第四十九話 僕らの選択
「遅ぇよ」
その声が耳に届いた瞬間、俺の足が止まった。
濡れた黒曜石のように光を吸い込む床。無機質な金属壁。天井の暗がりには、血管を思わせる細い赤色の光が走っている。
その通路の奥から、一人の男が歩いてきた。
ルカとレンが左右へ展開し、迅が俺たちの前へ出る。俺も腰の短剣へ手を伸ばした。
紫黒髪。細身の身体。漆黒の衣装。そして右肩から腕へ、不気味な黒い筋が這っている。
黒崎レオ。
「……お前」
レオは俺を見ると、わずかに眉を動かした。
「ようやく来たか」
迅が大剣の柄を握る。
「こいつが例のPKか?」
「……気に入らねぇ目だな」
「同感だ」
空気が一気に張り詰める。
俺は迅の肩に手を置いた。
「待って」
「こいつ、お前の友達殺した奴だろ」
「だからこそ、聞く」
俺はレオから目を逸らさなかった。
「ここで何してる」
数秒の沈黙のあと、レオが答えた。
「止めに来た」
「何を?」
「侵食を」
レオが壁を見る。その先では、何本もの黒い筋が生き物のように蠢いていた。
「グリーンゲートに入ってきたあれは、魔物じゃない」
「じゃあ何なんすか?」
ルカが問い詰める。
「観測因子」
聞き覚えのある言葉だった。
「人間や魔物に入り込んで情報を集める。適合すれば身体まで使う」
しえるの顔が曇る。
「久我さんみたいに……?」
レオは小さく頷いた。
「完全に入り込まれる前なら、切り離せることもある」
俺の視線が、レオの腰にある黒い短剣へ落ちた。
「お前が決めんじゃねぇ」
レオは答えない。
「あいつも……透も!!」
拳を握り締める。指先に血が滲むほど力が入った。
ここで殴り倒しても、刃を突き立てても、きっと誰も俺を責めない。
「……佐川君」
神代の声で、どうにか息を吐いた。
「後で聞く」
「何を」
「全部」
短剣を下ろす。
「今は先に行く」
「……そうか」
迅が舌打ちした。
「随分冷静じゃねぇか」
「冷静じゃないよ」
下げた手は震えていた。
「でも、こいつ殴ってる間に何か起きたら、それこそ透に怒られる」
その瞬間。
レオが初めて俺から視線を逸らした。
「……その大久保透なら」
心臓が跳ねる。
「いる」
「……は?」
頭が言葉の意味を拒絶した。
レオは踵を返す。
「来い」
俺は反射的に袖を掴んだ。
「待て。今、何て言った?」
「大久保透がいる」
「ふざけんな!」
怒声が通路に響いた。
「透は死んだ。俺が見た。葬式もした! だったら何でいるんだよ!!」
レオは静かに振り返る。
「俺にも全部は分からない。ただ、お前の黒球が起動したその時からだ」
腰に下げた黒球が、激しく震え始めた。
神代が俺を見る。
「佐川君」
「……行く」
迷う余地はなかった。
「でも」
「全員で」
神代は、それ以上何も言わなかった。
◇◇◇
レオに導かれた先には、直径五十メートルほどの巨大な円形空間が広がっていた。
高い天井から何本もの黒い管が蛇のように垂れ、壁には赤い表示灯が明滅している。床には白い円環が幾重にも描かれ、その中心に二メートルほどのカプセルがあった。
混濁した液体の中に、人がいる。
金色の髪。閉じた瞼。見慣れた輪郭。少し大きくなったように見える身体。
何度も隣を歩いた。
何度もくだらない話で笑った。
大久保透。
「……うそ」
しえるが口元を覆った。
ルカもレンも何も言えない。
俺は吸い寄せられるようにカプセルへ近づいた。
「透」
返事はない。
だが、その胸がゆっくりと上下していた。
「……息してる」
しえるの震える声。
確かに生きている。
その時、視界に青白い文字が浮かんだ。
【生体情報を照合します】
【指紋——一致】
【虹彩——一致】
【骨格——一致】
