第4章:温もり
涙が止まらない。
もう拭うことさえ諦めて、私はただ、溢れるままにさせていた。
ただそこに立ち尽くし、俯いて、すべての感情が吐き出されるのを待つ。
どれくらい泣いていたんだろう。しゃくり上げながら、これまでのすべてをぶつけるように。
何度も呼吸が詰まる。
けれど、ようやく分かった。この感情。今日、初めて見つけた本当の気持ち。
誰に教わらなくても、確信できる。……これこそが、本当の私なんだ。
私は、ただの脆い女の子だった。
「完璧」という重すぎる仮面を被らされ、高い期待の裏側に隠れていた、ただの子供。
怖かった。
期待に応えられなければ、みんな私を捨ててしまうんじゃないか。失敗した私なんて、誰も受け入れてくれないんじゃないか。
失うことへの恐怖があまりにも強すぎて、どこにも寄りかかれなかった。何も求められず、ただ「私」としていられる場所が欲しかったなんて、口が裂けても言えなかった。
ようやく気づけた。全部、この男の子のおかげだ。
体が熱い。スカートを握りしめる手に力がこもる。
今の私の顔、きっとひどいことになってる。
顔も目も真っ赤で、せっかく整えた髪もボロボロ。
泣きじゃくる私。そんな中、不意に頬に柔らかな感触が走った。
あいつの手が、私の頬に触れている。
温かくて、優しい。その熱が伝わるたびに、荒ぶっていた感情が少しずつ凪いでいく。心が、静かになっていく。
「……そんなに登りたかったんなら、言えばいいのに。連れてってやるから」
その声はどこまでも穏やかだった。
何かを強いるわけでも、責めるわけでもない。
私は顔を上げ、あいつを見た。
分かっていた。この世界でたった一人、私に何も期待していないのは、あいつだけだ。
「顔、真っ赤だぞ。……ほら、行こう」
あいつはそう言うと、指先で優しく私の頬を撫でた。
……本当に、どこまでも空気の読めないやつ。
あいつは、私が「上に連れて行ってほしい」から泣いているんだと勘違いしている。
でも、その不器用な優しさが、今はどうしようもなく嬉しかった。
私は小さく頷いた。
これだけで、十分じゃない。
少なくとも、あいつは私を置いていかなかった。
私たちは貯水タンクへと歩き出す。足が少し痺れていたけれど、そんなの気にならなかった。
「俺の後についてこい」
そう言って、あいつはハシゴを一段ずつ登り始めた。
私も後に続く。すぐ目の前には、あいつの背中がある。
制服の生地越しに透けて見えるあいつの体温に、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
慌てて視線を逸らす。無防備に動けば二人とも落ちてしまうから、私は必死に手すりにしがみついた。
やがて、上から手が伸びてきた。
「はいよ」
私は小さく頷き、あいつの手を握った。
重なった手のひら。指先から伝わる感触に、心臓が跳ねる。
あいつの手は、思っていたよりもずっと大きくて、強かった。
ぐいっと引き寄せられ、私はタンクの天面へと辿り着いた。
そこには、なんてことのないコンクリートの平地が広がっているだけ。
ただ、空気は信じられないほど気まずかった。
お互いに無言。
沈黙の中で、自分の鼓動と、あいつの静かな呼吸音だけが耳に響く。
……どうしよう。
男の子とこんなに近くにいるなんて、今まで一度もなかった。
怖いと思っていたはずなのに、あいつに対してだけは、逃げ出したいとは思わなかった。
私たちはただ、夕暮れに染まる学校を見下ろしていた。
屋上から見るよりもずっと遠くまで見渡せて、世界が少しだけ広く感じられる。
鳥の囀りと、下から聞こえてくる生徒たちのざわめき。
それらが混ざり合い、抽象的なモザイク画のようなメロディとなって空に溶けていく。
ふと、眼下のグラウンドに目が止まった。
陸上部の練習風景。私が所属している場所。今は「足を怪我した」という嘘の理由で休んでいるけれど。
……嘘じゃない。本当は、あいつのことで頭がいっぱいで、集中できなくて足を踏み外したんだ。全部、今隣にいるあいつのせい。
「どうだ? ここからの眺め、悪くないだろ」
沈黙を破ったのは、あいつだった。
あまりにも耳元で響く声に、肩がびくりと震える。
どうして、こんなにドキドキするの?
