第12章:雨
生徒会からの任務は終わった。あとは、今日の一問をあいつにぶつけるだけ。……けれど。
校門の前で、私の足は止まった。
激しい雨粒が地面を叩き、心地よい、けれど残酷な音を立てている。
どんよりとした灰色の空を見上げる。さっきまでの刺すような日差しが嘘のように、世界は塗り替えられていた。鼻を突く、独特なアスファルトの匂い。
(……これじゃ、屋上には行けないわね)
まさか、放課後にこんな土砂降り(どしゃぶり)になるなんて。さっきまではあんなに晴れていたのに、雨の予兆なんてこれっぽっちもなかった。
あいつに会えない。その事実に、胸の奥が少しだけチクリと痛む。
傘を持ってこなかった自分の不注意が恨めしい。……というか、準備ができていなかった。雨が止むのを待つしかないみたいだ。
今日の再会は、お預け。
次に会う時は、何の邪魔も入らなければいいけれど。
今までは、ただ「予感」だけを頼りにあいつを探していた。
……もし、連絡先さえ知っていれば、こんなに不安になることもなかったのに。
携帯の番号を交換していない。それは、私たちの間に「確かな繋がり」が何一つないということだ。
次に会えたら、絶対に聞いてやる。……もし、あいつが自分の名前で登録していたら、ついでに名前も分かるかもしれないし。
(……名案ね。どうして最初から気づかなかったのかしら。私、バカね)
小さくため息をつく。雨は一向に弱まる気配がない。
ただ待つ。ひたすら待つ。
「……あとどれくらい、ここにいなきゃいけないの?」
ふと、あいつのことが頭をよぎる。
……あいつはもう、帰っちゃったのかな。
何も分からないのが、もどかしくてたまらない。
「おっ、レナさんじゃん。一人? まだ帰らないの?」
ぼんやりしていた私の意識を、聞き慣れない男の声が引き戻した。
その姿を見た瞬間、生理的な不快感が背筋を走る。
金髪に、顔中のピアス。いかにもな「不良」の格好。
……正直、怖い。
私は表情を動かさないよう、必死に努めた。
こういうことは、今まで何度もあった。男子に絡まれること。
そんな時の対処法は決まっている。苦笑いを浮かべて、丁寧に、けれど冷たく断ることだ。
「……すみません、友達を待っているので」
私は薄く笑って答えた。
「いいじゃん、俺と一緒に帰ろうよ。傘、持ってるし。送ってってやるよ」
「お気遣いありがとうございます。でも、友達を置いていくわけにはいかないので」
視線を合わせず、苦い笑顔を維持する。あいつの視線が、獲物を狙う獣みたいで気持ち悪い。額に冷や汗が滲む。
体は震えているけれど、平静を装う。恵美さんの時とは、全く別の種類の恐怖だ。
「いいから、来いよ」
あいつはしつこく食い下がってくる。
「……すぐ、来るはずですから」
私は嘘をついた。こうするしか、逃げる方法が思いつかなかったから。
「いいって、減るもんじゃなし。別に変なことしねえよ」
「……すみません、放っておいてください。あなたと行くつもりはありません」
「あぁ!? なんだよ、お高くとまりやがって!」
あいつの声が荒らげられ、私の鼓動が跳ね上がる。
普通の男子なら、一度断れば諦めて去っていく。でも、こいつは違った。どうしても私を連れて行こうと、執拗に迫ってくる。
そして、あいつは私の腕を掴んだ。
万力のような強い力。抵抗しようにも、指が食い込んで動けない。乱暴で、野蛮な感触。
……最悪。やっぱり、男の人って怖い。
この恐怖だけは、どれだけ「完璧な自分」を演じても拭い去ることはできない。
助けを呼びたい。叫びたい。
でも、喉が震えて声にならない。
「……離して、ください」
消え入りそうな声。
「嫌だね。行くぞ」
あいつは力任せに私を引いた。
雨のせいで周りには誰もいない。みんなもう帰ったか、校舎の中で部活に励んでいるんだろう。
腕の痛みが強くなる。体がガタガタと震え出す。
(誰か……誰でもいい。お願い、助けて……っ!)
このままじゃ、本当に取り返しのつかないことになる。
私の絶望が極限に達し、視界が涙で歪み始めた、その時だった。
「――ちょっと。二人でどこへ行くつもり?」
不意に、少女の声が響いた。
私は弾かれたように、その声の主を見た。
「……絆さん!?」
(よかった……助かった……!)
そこに絆さんが立っているのを見て、全身の力が抜けるのを感じた。
一瞬だけ、助けに来てくれるのは「あの男の子」なんじゃないかと期待してしまったけれど……今はそんなことどうでもいい。
絆さんが来てくれた。それだけで、十分だ。
「あぁん!? 誰だ、てめぇ!」
男は舌打ちをして私を離し、絆さんを睨みつけた。
「私? 生徒会保安部の、中野絆よ。あなたは誰?」
絆さんは無表情のまま、男を見据えた。
この緊迫した状況でも、彼女の眉一つ動かない。
「……げっ、絆!?」
男の顔が、一瞬で引きつった。
絆さんは不良たちの間でも恐れられている。校則に厳しく、何より先生たちの後ろ盾がある彼女に逆らえる生徒はいない。
「……どうしたの? その髪の色、校則違反よ。黒染めしなさい。それから、ベルトはどうしたの?」
「……クソっ、うっせぇんだよ!」
「ピアスの跡も目立つわね。シャツの裾も出てる。今すぐ入れなさ――」
「あー、もう! 警察官気取りかよ、バカバカしい!」
男は吐き捨てるように言うと、逃げるように雨の中へ消えていった。
私は大きく息を吐き出した。
……本当に、死ぬかと思った。
「あ、ありがとう、絆さん……。助かったわ」
私は掠れた声で、彼女にお礼を言った。
絆さんは黙って私を見つめていた。
しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「……帰らないの?」
「ええ、まあ。雨のせいでね」
「傘は?」
「……持ってないの」
彼女は少しだけ間を置いた。相変わらずの鉄仮面だけれど、何かを考えているようだ。
「そう。……意外ね。完璧なレナさんが、そんなミスをするなんて。……さっきのノートといい」
「……その話はやめて。恥ずかしいんだから」
「……少し、気になってるんだけど。聞いてもいいかしら?」
「……ごめんなさい、それは言えないわ」
「そう。……私も、ちょうど帰るところよ。一緒にどう? 少し、話したいこともあるし」
「え……?」
まさか、あの絆さんから「相合傘」を提案されるなんて。しかも、私に話があるなんて。
彼女は、誰もが近寄りがたいと思っている「鉄の委員長」だ。普通の女の子らしいことなんてしない人だと思っていたのに。
「……嫌かしら?」
絆さんの声が、ほんの少しだけ弱まった気がした。
「……ううん、そんなことないわ」
私は慌てて答えた。
「……ええ。お話しましょう」
私は彼女の差し出した傘の下に入ることにした。
断る理由なんてない。
何より、私も彼女に興味があったから。




