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アリス・イン・ワンダーログ ー今日から俺はアンドロイドのマスターらしいー  作者: tomato.nit
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第十七話 見たなら来い



 昼過ぎ。


 雨は止んでいた。


 止んでいるのに、部屋の空気はまだ重い。 湿気だけが取り残されたみたいに、肺の奥にまとわりつく。


 カーテンは閉じたまま。


 立ち上がる理由がない。


 机の上には、昨日の手紙。 何度も読み返して、端が少し柔らかくなっている。


 “私も、ずっと一緒にいたかった”


 その一文だけが、頭から離れない。


 立つ。


 立つ意味がない。


 それでも、体は立っていた。


 首元のエネコが、短く震える。


 無数の通知。


 講義。 未読メッセージ。 オカ研のグループチャット。


 その中に、一つだけ。


 大山流平。


 本文は一行。


 “見たなら来い”


 それだけ。


 理由も、説明もない。


 なのに。


 胸の奥で、何かが動いた。


 怒りでもない。 希望でもない。


 ただ、静かに、沸く。


 行かなければならない、という感覚。


 手紙を折り、ポケットにねじ込む。


 壁に掛かった、裂けたコートが揺れている。


 風はない。


 窓は閉まっている。


 それでも、揺れているように見えた。


 目を逸らす。


 玄関のドアを開ける。


 外の空気は冷たい。


 駅までの道を歩く。


 足音だけがやけに大きい。


 電車に乗る。


 ドアが閉まる音が、やけに乾いて聞こえた。


 二時間。


 吊り革が小さく揺れている。車内広告の紙が、空調の風でわずかに波打つ。誰かの香水と、濡れたアスファルトの残り香が混ざった匂い。


 向かいの窓に、自分の顔が映る。


 蛍光灯の白い光に照らされて、輪郭だけがやけに浮いている。


 酷い顔だ。


 目の下に影が落ちている。口元は動いていないのに、どこか歪んで見える。


 視線を少しずらす。


 窓の向こう側。


 住宅地が後ろへ流れていく。雨を含んだ屋根瓦が鈍く光る。ベランダに干されたままのタオルが、湿ったまま垂れている。


 踏切。


 赤いランプが点滅しているのを横目に、列車はそのまま通過する。


 田畑。


 水を張った水田が、空を映している。曇り空の灰色が、ゆらりと揺れる。


 川。


 増水している。茶色く濁った流れが、護岸に当たって泡立っている。


 景色は、確かに動いている。


 自分は、ただ座っている。


 隣の席が空いている。


 そこに視線が落ちる。


 布地の擦れた跡。誰かが座っていた痕跡だけが残っている。


 一瞬、そこに白いコートがある気がする。


 袖口が、こちらに向いている気がする。


 額が触れる感触を、想像してしまう。


 柔らかな布越しの、微かな温度。


 目を閉じる。


 いない。


 分かっている。


 車輪がレールの継ぎ目を踏む。


 一定のリズム。


 視覚だけが、情報を拾い続ける。


 看板の文字。駅名標。信号機の色。電柱の間隔。


 だが、意味が薄い。


 色が、わずかに抜け落ちている。


 鮮やかさだけが、どこかに置いていかれているようだった。


 終点。


 降りる。


 改札を抜けたところで、見慣れた車が停まっているのが見えた。


 黒いセダン。


 運転席の窓が、静かに下がる。


 叔父がこちらを見た。


 白衣ではない。簡素なシャツにジャケット。だが、姿勢はいつも通り無駄がない。


「乗れ」


 それだけ。


 理由も、挨拶もない。


 助手席のドアを開ける。


 車内は、革とわずかな機械油の匂いがした。研究所と同じ匂いだが、少しだけ古い。


 ドアが閉まる。


 エンジンが低く唸る。


 車は走り出す。


 無言。


 ワイパーが、乾いたフロントガラスを一度だけ払う。雨はもう降っていない。


 窓の外に、知らない町並みが流れていく。


 商店街のシャッター。色褪せた看板。閉じたままのガソリンスタンド。


 道は次第に細くなる。


 住宅が減り、雑草の伸びた空き地が増える。


 やがて、見覚えのある曲がり角。


 胸の奥が、わずかに軋む。


 車が止まる。


 目の前にあるのは、寂れた道場。


 木の外壁は色を失い、看板の文字は半分剥がれている。


 昔はここで、よく叔父に稽古をつけてもらった。


 泣きながら竹刀を振った日もあった。


 負けて、悔しくて、何度も立ち上がった。


 その場所だ。


 エンジンが止まる。


 ただ、ついてこいと。背中が語る。 


 ドアを開けると、湿った木の匂いが鼻を刺した。


 叔父が先に歩き出す。


 鍵を開け、引き戸を滑らせる。


 中は薄暗い。


 だが、板張りの床は、記憶のままだ。


 足裏が、覚えている。


「竹刀を持て」


 振り返りもせずに言う。


「そんな気分じゃない」


 口をついて出た。


 一瞬の沈黙。


「だからこそだ」


 短い。


 相変わらず、この人は道場では言葉が少ない。


 剣は雄弁に語る。何よりも。


 それが、この人の教えてくれたことだ。


 理屈も慰めも、ここでは意味を持たない。


 それでも。


「少し見ないうちに腑抜けたな」


 背中越しに、淡々と。


「言いたいように言えよ」


 苛立ちが滲む。