体が言うことを聞かない。何かをしなきゃいけないのに、何をすればいいのか分からない。
落ち着かなきゃ。
深く、深く息を吸い込む。
「……ええ。そうね。悪くないわ」
ようやく絞り出したのは、それだけだった。
あいつが近すぎて、頭が真っ白になる。さっき頬を拭ってくれた時の、あのロマンチックな仕草を思い出して……。
って、何考えてるの、私!?
違う、そうじゃないわよ!
一人でパニックになり、私は真っ赤になった顔を両手で隠した。
「……どうした?」
また耳元で声がする。
私は弾かれたように後ろに下がった。
「な、なんでもない! 大丈夫……私は、大丈夫だから!」
私の慌てた返事を聞くと、あいつはふぅと息をつき、足を投げ出した。
何をするのかと思ったら、急にストレッチを始めた。
「……悪かったな」
唐突な謝罪。
「はぁ!?」
驚く私を余所目に、あいつは足を伸ばしたまま続けた。
「俺、こういうやつなんだ。……あんたは知らないだろうけど、俺、『サヴァン症候群』なんだよ。聞いたことあるか?」
「……ええ、少しなら」
動揺を隠して答える。あいつはまるで天気の日常会話でもするように、自分の秘密をさらけ出した。
サヴァン症候群。
確か、発達障害などがある一方で、ある特定の分野にだけ驚異的な才能を発揮する、稀な症状のこと。
正直、目の前のあいつがそんな「天才」だなんて、想像もしていなかった。
不謹慎かもしれないけれど、私は好奇心を抑えきれなくなった。
「……ねえ、一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
あいつは相変わらずストレッチを続けている。
「失礼だったらごめんなさい。あんたの『特異な部分』って、何なの?」
私の問いに、あいつの手が止まった。
曲げていた足を下ろし、あいつはじっと私を見つめた。
……聞かなきゃよかった。
後悔が押し寄せる。
「ご、ごめんなさい。答えたくないなら、いいの」
あいつはまだ私を見ている。
そして、自分の胸にそっと手を当てた。
「俺は、心が欠落して生まれてきたんだ。……悲しいとか、腹が立つとか、楽しいとか。そういう『感情』が、俺には分からないんだよ」
「……えっ?」
「ただ、知識として学習してるだけ。自分自身でそれを感じることはできない」
言葉を失った。
あいつは淡々と続けた。
「さっきの笑顔も、作り物だ。そうしないと、周りに受け入れてもらえないからな。……それと、さっきは泣かせて悪かった」
何も言えなかった。
あいつの人生は、私が思っていたよりもずっと孤独で、空虚だったんだ。
自分勝手な思い込みで、あいつを「自由で羨ましい人」だと思っていた自分が恥ずかしくて、申し訳なくて……。
あいつの目を見ることさえできなくなった。
「……まあ、その分、脳みそは別のことに特化してるけどな。俺が何者か気になるなら、次のテストの掲示板でも見てろ。また一位を獲るつもりだから。……まあ、その前に見つかるかもしれないけどな」
あいつは、また少しだけ微笑んだ。
自分の笑顔が「嘘」だと言った直後なのに、それでもあいつは笑った。
「……分かったわ。じゃあ、ちょっと背中を向けて」
「……なんで?」
「いいから、早くしなさいよ!」
「お、おう」
今はあいつの顔を見たくない。見たら、また泣いてしまいそうだから。
あいつが背中を向ける。
広い背中。昨日、憧れたあのシルエット。
私はその背中に、自分の背中を預けた。
「……お願い。このままでいさせて」
「……了解」
私たちは、お互いの背中を支えにして座り込んだ。
貯水タンクの上。夕暮れの学校。
私たちは、お互いの体温を分け合うように、静かにそこにいた。




