第11章:愛の想い
私たちは一瞬だけ顔を見合わせ、それから勢いよく開かれた扉の方を振り返った。恵美さんは慌てて涙を拭っている。そこに立っていたのは……。
「……絆さん?」
少し驚いて、私はその名前を呼んだ。
私のクラスの学級委員長、中野絆。彼女は生徒会役員でもある。……それも、選別なしで、先生たちの強い推薦によって直接スカウトされた特例のメンバーだ。
学校側からの推薦があれば、生徒会はそれを受け入れる義務があり、拒否権はない。いわば「絶対的な優等生」だ。
「……お疲れ様。作業の邪魔をして悪かったわね」
彼女の声は、その視線と同じようにどこまでも平坦だった。
本当に、鉄仮面のように感情が見えない。私を含め、彼女とコミュニケーションをとるのに苦労する生徒は多い。
「だ、誰……っ!?」
恵美さんが、動揺した声で尋ねる。
「中野絆。私のクラスの委員長で、生徒会のメンバーよ」
私が代わりに答える。
「えっ? 生徒会……?」
「ええ。役員として、陸上部の作業状況を確認しに来たわ」
恵美さんの二つ目の質問には、絆さん自身が直接答えた。どうやら、私たちの仕事ぶりを監視……いや、確認しに来たらしい。
「ああ、絆さん。備品のリストアップは終わったわ。少し整理もしておいたから……これ、確認してくれる?」
私は手元にあった手帳を彼女に差し出した。
「……ありがとう」
彼女は短く答え、手帳を受け取ってページをめくった。
相変わらずの無表情。でも、文字を読む時だけは、少しだけ真剣な目つきになる。
……そんな風に思っていた時期が、私にもありました。
「『サヴァン症候群』……『缶ジュース』……。何、このノート?」
「――っ! ちょっと待って!!」
その言葉が耳に入った瞬間、私の体は反射的に動いていた。絆さんの手から、ひったくるように手帳を取り返す。
……最悪。
私は、あの変な男の子について書き留めていた「研究ノート」を、あろうことか生徒会役員に渡してしまったのだ。
どうしてこんな手帳を渡したのよ、私。いつからこんなにドジになったの!?
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。
手元が狂い、あたふたしながら手帳をカバンに押し込む。そして、大急ぎで「本物の」リストが書かれた方のノートを差し出した。
「こ、こっちよ、絆さん! さっきのは間違い。ごめんなさい……っ!」
彼女は特に追求することもなくノートを受け取り、また読み始めた。
正直、生きた心地がしなかった。恥ずかしさで体温が上がり、顔が沸騰しそうだ。
唯一の救いは、あの中身を「あいつ」本人に見られなかったことくらい。
……想像しただけで頭が破裂しそうだ。鼓動がうるさくて、呼吸が乱れる。
認めざるを得ない。
あの日、一缶のリンゴジュースで私を救ってくれたあの日から、私はあいつに……あの不思議な男の子に惹かれているんだ。
誰とも付き合ったことがない私でも、分かる。
これは……「恋」だ。
今まで、たくさんの男の子に告白されてきた。断る前に、私はいつも聞いていた。「どうして私のことが好きなの?」って。
「一目惚れだ」「君の顔を見てから頭から離れない」「会っていない時も、君のことを考えると心臓がバクバクするんだ」。
そんな、彼らの「告白の理由」を私はずっと学習してきた。
そして今、私に起きているこの現象――あいつを想うたびに制御不能になる心。
冷静に分析した結果、導き出される結論はたった一つ。
……私は、あいつに恋をしている。
理屈じゃない。感情が勝手に押し寄せてきた。招かれざる客なのに、私はそれを拒むことができなかった。
「……ねえ、レナさん」
ずっと黙っていた恵美さんが、耳元で囁いてきた。
「――っ!?」
あまりの至近距離に、肩がびくりと跳ねる。
絆さんがリストに集中している隙に、恵美さんがニヤニヤしながら私を見ていた。
「な、なによ……」
「さっきのノート、何? まさかあんなの見せちゃうなんて、意外だわ」
「……言えないわよ。第一、あんたには関係ないでしょ」
「えへへ……。本当? 隠されると余計に気になるんだけど」
「……黙りなさいよ」
「えー、図星? ……当ててみようか?」
「本気で怒るわよ、恵美さん!」
彼女はクスクスと楽しそうに笑った。
……腹立たしい。完全に面白がっている。でも、彼女の顔から毒気が抜けて、どこか晴れやかな表情になっていることには、少しだけ安堵した。
「……リストは問題ないわ」
恵美さんの揶揄を遮るように、絆さんが口を開いた。助かった。これで彼女の視線が私から外れる。
「そう? 役に立てたならよかったわ、絆さん」
私はいつもの「完璧な笑顔」で答える。
「ええ、助かったわ。あとは報告書をまとめて私に提出して。残りの実作業は、茶道部に引き継ぐから」
「はぁ? 茶道部? なんで茶道部がそんなことすんのよ?」
恵美さんが素っ頓狂な声を上げた。
絆さんは無表情のまま恵美を見据え、答えた。
「茶道部は正式な部活動よ。彼女たちもお茶の作法だけでなく、行事運営を学びたいそうよ。興味があるなら入部を勧めるわ」
「この学校は二つまで部活動を掛け持ちできる。それが上限よ」
「……興味ないわよ、そんなの」
恵美は吐き捨てるように言い、茶道部という存在を鼻で笑った。
茶道部。
確かに絆さんの言う通り、この学校が開校した時からある伝統的な部活だ。
新入生向けのパンフレットで見たことはあるけれど、一体どんな活動をしているのか、私にもよく分からない。
……興味はない。
私は中学の頃から陸上部で、走ることが好きだった。ただそれだけの理由でここにいる。
「……了解したわ」
絆さんが締めくくった。
「陸上部としての任務はこれで終了よ。生徒会を代表して、感謝するわ」
絆さんは私と恵美さんに深々と頭を下げ、手帳を返すと、すぐに倉庫を去っていった。
扉が閉まり、また私たち二人きりになる。
絆さんの「陸上部として」という言葉が、胸にチクリと刺さった。
陸上部、か……。
最近、走るのが少し嫌になってきている。みんなが私の「勝利」を期待し、負ければ「完璧」のメッキが剥がれるように扱われるから。
もう、走る理由が見つからない。
私を完璧な偶像としてしか見ない彼らに、これ以上何を捧げればいいのか分からない。
……今の私を繋ぎ止めているのは、あの屋上にいる変な男の子だけだ。
私の人生は、あいつの手に握られている。あいつを攻略するまで……あいつの「一問」を解き明かすまで、私はまだ死ねない。
「……ねえ、レナさん」
恵美さんがまた、ニヤリと笑って声をかけてきた。
「……なによ」
「そのノート、貸してよ。『サヴァン症候群』のあいつのこと、もっと詳しく知りたいんだけど?」
「……絶対に、嫌」
私は恵美の顔を見ることなく、カバンを掴んで倉庫を飛び出した。
ニヤニヤ笑う彼女を背後に残し、私は一目散に「あの場所」へと走り出した。




