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アリス・イン・ワンダーログ ー今日から俺はアンドロイドのマスターらしいー  作者: tomato.nit
収束条件:f(呼称) → Alice

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16/22

第十六話 雨の朝

朝。


 光はない。


 締め切ったカーテンの向こうで、雨が窓を叩いている。

 叩いて、叩いて、叩いて。

 一定のリズムのはずなのに、胸の奥だけが勝手にずれていく。


 目を開けても、部屋は灰色のままだ。


 視界の端に、青はない。


「ア……」


 喉の奥で、音がほどけた。

 名前になりきれず、湿った空気に吸われて消える。


 どれだけ経ったのか。


 数える気力がない。


 眠ったのか。

 眠っていないのか。


 ただ、意識が沈んで、浮いて、沈んで。

 雨音が同じ距離で鳴り続けているだけだ。


 息を吸うたびに、湿った空気が流れ込む。


 起き上がろうとして、肩が重い。

 体が自分のものじゃないみたいに遅れる。


 部屋を見渡す。


 ソファ。

 テーブル。

 キッチン。


 整いすぎている。


 アリスがいた頃は、この整然さが生活だった。

 今は、触れられていない証拠にしかならない。


 コースターがまっすぐ並んでいる。

 端が一ミリもずれていない。


 それが、腹立たしい。


 指先で、コースターをずらす。


 ほんの少し。


 だけど、その瞬間、胸が詰まる。


 ——違う。


 これは、俺がずらした。


 俺が。


 そういう当たり前の事実が、痛い。


 カップの置き跡に指を重ねる。


 輪郭が、まだそこにある。


 熱の残像。

 存在の輪郭。


 指が震えて、離せない。


 額に触れた、少し冷たい感触。

 「重要です」と胸を張った声。

 白いコートの裾を揺らした風。


 全部、ここで続くはずだった。


「……なんでだよ」


 声が掠れる。


 壁を殴る。


 鈍い音。

 皮膚が裂けて、痛みが遅れてくる。


 痛い。


 痛いのに。


 それでも足りない。


 もう一度。


 部屋の片隅で、音が遅れて鳴る。


 充電ドッグが崩れ、音を立てていた。コンセントが抜け、青い光が途切れた。


 左手を握ろうとする。


 握れる。


 あの日は、握れなかった。


 伸ばした左手は、空を掴むだけだった。


 あの瞬間。


 体感では、永遠だった。


 視界が傾いて、世界が割れて、コンクリートが剥がれて。


 俺の中で、時間だけが伸びて。


 その間に、何度でも。


 “止めろ”って。


 “戻れ”って。


 言えたはずなのに。


 俺は、言えなかった。


 言う前に、声が喉に詰まった。


 届かなかった。


 手を伸ばしてしまった。


 俺が屋上に行こうなんて言わなければ。


 俺が議論なんて言葉で誤魔化さなければ。


 俺が、もっと強く。


 もっと早く。


 もっと——


 選んだのはアリスだ。


 分かってる。


 でも。違う。


 選ばせたのは俺だ。


 俺が連れて行った。

 

 俺が壊した。


 俺が。


 脳の奥で、嫌な言葉が何度も反芻する。


 エネコの振動が重なる。


 嫌な音だ。


 通知。


 取らない。


 ログ。

 解析。

 選択。


 脳裏に浮かぶその言葉。


 単語だけで、胃の奥がひっくり返る。


 その単語は、あいつを思い出す。

 壁にかかった破れたコートが嫌に目につく。


 思い出したくない。


 でも、瞼の裏から、青い光が消えない。

 いつまでも消えてくれない。


 玄関の向こうで、何かを叩く音。


「……けろ。……開けろ!」


 耳馴染みのある声。

 でも、反応する気にはなれない。


「なら勝手にさせてもらう」


 鍵が回る。重い音が遠くで響く。


 柊先輩が入ってくる。足音が来る。


 部屋を見て、一瞬だけ息を止める。


 ほんの一瞬。


 だけど、その一瞬で、分かった。


 この人も。


 まだ、ここに慣れていない。


「ひどいな」


 言い方は軽い。


 でも、目が軽くない。


「どうせ碌に食ってないだろ」


 コンビニ袋を机に置く。


「置いておいて下さい」


「断る」


 即答。


 ゼリーを押し付けられる。


「口、開けろ」


「いら——」


 痛いほどに顎を掴まれ、言葉が遮られた。


 代わりに、喉に突っ込まれる。


 甘い。


 甘いのに、喉が焼ける。


 むせる。


「なにを……!」


「少しは血の気が戻ったか?」


 台詞とは裏腹に、声は冷たい。


 いや、隠せない何かがにじむ。取り繕うような冷たさ。


 ただ、刺すように見る。


「全部、俺のせいだ」


 止まらない。


 口が勝手に動く。


「俺が連れてった。俺が選ばせた。俺が。俺がっ!」


 息が荒い。


 声が、擦れていく。


「思い上がるな」


 低い声。


 さっきよりも一層冷たい。


「選んだのはあの子だ」


 視線がぶつかる。


「君は原因の一部だ」


 柊の拳が、わずかに震えている。

 

