第十九話 朝の選択
朝。目が覚めたとき、カーテン越しの光が少しだけ強い気がした。
時計を見る。いつもより二十分遅い。
「……やば」
飛び起きて、顔を洗い、歯を磨きながら頭の中で時間を計算する。キッチンを覗くが、当然何も用意されていない。朝食を作る余裕はなさそうだ。
鞄を掴んで外に出る。少し早足。通学路の途中、あのパン屋の前でふと足が緩んだ。
あの日以来、来ていなかった。
自動ドアを押すと、小さな鈴が鳴る。
「いらっしゃいませー」
いつも通りの声。店内は甘い匂いで満ちている。
「メロンパン焼き立てでーす」
棚に並んだ丸く膨らんだそれから、わずかに湯気が立っていた。抗えるはずもなく、俺はトレーに一つ乗せる。
その瞬間、エネコが震えた。
《現在の体重推移を確認。エネルギー摂取量が基準を下回っています》
《推奨:サンドイッチ+牛乳》
画面に並ぶ数字と商品名。
「朝から多いって」
《推奨を再計算します》
数秒の間。
《代替案①:バナナ+牛乳》
《代替案②:ゆで卵+ヨーグルトドリンク》
《代替案③:プロテイン飲料》
ヨーグルトドリンク、という文字に目が止まる。視線が自然と冷蔵ケースへ向いた。見慣れたパッケージが並んでいる。
前も、これだったな。
一度、指先が離れる。メロンパンの甘い匂いが強い。――それでいいか、と一瞬思う。
けれど、冷蔵ケースの縁に触れた指がひやりと冷たくて、思わずもう一度視線を落とした。
俺は小さく息を吐き、ヨーグルトドリンクを手に取る。
トレーに置いた瞬間、エネコが淡々と告げる。
《現在の選択は推奨基準を満たしています》
それだけ。
袋を受け取って外に出る。朝の空気はまだ冷たく、紙袋越しに伝わるメロンパンの温かさが妙に頼もしい。
歩きながら一口かじる。甘い。すぐに喉が乾いて、ヨーグルトの蓋を開けた。白い液体が喉を通ると、さっきまでの焦りが少しだけ落ち着く。
信号が赤に変わり、俺は足を止める。
袋の中で、メロンパンはまだ温かい。
ヨーグルトの容器を握りながら、ぼんやりと思う。
「……まあ、悪くない」
信号が青に変わり、俺は横断歩道を渡る。講義棟に入るころには、メロンパンは半分ほどになっていた。
教室の後ろに滑り込み、ノートを開く。
エネコが静かに振動する。
《現在の講義内容を解析中》
黒板の文字が整形され、要点が端末に並ぶ。前回分のログも自動で補完される。
遅れはない。
理解できているかどうかは別として、授業にはついていけている。
教授の問いに教室が静まり、端末がいくつかの回答候補を提示する。
俺はそれを一度閉じ、自分の頭で考える。
大きくは外れていない。
《推定理解度:72%》
72か。微妙だな。
……まあ、今はそれでいい。
チャイムが鳴り、講義は終わる。
端末を閉じて立ち上がる。
一日の講義が終わると、校舎の外はもう夕方の色をしていた。
オカ研の活動については、特に連絡はない。
先輩たちはまだ講義か、あるいは実習か。
広いキャンパスの中央で立ち止まり、なんとなく空を見上げる。
夕焼けはやけに広くて、雲の端だけが薄く赤い。人の流れは絶えない。笑い声も、足音も、遠くのサークル勧誘の声も、全部ちゃんと世界の一部としてそこにある。
その真ん中に立っているはずなのに、自分だけが一歩、ほんの半歩だけ、枠の外にずれているような感覚があった。
誰かと繋がっていないわけじゃない。
居場所がないわけでもない。
ただ、手を伸ばせば触れられる距離にあるはずの熱が、うまく掴めない。
風が少しだけ強く吹いて、シャツの裾が揺れる。
人の波の縁に立っている気分だ。
……さすがに言いすぎか。
「独りぼっちだな」
なんて言葉を使うほど劇的でもない。
――立っているつもりで、まだ寄りかかる場所を探しているだけなのかもしれない。
――それでも、そろそろ様になる背中くらいは見せたいところだ。
