第14章:絆の場所 パート1
結局、私は絆さんの家に足を踏み入れていた。
これ以上彼女に迷惑をかけるのは本意じゃない。傘を借りるだけで十分だと思っていたのに。
でも、気づけば彼女のペースに巻き込まれていた。これが彼女なりの親切なのか、それとも別の意図があるのか……今の私には分からない。ただ一つ言えるのは、嫌な予感が止まらないということだ。
「おばさん、ただいま」
玄関を開けるなり、絆さんが無機質な声で言った。
「……おばさん?」
私は首を傾げた。
ここに来るまでの道中、彼女が叔母さんと暮らしているなんて話、一言も聞いていなかったから。
戸惑う私を見て、絆さんは短く視線を向けて言った。
「……進学校に通うのは大変なの。親とは離れて暮らしているわ」
「……そう、なのね」
私は短く返した。
確かにそうだ。私たちは日本でもトップクラスの難関、私立の名門高校に入学した。入試の壁は高く、私でさえ最初は試験内容を理解するのに苦労したほどだ。
それでも、私は首席で合格した。その瞬間から、周囲の称賛と、それに伴う「高い期待」が私の首を絞め始めたのだけれど。
「おかえりなさい、絆ちゃん」
壁の向こうから、一人の女性が現れた。
長く艶やかな黒髪をポニーテールにまとめ、柔らかな微笑みを浮かべている。
……いえ、彼女が笑いかけたのは絆さんに対してだけだった。彼女は最初、私の存在に気づいていなかったみたいだ。けれど、私と目が合った瞬間、彼女は小さく息を呑んだ。
「あら……。絆ちゃん、いつの間にこんなに綺麗な友達ができたの?」
叔母さんは興味津々といった様子で尋ねてきた。
「……おばさん、大げさよ。何か問題ある?」
絆さんの声は、叔母さんの冗談を意に介さないように、どこまでも平坦だ。
「あはは、ごめんなさいね。……それで、このお嬢さんは?」
「クラスメイトの、レナ・シオリさん。雨が降っていたから、方向が同じだし、一緒に帰ってきたの」
「突然お邪魔して、申し訳ありません。最近、絆さんにはとてもお世話になっているんです」
私は礼儀正しく頭を下げ、自己紹介をした。
「絆ちゃんにこんなお友達ができるなんて、思いもしなかったわ。……レナさん、どうかこれからもこの子をよろしくね!」
「……はい。精一杯、努めます」
「そんなにかしこまらなくていいわよ。絆ちゃんの友達が遊びに来てくれるだけで、私は本当に嬉しいんだから。……この子、本当に堅物でしょう? おばさん、ずっと心配で――」
「……おばさん。暖房を入れてくれる? 私たち、冷えているから」
絆さんが叔母さんの話を遮った。
「あ、そうね。すぐに準備するわ」
叔母さんはとても明るい人だった。その屈託のない話し方は、どこかあの変な男の子を彷彿とさせる。
「……ごめんなさい、レナさん。おばさんは、いつもああなの」
「いいえ。……私こそ、お邪魔してしまって」
「……そう」
沈黙。視線が交差する。
私は苦い笑みを浮かべ、絆さんは相変わらずの無表情。
……ああ、気まずい。
「自動販売機」という単語一つで、私をここまで連れてきた彼女。
最初はただの不気味な予感だけだったけれど、彼女が校内の四つの自販機から特定の飲み物が消える「謎」について話し始めた時、私は逃げられなくなった。
あの倉庫で、私が書き損じたあのノート。
彼女は間違いなく、あいつについて私が記した「研究内容」を読んでしまったんだ。疑われるのは、当然だった。
これが大きな問題なのか、それとも些細なことなのか。すべてはこれから、この部屋で明らかになる。
「……迷惑かしら?」
沈黙を破り、私が尋ねた。
絆さんはじっと私を見つめたまま、答えた。
「いいえ。……迷惑なはずないわ。あなたを無理に誘ったのは、私の方だもの」
「……そうね。それで、話したいことって?」
「自販機の件よ。……あなたは、あの『犯人』を知っているはずだわ」
心臓が跳ねる。
けれど、心の奥底で私は決めていた。あいつを、絆さんに売り渡すような真似は絶対にしない。あいつとの「屋上の聖域」を、これ以上誰かに荒らされたくない。
彼女は信頼できるかもしれないけれど、その「鉄の規律」は今の私にとって最大の脅威だ。
「……どうなの、レナさん?」
「……あいつは、誰なの? あなたのノートに書いてあった人物は」
「……それは、その……」
「お待たせ。暖房、もう大丈夫よ。リビングを使ってちょうだい。温かい紅茶も淹れたから。……おばさんは、執筆の続きに戻るわね」
追い詰められそうになったその瞬間、叔母さんが割って入ってくれた。
「……あそこで話しましょう。構わないわね?」
「ええ……。もちろん」
逃げ場を失った私は、彼女に促されるままリビングへと向かった。
豪華すぎない、けれどどこか温かみのある部屋。
向かい合わせのソファの間に、湯気の立つ二つのティーカップが置かれている。
私たちは座り、また沈黙した。
さっきまであんなに饒舌だった絆さんが、今は貝のように口を閉ざしている。
「……叔母さん、作家なの?」
気まずさを紛らわすために、私は聞いた。
「……ええ。小説を書いているわ。時々、私の意見を聞きたがるけれど」
彼女の声は、また事務的なトーンに戻っていた。
また、沈黙。
私は紅茶を一口啜った。甘みが体に染み渡り、緊張で強張っていた筋肉が少しずつ解れていく。
「……本題に戻りましょう、レナさん」
「……ええ」
覚悟を決める。絆さんの目は、もはやクラスメイトのそれじゃない。生徒会保安部としての、冷徹な監視者の目だ。
私はあいつを守り抜かなきゃいけない。
「……数週間前、校内の自販機から大量の缶コーヒーが消失したわ。正確には、補充されるそばから買い占められていた」
彼女は淡々と事実を述べる。
「……そして今は、缶ジュースがターゲットにされている」
私は黙って聞いていた。
気づいたことが一つある。あいつの好物は、リンゴジュースだけじゃないんだ。数週間前はコーヒーを買い占めていたなんて。
「……誰がやっているにせよ、これは明白な『独占』よ。生徒会には、他の生徒から多くの苦情が届いているわ。……レナさん。誰がやっているのか、教えてくれないかしら?」
沈黙が続く。
視線と視線が絡み合い、先に瞬きをした方が負けるような、そんな極限の膠着状態。額を汗が伝う。
考え抜いた末、私は口を開いた。
「……ごめんなさい、絆さん。あなたの職務を邪魔するつもりはないけれど。……それでも、私は言えないわ」
絆さんは少しだけ眉を上げ、聞き返した。
「……理由は?」
「……さっき、あなたは『独占』と言ったわよね?」
私は逆に問いかけた。
「ええ。それが何か?」
「……校則に、それを禁じる項目はあるのかしら? 正当な対価を払っている限り、誰が何を、どれだけ買おうと自由なはずよ。……自販機のシステムを壊したわけでもない。ただ、買っているだけ。……私の言っていること、間違ってる?」
絆さんが、言葉を失った。
彼女は視線を逸らし、黙り込んだ。
その鉄仮面の裏側で、彼女が必死に「論理」を組み立て直そうとしているのが分かった。
あいつが「道徳」を守るために私を助けたように。私は今、「論理」を使ってあいつを守ろうとしている。
(……ごめんね、絆さん。でも、あいつだけは、渡せないの)




