第13章:傘を分け合う
雨は激しさを増していた。これほどの豪雨になるとは、誰も予想していなかっただろう。叩きつけるような雨音が耳の奥で反響し、絆さんが差す傘に水滴が弾けるたびに、その振動が伝わってくる。
私たちは一本の傘を分け合い、並んで歩いていた。彼女の誘いを断りきれなかったのは、彼女のようなタイプを相手にするのが少し苦手だったからかもしれない。
沈黙。空気はどこまでも気まずい。彼女は真っ直ぐ前だけを見据え、こちらを向こうともしない。さっき「話したいことがある」と言ったのは彼女の方なのに。
この静寂を埋めるのは雨音だけだ。そのせいで、私の意識はまた別の場所へと向かってしまう。
(……ダメよ、こんな時に)
期待なんてしていないはずなのに。
あの、変な男の子。どうしてこんな瞬間にまで、あいつの顔を思い出してしまうんだろう。
好きな人と、一つの傘の下で。……そんなシチュエasiなら、どれほど幸せだっただろうか。
これが初めての「恋」だなんて、自分でも信じられない。男の人はみんな怖くて、気味の悪い存在だと思っていたのに。
気温は低いはずだ。風も強く、冷たい雨が吹き付けている。
それなのに、私の体はどこか熱を帯びていた。周囲の状況とは正反対に、体の芯から温かい何かが広がっていく。
肌は何も感じていないのに、胸の奥だけがポカポカと温かい。心臓の鼓動が速くなり、額にはじんわりと汗が滲んでくる。
……低体温症じゃないことは確かだ。症状が全く違うし、そもそも私は、この状況を「寒い」とは微塵も思っていなかった。
「……レナさん」
「――きゃあっ!」
不意に絆さんに名前を呼ばれ、まじまじと見つめられたので、変な声が出てしまった。彼女が気にしていないことを祈るしかない。
「……ごめんなさい、レナさん。私、知っているの」
彼女の声はどこまでも平坦だ。「ごめんなさい」と言ってはいるけれど、申し訳なさは微塵も感じられない。そもそも、彼女がなぜ謝るのかさえ私には分からなかった。
「……何を知っているの、絆さん?」
「二日前……。あなたが陸上部の副部長、久保田恵美さんと倉庫で揉めていたこと」
「……っ」
「盗み聞きをしていたわけじゃないわ。ただ、彼女が倉庫の扉を開けられなくて困っているんじゃないかと思って、様子を見に行っただけ」
絆さんは相変わらず無表情のまま、自分の無実を証明するかのように私をじっと見つめてきた。
「……いいのよ、絆さん」
私は少しだけ苦い笑顔を浮かべ、優しく答えた。
彼女を責めるつもりなんてない。あの日、彼女がすべてを聞いていたとしても、何かが変わるわけじゃない。私たちはこうしてまた会い、生徒会の仕事をした。それだけのことだ。
「……それで? 私たちの話、どこまで理解したの?」
私の問いに、絆さんの手が微かに震えた。差している傘が小さく揺れる。
「……恋愛に関するトラブル。それと、あなたの容姿にまつわる問題だと解釈しているわ」
「……その通りよ」
私は自嘲気味に答えた。
「あいつらは付き合ってるの。部長と副部長がね。恵美さんは、私が梶彦先輩を狙ってるって勘違いして……この『完璧な見た目』を呪ったのよ」
隠す必要はない。絆さんはすでに真相に辿り着いているはずだ。
私たちは歩調を合わせ、水溜まりを避けながら歩き続ける。傘が私たちを、冷たい外の世界から守ってくれていた。
「……そう。それで、あなたは大丈夫なの? あの時はかなり深刻そうに見えたけれど」
「……なんとかなったわ。彼女を説得できたから。……それより、どうして助けてくれなかったの?」
「……ごめんなさい。恋愛が絡む対人葛藤において、第三者の介入は事態を悪化させるだけだと判断したの。私が現れれば、火に油を注ぐことになったでしょう」
「……ふふ、確かに。理にかなってるわね。その代わり、今日は助けてもらったし。……改めて、ありがとう、絆さん」
「ええ。役に立てたならよかったわ。……ところで。美しくあることって、そんなに大変なことなの?」
「……絆さんは、どう思う?」
「分からないわ。私は、あなたほど美しくないから」
「……そんなことないわよ」
私たちは言葉を交わした。けれど、もう視線は合わせなかった。
絆さんのような「鉄の委員長」と、これほどスムーズに会話ができるなんて思ってもみなかった。彼女は確かに堅物だけれど、それを理由に彼女を拒絶するのは、少し乱暴すぎる気がした。
彼女には、話を聞いてくれる誰かが必要だったんだ。彼女は彼女なりのやり方で、他人を気にかけている。……絆さんは、ただの「普通の女の子」なのだ。
あの変な男の子が言っていた言葉。それを思い出しながら、私は自分の中の価値観が少しずつ広がっていくのを感じていた。
プレッシャーだらけのこの人生も、楽しみ方次第ではまだ捨てたもんじゃない。……それを邪魔する権利なんて、誰にもないんだ。
私たちは他愛もない話を続けた。雨水が傘の寿命を縮める可能性についてや、頼りにならない学級委員長の条件について。
彼女は「最高の委員長」なんて呼ばれるのは不本意だと漏らした。自分はただ義務を果たしているだけで、先生たちに都合よく使われているだけだと。突然の生徒会入りについても、淡々と、けれど少しだけ不満げに語っていた。
「……ねえ、レナさん」
絆さんが不意に私を見た。
「あなたの家、結構遠いのね。毎日こうして、歩いて通っているの?」
「ええ、そうよ」
「……疲れない? 自転車を使うとか、もっと楽な方法があるはずだけど」
「……そうね。でも、必要ないわ」
「どうして? かなり距離があるように感じるけれど」
絆さんは同情するような視線を向けてくる。……確かに、家までは歩いて30分はかかる。
疲れていないと言えば嘘になる。けれど、距離そのものよりもしんどいのは、帰り道に浴びせられる「視線」の方だ。見知らぬ男たちに声をかけられ、執拗に追い回される。
「……だったら、私の家に寄っていかない? ここから三分くらいの場所よ。家も同じ方向だし、あなたの家よりずっと近いわ」
「……そんな、これ以上迷惑はかけられないわよ」
「構わないわ。……私も、こんなに誰かと話したのは初めてだから」
絆さんの誘いを断る理由はなかった。足も少し重くなっていたし。
「……分かったわ。お邪魔するね。そこで傘を借りて、すぐに失礼するわ」
私の提案に、絆さんの歩みが遅くなった。
今度は私の方が、彼女をじっと見つめる番だった。彼女の表情は変わらない。けれど、空気が変わった。
「……ねえ、レナさん。正直、こういう話はあまり好きではないのだけれど」
絆さんの声が、鼓動のように耳に響く。
「……え、絆さん? 何、改まって……」
嫌な予感がした。
「……『自動販売機』のことよ」
「……え?」
その一言を聞いた瞬間、私は深い夢の中に突き落とされたような感覚に襲われた。