【魔力波形——一致】
【過去登録情報——一致】
【個体名:大久保透】
そして、その下。
【状態:死亡】
【復元個体識別番号:02】
「何なんだよ、それ……」
「浩介さん?」
ルカには見えていないらしい。
目の前で呼吸しているのに、システムは透を死人だと断定している。
その時、カプセルの中で透の指が動いた。
瞼が開く。
見慣れた瞳が俺を捉え、その唇がゆっくりと動いた。
音は聞こえない。
それでも分かった。
――こうすけ。
「透!!」
俺が駆け寄った瞬間、警告音が部屋中に鳴り響いた。
【未承認所有者接近】
【復元個体02——緊急起動】
黒い管が一斉に外れ、液体が排出される。
透明なハッチが開き、倒れてきた透を俺は抱き止めた。
重い。
暖かい。
間違いなく人間の体温だった。
「透! おい!」
透の瞼が開いた。
「……こう、すけ?」
胸がいっぱいになる。
「透……」
しかし次の瞬間。
透の右目が、真っ赤に染まった。
「がっ……!」
強烈な拳が腹へ突き刺さり、俺の身体が十メートル以上吹き飛ばされる。
「浩介さん!!」
透が立ち上がる。
全身を青白い魔力が包んでいた。
《身体強化》。
右拳を握り、深く腰を落とす。
忘れるはずがない。
透が最も得意としていた構えだ。
『排除対象——佐川浩介』
激痛を堪えながら立ち上がる。
目の前では、死んだはずの親友が、俺を殺すために拳を構えていた。
◇◇◇
「右に避けろ!!」
透の踏み込みを見た瞬間、俺は叫んだ。
全員が散った直後、透の拳が床を陥没させる。
生前とは比較にならない威力だった。
「強化されています!」
神代が叫ぶ。
「ステータスも読み取れません!」
「しえる! 透に攻撃するな! まず浩介を回復!」
「分かりました!」
回復を受けている間にも、透の視線は俺だけを追っている。
そこへ迅が割り込んだ。
「悪ぃが、通さねぇぞ!」
大剣で拳を受ける。
凄まじい金属音と共に、迅の巨体が押し戻された。
さらに蹴りが脇腹へ入り、迅が吹き飛ぶ。
それでも大剣を床へ突き立てて耐えた迅の口元が笑う。
「こいつ……強ぇな」
「喜ぶな!! 透なんだよ!」
その隙に透が俺へ向かう。
「行かせないっす!」
ルカが横から飛び込み、身体ではなく衣服だけを狙って二本の短剣を振るう。
透は半歩引いてかわした。
《クイック・シフト》。
ルカが一瞬で死角へ移動する。
だが透は振り返りもしない。
背後へ肘を突き出した。
「っ!?」
ルカが短剣で防いだ瞬間、身体が浮く。
「危ない!」
レンが襟首を掴んだ。
《プリンス・ステップ》。
そのまま後方へ離脱する。
「助かったっす!」
「礼は後でいい!」
「ちょっと格好いいっす!」
「もっと言ってくれ!」
「今やるな!」
俺は透を見つめる。
おかしい。
透はルカの《クイック・シフト》を今日初めて見たはずだ。
なのに完全に対応した。
「防衛機構が見ていた」
部屋の端にいたレオが告げた。
「お前らの戦闘を」
「何?」
「二十一層からの異常個体は、ただ襲ってきたんじゃない。集めてたんだ」
「何を」
「戦い方だ」
背筋が冷える。
迅の身体能力。レンのステップ。ルカの機動。しえるの詠唱速度。神代の指揮。
そして、俺たち一人一人の癖。
「じゃあ透は……」
「それを入れられてる」
透の右目が赤く脈打つ。
「ふざけんな……」
短剣を構える。
けれど刃先が震える。
透と戦えるのか。
その時、透が姿勢を落とした。
見慣れた構えだった。
だからこそ、俺には分かる。
「全員、動くな!」
「佐川君?」
「俺がやる」
神代の表情が険しくなる。
「許可できません」
「違う。一人で倒すんじゃない」
透が踏み込んだ。
俺は動かず、限界まで引きつける。