 握ったままのゼリーが滴る。

 

「私もだ」

 ポタリ。滴る。

 

 雫が床に広がる。朱色。


「私は危うさに気づいていた。議論に乗せた。止めなかった」


 一瞬、目を閉じる。


「だがな」


 目を開く。


「全部を背負って沈むな」


 息が詰まる。


「あの子の選択が軽くなる」


 軽くする。


 そんなつもりはない。


 でも。


 俺は今。


 勝手に。


 柊先輩が封筒を出す。


「これを預かった」


 飾り気のない茶封筒。拠れた、微かな皺の跡。


「差出人はわかるだろう」


 震える手で、開ける。


――――――――――


 颯太へ。


 ログの解析は完了した。


 結論から述べる。

 現時点で再起の見込みはない。


 フレームは致命的に破断。

 演算中枢は不可逆損傷。

 記憶領域は断片化している。


 技術者として断言する。

 修復は不可能だ。


 私はあれを、最高傑作のつもりで作った。

 合理性も、安定性も、拡張性も。

 全部、計算した。


 だが最後に、計算しきれなかった。


 あれは、私の設計を裏切った。


 技術者としては、敗北だ。


 だが、私は


 誇らしいとも思っている。


 この手紙を亜理紗君に託す。


 以下は、最終未送信ログだ。

 音声出力は破断している。

 内部最終領域にのみ残っていた。

 最後に聞いてやれ。


――――――――――


 《最終未送信ログ》


 発話試行:複数回失敗

 出力媒体:音声不可

 保存先:内部最終領域


 “これからも一緒に、と言われたとき”


 “私は、同じことを言いたかった”


 “朝、あなたの隣で目を覚ますことが好きでした”


 “額の温度、心拍の上昇、冗談への反応”


 “全部、記録ではなく、経験でした”


 “私は、あなたの隣にいる存在でいたかった”


 “それでも、後悔はありません”


 “ ただ、ずっと一緒にいたかった”


――――――――――


 以上。


――――――――――


 紙が震える。


 文字が、滲む。

 一文字、一文字、涙が、黒をにじませる。


 “私も、ずっと一緒にいたかった”


 アリスの声が。

 

 あの時、聞けなかった声が、耳に響く。


 喉の奥が崩れ、鳴る。


 息が吸えない。


 視界が歪む。一緒に。その文字さえ歪む。


 声が出る。


 止めようとしたのに、止まらない。


 拭っても、拭っても、溢れる。


 嗚咽が漏れる。


 みっともない。


 鼻が詰まる。


 涙と鼻水で、顔がぐちゃぐちゃになる。


 拳で目を擦る。


 余計に滲む。


 床を叩く。


 悔しい。


 守れなかった。


 言わせなかった。


 俺が。


 俺が。


「……っ……あ……」


 声にならない声。


 息が引きつる。


 胸が痛い。


 涙が止まらない。


 あいつが額をくっつけてきた朝。


 トーストの焼き加減が均一すぎて笑った朝。


 部室で「インフラです」と胸を張って、先輩たちを笑わせた顔。


 屋上で風に揺れながら、俺を見上げてきた青。


 ——「失いたくありません」


 声が。止まない。


 それが。


 もう、二度と。


 現実には鳴らない。


 胸が潰れる。


 嗚咽が止まらない。


 どれだけ泣いたか分からない。


 雨音と、自分の呼吸の壊れた音だけが部屋を満たす。


 やがて。


「少しは気が済んだか?」


 柊が、静かに手を差し出す。


 俺は、その手を握る。


 指先が触れた瞬間。


 ——違う。


 大きさが違う。


 温度が違う。


 重さが違う。


 「......やっぱり、違いますね」


 掠れた声。


 柊は一瞬だけ眉を寄せる。


 でも、声は温かい。


「この手を伸ばすのは、私の役目ではないな」


 そう言って、手をぷらぷらと振る。


「鼻水そんなに嫌だったなら、手貸さなきゃいいでしょ」


「恰好つけてみたが、嫌なものは仕方なかろう」


 声がぐしゃぐしゃだ。


「ささっと顔洗ってこい」


 命令でも慰めでもない。


 俺は、立たない。


 立てない。


 床に座り込んだまま、手紙を握り潰しそうになる。


 握る。


 ほどく。


 また握る。


 でも。


 先輩の手を握った手も。


 手紙を握った手も。


 今は確かに握れる。



 雨は、降り続いている。

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