 壁に立てかけられた竹刀が、何本かある。


 そのうちの一本を、手に取る。


 手のひらに、ざらりとした感触。


 軽い。


 だが、確かな重み。


 叔父が、ゆっくりと向き直る。


 構えは低い。


 隙がない。


「来い」


 構える。


 気持ちは、まるで乗っていない。


 正直に言えば、竹刀を握る理由も分からない。


 怒りも、覚悟も、きれいな決意もない。


 ただ、言われたから、ここに立っているだけだ。


 それでも。


 足が、自然に半歩引く。


 右手が柄を締める。


 左手が、無意識に位置を探り、定まる。


 背筋が伸びる。


 視線が、叔父の喉元に吸い寄せられる。


 呼吸が、深くなる。


 思考が、静かに削ぎ落とされていく。


 さっきまで胸を占めていた重さが、輪郭を失う。


 壊れた心も。軋む体も。


 ここでは、関係がない。


 何百回も、何千回も。


 積み重ねた時間が、勝手に体を動かす。


 自分の意志より先に、体が知っている。


 ここでは、迷う暇はないと。


 竹刀の先が、わずかに揺れる。


 その揺れすら、すぐに収束する。


 視界が、澄む。


 音が、遠のく。


 残るのは、目の前の一人だけ。


 足裏が、板を掴む。


 わずかに軋む音。


 道場の匂いが、肺の奥まで入り込む。


 乾いた木。古い汗。皮膚に馴染んでいく。


 竹刀の重さが、消えていく。


 指先から肘、肩、背中へと一本の線が通る。


 刃はないはずの竹刀が、やけに鋭く感じられる。


 目の前の叔父。


 低い構え。


 その切っ先は、静かな水面のようだ。


 揺れていない。


 だが、深い。


 語らない切っ先が、問いを投げてくる。


 ――まだ立つのか。


 ――逃げるのか。


 言葉ではない。


 圧だ。


 体の表面が、ひりつく。


 だが、不思議と恐怖は薄い。


 馴染んでいく。


 この張り詰めた空気に。


 この距離に。


 この緊張に。


 切っ先がわずかに触れ合う。


 乾いた、細い音。


 その一点から、すべてが繋がる。


 呼吸が、さらに深くなる。思考は、もうない。


 あるのは、間合いだけ。


 踏み込みと、受けと、返しの可能性。


 叔父の肩の僅かな沈み。


 足の母趾にかかる重心。


 切っ先の角度。


 その全部が、はっきりと見える。


 次の瞬間。


 水面が、割れる。


 叔父の切っ先が、わずかに沈む。


 来る。


 判断より先に、体が応じる。


 踏み込み。


 振り下ろす。


 竹刀がぶつかる。


 乾いた音が、空洞みたいな道場に響く。


 腕に衝撃が走る。


 だが、芯はない。


 振ったはずなのに、何も乗っていない。


 叔父は崩れない。


 受け流し、間を詰め、問いを落とす。


「守れなかったか」


 静かだ。


 責めていない。


 ただ、事実を置く。


「……ああ」


 喉が張り付く。


 足裏が汗ばむ。


 握りが、少し緩む。


「守りたいと思ったか」


 切っ先が、喉元に迫る。


 逃げ場はない。


 問いは単純だ。


 だが、その単純さが、抉る。


 守れなかった事実。


 間に合わなかった距離。


 伸ばされた白い腕。


 伸ばしてしまった自分の腕。


 胸の奥に沈めていた映像が、水面に浮かび上がる。


 体はまだ構えを崩していない。


 だが、心は揺れる。


 揺れた瞬間。


 叔父の圧が、さらに一段深く沈む。


 ただ、その問いに、立てるかどうか。


 喉が焼ける。


 呼吸が荒い。


 それでも。


「……思った」


 叫ばない。


 絞り出す。


 その言葉は、情けないほど弱い。


 だが、嘘はない。


 胸の奥で、何かが崩れる。


 格好をつける力が抜ける。


 守れなかった。


 守りたいと、思った。


 それだけ。


 叔父は一歩踏み込む。


 竹刀が弾かれ、体勢が崩れる。


 足が滑る。


 床に膝をつく。


 乾いた板の冷たさが、じかに伝わる。


 立てない。


 呼吸が荒い。


 視界が滲む。


 悔しさでも怒りでもなく、


 ただ、足りない。


 その感覚だけがある。


 竹刀を握ったまま、顔を上げる。


 叔父は打ち込まない。


 切っ先を、ほんの数センチ、喉元で止めている。


「逃げるか」


 短い。


 選択肢は、それだけ。


 膝は震えている。


 立つ気力は、まだない。


 だが。


 竹刀を離さない。


 柄を握る指だけが、白くなる。


「……逃げない」


 声は低い。


 立派でもない。


 決意でもない。


 ただの事実だ。


 叔父は数秒、そのまま見ている。


 やがて、切っ先が下がる。


「それでいい」


 褒めない。


 励まさない。


 評価もしない。


 ただ、事実を置く。


 膝をついたまま、息を整える。


 まだ立てない。


 だが、顔は伏せていない。


 板の上に落ちた汗が、ゆっくりと広がる。


 道場の空気が、静かに戻る。


 叔父が背を向ける。


「今日はここまでだ」


 立てとは言わない。


 支えもしない。


 ただ、出口は塞がない。


 颯太は、その場に膝をついたまま、しばらく動かなかった。


 立てない。


 だが、逃げない。


 それだけは、はっきりしていた。



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