そんな半端な自分を、空に向かって誤魔化そうとした、その瞬間。
背後から声が落ちてきた。
「おや、こんなところに迷える一年生が」
振り向く。
「いつから見てたんですか」
「君が『独りぼっちだな』と黄昏れて空を見上げるところからかな」
思わず顔が熱くなる。
「全部じゃないですか」
「声をかけるか迷っていたところに、三文芝居を見せられた私の気も揉んでほしいものだがね」
いつもの調子。
柊先輩は腕を組んだまま、にやりと笑う。
「随分ましな顔になったじゃないか。茹蛸みたいで」
ぽん、と肩に手が置かれる。次の瞬間、その手が小刻みに震え出した。
「笑いすぎ」
睨んだつもりなのに、頬が熱いのが自分でも分かる。なんなら、さっきより確実に熱い。
「いやいや、すまない。あまりにも見事な赤面だったものでね」
「見世物じゃないんですけど」
「充分見世物だったとも。夕焼けを背に、孤独な主人公を気取る一年生。なかなかの出来だったよ」
「やめてください」
柊先輩は肩から手を離し、わざとらしく咳払いをする。それでも口元はまだ緩んだままだ。
「あー、笑った笑った。くふふ」
「まだ笑ってるでしょうが」
「笑える程度にはマシになったということさ」
その言い方が、ほんの少しだけ柔らかい。
「え?」
「先日までは、からかう余地もなかったからね。触れれば割れそうな顔をしていた」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
柊先輩の視線が、もう一度だけ真面目に俺をなぞった。
立ち姿。
呼吸。
目線。
値踏みするみたいに、でも確認するように。
「……まあ、今日はちゃんと地面に足がついている」
「それ、褒めてます?」
「大いに。成長を見守る上級生としてはね」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「さて、迷える一年生。今日の夕飯はどうする?」
からかい半分、いつもの距離。
「……あ、あと」
「なんだね」
「白衣、裏表逆です」
柊先輩は一瞬止まり、
それから盛大に咳き込んだ。
簡単に夕飯を済ませ、帰宅したころには、すっかり夜になっていた。
鍵を回してドアを開けると、むっとした室内の空気が頬に触れる。昼間閉め切っていたせいか、わずかにこもった匂いがする。電気をつけると、白い光が静かに部屋を満たした。
静かだ。
冷蔵庫の低い唸りと、壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
靴を脱ぎ、揃え、鞄をいつもの位置に置く。上着を椅子の背にかける。その一連の動作が、どこか映像の再生みたいに感じられて、妙な既視感に襲われた。
今日の一日が、頭の中でゆっくりと巻き戻る。
朝のパン屋。メロンパンの甘い匂い。
講義室のざわめきと、端末の淡々とした通知音。
夕焼けに染まるキャンパスで、ひとり気取っていた自分。
そして、あの日。
アリスに最初に会った日。
胸の奥が、きゅ、とわずかに縮む。
視線が、自然と部屋の片隅へ向く。
そこに、段ボールがあった。
いや、あったはずだ。
床に置かれた箱。
その隙間に、体操座りの小さな影。
一瞬だけ、そこにいる気がした。
呼吸が浅くなる。
足の裏が、床に張り付くみたいに動かない。
瞬きをする。
次の瞬間、そこにあるのは空っぽの充電ステーションだけだ。
白い台座。整然と並ぶ端子。ケーブルはきちんと巻かれている。
何も乱れていない。
何も残っていない。
アリスはいない。
いない。
喉の奥がひりつく。胸の奥で、何かがわずかに軋む。それでも、視線を逸らさない。
逃げるように目を閉じることもできたはずだ。
けれど、俺は立ったまま、そこを見つめている。
そのとき。
——ピンポーン。
インターホンが鳴った。




