第3章:抑圧された感情
最悪だわ。
……まさか、人生を「滑稽なもの」だと思って冷めきっていた私が、またこんな風に笑えるようになるなんて。
よりによって、私が興味を持ったのは、学校のルールなんてお構いなしの不良っぽい男の子だった。サボりの常習犯で、留年しかけたこともあるような、そんなやつ。
昨日の屋上での出来事。私たちは、普通じゃありえないような距離感で言葉を交わした。あいつは私よりずっと高い場所にいたけれど、それでも言葉を投げ合い、空が暗くなるまで話し込んだ。
一緒に帰ることはなかった。あいつが「ミステリアスなキャラを維持しなきゃいけないから」なんて、わけのわからないことを言ったせいだ。
本当に変なやつ。自分の名前さえ教えてくれない。でも、それ以上踏み込むことはできなかった。……別に、いい。明日も、その次も、ずっと会おうって約束したんだから。
そして今、私は屋上であいつを待っている。
貯水タンクの上を見上げたけれど、あいつの姿はない。もう放課後だ。そろそろ現れてもいいはずなのに。……どうやら、私が早く来すぎたみたい。
あいつに会うのが楽しみすぎて、落ち着かなかったんだ。ただの「自称ミステリアス」な変人に会うだけなのに、どうしてだろう。昨日の夜も、なかなか寝付けなかった。
今日のために、わざわざ準備もした。
少しだけお洒落をして……本当に、少しだけ。髪をいつもより丁寧に整えたくらいだから、誰も気づかない程度の変化だけど。
(私……可愛いかな? 変じゃないかな?)
自分の髪に触れながら、そんなことばかり考えてしまう。手鏡を持ってくるのを忘れたのが悔やまれる。……いや、そんなの持ってない。あとで買っておこう。
あいつに、私を見てほしい。
私に惹かれてほしい。
昨日みたいに、私のことを「邪魔者」扱いするんじゃなくて。
自分にはあいつを振り向かせる魅力がないのかもしれない……そう思うと、胸がギュッと締め付けられる。
――待って、私、何を考えてるの?
落ち着かなきゃ。
あいつなんて、そんなに魅力的なわけじゃない。きっと今日もボサボサの姿で現れる。適当で、無頓着で、少し冷めたようなやつ。
……まあ、少しだけ笑ってくれるのが、救いだけど。
しばらく待っていると、背後から声がした。
「お、もう来てたんだ。早いな」
その声が頭の中でリフレクトして、心臓の鼓動が跳ね上がる。すぐに振り返りたい衝動を、必死に抑える。
この感情は、安堵? それとも、ただの喜び?
私は拳を握りしめ、一度目を閉じてから、ゆっくりと振り返った。
やっぱり、予想通りだった。あいつの格好は昨日と大差ない。髪は相変わらずボサボサで、制服はシワだらけ。ボタンもろくに留めていない。
あいつと、目が合う。
私がずっと待っていたことなんて気にも留めない様子で、あいつは少しだけ口角を上げた。
「……遅い」
私はあえて、鋭い声を出す。
「悪い。部長がキレててさ」
「部長?」
私は聞き返した。
「まあ、そんな感じ」
あいつはバカみたいに頭を掻いた。
どうしてこんなやつを待っていたんだろう。バカで、冴えなくて、無能。……私とは、あまりにも正反対すぎる。
あいつがどこの部活に入っているのかは知らない。聞いてもはぐらかされるだけだし、いつもどうでもいい話にすり替えられてしまう。
「で、あんたはどうなんだよ。部活とか、何かないのか?」
あいつが気だるげに聞いてくる。
「……あんたには関係ないでしょ」
私はそっけなく答えた。
腹立たしい。あいつがデリカシーのないやつだってことは分かってる。
それなのに、期待してしまう自分が一番むかつく。
あいつはいつものルーティンをこなすように、貯水タンクに近づいた。上に登って、そこでくつろぐ。ただ、今日は何も持っていなかった。
ああ、そういえば。
あいつ、どうやってあんな高いところに登ってるんだろう。昨日も不思議だったけれど、道具なしで登るのは不可能なはずだ。ハシゴか何かが近くにあるはず……。
あ、あった。
あいつは柱の陰に隠されていたハシゴを引き出すと、それをタンクの壁にかけた。昨日見えなかったのは、位置が悪かっただけみたいだ。
ハシゴを登りかけ、あいつは「あ!」と声を上げて足を止めた。
「最悪、忘れてた!」
「……何を?」
私が怪訝そうに聞くと、あいつは苦笑いしながら答えた。
「リンゴジュース、買い忘れたわ」
……やっぱり。
あいつはどこまでもあいつだ。自分の日課さえ忘れるなんて。
「……別にいいでしょ、そんなの」
私が呆れて言うと、あいつは「まあな」と笑って、私を誘った。
「あんたも、登るか?」
その言葉に、息が止まりそうになった。
驚いたからじゃない。まるであいつに、私の本心を見透かされたような気がしたからだ。
私、そんなに分かりやすい?
あいつを、そんなに熱い目で見つめていたっていうの?
……最悪。
完璧な私を弄ぶなんて。心の中で私のことを笑っているに違いない。
いいわよ。いつか必ず後返ししてやる。あいつには借りがあるんだから。
「大丈夫。手、貸してやるから」
断ればいい。
昨日みたいに、下から話せばいい。
でも……心の奥底では、あいつのことをもっと知りたいと願っていた。もっと近くにいたい。あいつの瞳に、私の姿を映してほしい。
「どうした? なんで黙ってるんだよ」
あいつが不思議そうに首を傾げる。
「……髪が乱れるのが、怖いのか?」
えっ?
今、あいつ、なんて言った?
……髪? 気づいてくれたの?
私が整えてきた、この髪に?
一瞬で、感情が舞い上がった。
私は俯き、自分の髪を指でいじる。何度も、何度も。
「あ、あんた……」
消え入りそうな声で、私は言葉を絞り出す。
「……気づいてたの? 私が髪を整えてきたこと」
ようやく顔を上げると、そこには……。
あいつはもう、自分勝手にハシゴを登りきっていた。私の言葉なんて、届いていなかった。
「わりぃ、なんて言った?」
上から呑気な声が降ってくる。
「……なんでもない! この変質者!」
私は叫んだ。肩で息をする。
今すぐ自分の髪をめちゃくちゃにかき乱したい気分だった。お洒落なんてしてくるんじゃなかった。
あいつはあまりにも無頓着で、あまりにも冷淡だ。
私に興味なんてない。あいつにとって、私はただの「邪魔者」なんだ。
また、胸が苦しくなる。
すると、頬に温かいものが触れた。
吹き抜ける夕方の風が、それを一瞬で冷たく変える。
私……泣いてる? どうして?
慌てて手を伸ばし、涙を拭う。
ダメだ。こんな情けない姿、絶対に見せたくないのに。
でも、一度溢れた感情はもう止められなかった。
私は声を押し殺して泣き始めた。拭っても拭っても、涙が溢れて止まらない。
自分のこれまでの人生が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
そういえば……私はようやく、本当の自分になれたんだ。
どういうわけか、あいつは私を怒らせる。
それは、私がずっと押し殺してきた「生の感情」だ。
あいつに無視されたくない。
「完璧な私」を演じて称賛されるんじゃなく、不格好で、不機嫌で、ドロドロした「本当の私」をあいつにぶつけたい。
だから、私はあいつみたいな存在が必要なんだ。
泣きじゃくりながら、私は確信していた。
ようやく……ようやく見つけたんだ、本当の自分をさらけ出せる場所を。




