は休み時間。私は自分の席に座り、自分でもよく分からないメモをノートに書き連ねていた。
正直、どうしてこんなことをしているのか、自分でも説明がつかない。
「……あ、あの。失礼します、レナさん」
あいつのことばかり考えていた。
あいつはきっと、私のことなんて一度も考えていないんだろうな。平気な顔をして校内を徘徊し、屋上でサボっているに違いない。
「……レ、レナさん」
えっ? 呼ばれた?
ハッとして、私は反射的にノートを閉じた。
誰かに見られたら、それこそ死ぬほど恥ずかしい。もしあいつ本人に見られたら……想像するだけで顔が熱くなる。
いや、あいつがここにいるはずがない。クラスだって違う。
私は2年A組。あいつは同級生かもしれないし、下の学年か、あるいは上の学年かもしれない。
あいつが口を割らない限り、正体は霧の中だ。それがもどかしくて、たまらなく腹が立つ。
「レナさん」
「あ、はい……ごめんなさい。何か用?」
数秒の空想から引き戻してくれたのは、学級委員長の中野絆だった。
彼女はいかにも優等生といった感じの、お堅い女の子だ。
あまりの厳格さに、身なりが整っていない生徒は教室にさえ入れないこともある。主な犠牲者は男子生徒たちだ。
それでも、彼女のやり方は先生たちから絶大な信頼を得ている。
「学年最高の委員長」なんて呼ばれることもある彼女の功績は、確かに素晴らしいと思う。
「陸上部の部長が呼んでいるわ。今すぐ体育館に来てほしいそうよ」
彼女は淡々と告げた。
「……部長が? 分かったわ」
「ええ、伝えるのはそれだけ。……邪魔をして悪かったわね」
彼女はそう言って、短く会釈した。
「ううん、助かったわ。ありがとう。すぐ行くね」
陸上部の部長が私を呼んでいる。
断る理由もない私は、急いでノートをカバンに放り込み、教室を後にした。
廊下に出ると、いつものように視線が突き刺さる。
男子も、女子も、関係ない。みんな飽きもせずに、毎日私を見つめてくる。
慣れっ子だ。私はそれらをすべて無視して歩く。
自分自身に向けられたものではない称賛の言葉が耳に入らないよう、心の耳を塞ぎながら。
体育館は本校舎にある。そこまで歩くのは少し面倒だけれど、仕方ない。
重要そうな話だし。10分ほど歩いて、ようやく体育館に辿り着いた。
中を見渡すと、陸上部の部長の姿があった。
背は高い方だけれど、あの変な男に比べれば大したことはない。
彼は部員たちの前で立っていた。たぶん、陸上部のメンバーだろう。
私は彼らのことをあまり知らない。深く関わる必要もないと思っているから、顔と名前を知っている程度だ。
「ああ、レナさん。忙しいところ悪いな」
私が近づくと、部長が気づいて声をかけてきた。
「大丈夫よ。……何かあったの?」
私が歩み寄ると、また周囲の視線が集まる。
……無視。それが唯一の解決策だ。
「足の調子はどうだ?」
「ええ、だいぶ良くなったわ」
どうして私がここに呼ばれたのか、まだ分からない。
私はただの平部員。副部長でもマネージャーでもないのに。
「実はな、レナさん。3ヶ月後の体育祭の準備のために、陸上部にも手伝いの要請が来てるんだ。君には備品係の恵美さんの手伝いをしてほしいと思ってる」
「……体育祭?」
彼は説明を続けた。
「ああ、まだ先の話だがな。今は生徒会から備品の在庫確認を頼まれてるんだ。数週間後には大会も控えてるし、リハビリ中の君に恵美さんのサポートを任せられれば、俺たちも助かる」
「……そう」
今回の生徒会は容赦ない。すべての部活をこき使うつもりのようだ。
以前は誰の力も借りないような顔をしていたくせに。
「とりあえず、君は恵美さんの手伝いに専念してくれればいい。練習に参加する必要はない。リハビリを優先しろ」
彼は断定的に言った。
「……分かったわ」
結局、引き受けるしかなかった。
幸い、そんなに重労働でもなさそうだし。
「じゃあ、行っていいぞ。作業は明日からだ」
解放の合図。
「ええ、ありがとう。失礼するわ」
明日から、か。
恵美さんの手伝い……。
久保田恵美。陸上部の副部長。
そして、部長である梶彦零治の彼女だ。
彼女は、お世辞にも陸上選手としての素質があるとは言えない。
けれど、校内での強い発言力……何より部長の彼女という立場があるせいで、誰も彼女に逆らうことはできない。
私は彼女と話したことはほとんどない。
けれど、なんとなく感じていた。彼女が、私のことを嫌っているということを。
これは被害妄想じゃない。根拠はある。
彼女が私に向ける、あの刺すような冷ややかな視線。
顔を合わせるたびに、それははっきりと感じられた。
……理由は分からない。
ただ一つ、心当たりがあるとすれば。
彼女は、私に嫉妬しているのかもしれない。
私は何もしていないし、零治先輩を奪おうなんてこれっぽっちも思っていないけれど。彼女は、それが怖くて仕方ないんだろう。
……まあ、いいわ。
本当のところは、彼女の口から聞くまでは分からないんだから。