右肩が少し下がった。
最初はストレート。
《身体強化》。
右へかわす。
次は腰を捻って蹴り。
一歩下がる。
三撃目はフェイント。
何百回も見た。
「そこ!」
手首を掴む。
透の左目がわずかに見開かれた。
「俺が、お前のそれ何回見たと思ってんだよ!」
膝蹴りも読んでかわす。
俺は透より遅い。ステータスでも劣っている。
それでも、透の癖だけは誰より知っていた。
「神代!」
「はい!」
「透を倒さない!」
「当然です!」
「拘束する!」
俺は透の顔を見る。
右目だけが赤い。
「右目だ」
「制御部位?」
「多分!」
再び透が襲いかかってくる。
拳を受け流そうとした瞬間、透が掌を開いた。
手首を掴まれ、背負い投げの体勢へ入る。
まずい。
だが、透の身体が一瞬だけ止まった。
左目が俺を見ている。
唇が動く。
「……逃げろ」
「透?」
直後、俺は床へ叩きつけられた。
「透本人が残ってる!」
しえるが叫ぶ。
やっぱり中にいる。
「透!! 聞こえてるんだろ!」
透の身体は止まらない。
「お前さ! 死んで戻ってきて、最初にやることが俺を殴るって何だよ!」
透の表情が苦痛に歪んだ。
「....そういう再会、求めてねえんだけど!」
【抵抗を確認】
【人格制御率を上昇】
透が突然止まり頭を抱える。
『排除命令を最優先』
「俺の……身体で……」
赤い右目が明滅する。
「勝手に……浩介……殺そうとしてんじゃ……ねえよ!!」
一瞬だけ、赤い光が消えた。
「透!」
だが直後。
【復元個体02——制御再接続】
黒球が激しく震える。
【復元個体02を確認】
【接続可能】
【人格固定処理——権限不足】
そして。
【対象との直接接触により一時遮断可能】
「神代!」
「見えています!」
「三秒でいい! 透に直接触る!」
「簡単に言うな!」
迅が怒鳴る。
再起動した透から、それまで以上の魔力が噴き出した。
《身体強化》最大出力。
神代が全員を見渡した。
「佐川君を透君まで通します!」
「頼む!」
親友を倒すんじゃない。
透のもとまで辿り着く。
それが、この戦いの攻略条件だ。
◇◇◇
「ルカ、レン! 左右から撹乱! 迅さんは正面!」
三人が同時に飛び出した。
レンの《プリンス・ステップ》へ透が反応する。
だが寸前でレンが止まる。
「僕ではない!」
反対側からルカ。
《クイック・シフト》。
一瞬で背後へ回り、短剣を衣服へ引っ掛ける。
瞬間、透の体勢が崩れる。
「今っす!」
「おらぁ!!」
迅が大剣の腹を叩き込む。
透は両腕で防いだものの、床を削りながら後退した。
俺は走る。
二十メートル。
十五。
透の右目が俺を捉えた。
一直線に突進してくる。
拳をかわそうとすると、途中で掌へ変えて掴みにくる。
それも読んだ。
だが、次は蹴りではない。
肩からのタックル。
「変えた!?」
身体がぶつかる。
追撃の拳を短剣で防いだ。
手が痺れる。
強い。
昔から、透は俺より強かった。
「浩介!」
聞こえた。
透の声だ。
「聞こえる!」
「お前さ!」
拳をかわす。
「やっぱり!」
蹴りを潜る。
「俺がいないと!」
肘を受け流す。
「めちゃくちゃやるな!」
「……お前が……言うな」
思わず笑いそうになる。
「喋れんじゃん!」
透の動きが一瞬止まった。
「しえる!」
《ストーンウォール》。
透の足元から膝ほどの石壁が突き出し、体勢を崩す。
ルカが左腕へしがみつく。
「捕まえたっす!」
レンが右腕を押さえる。
「僕もだ!」
それでも二人まとめて引きずられる。
そこへ迅が背後から透の胴体を抱え込んだ。
「おらぁぁ!!」
三人がかりで、ようやく止まる。
「佐川君!!」
俺は全力で駆けた。
「浩介……来る……な」
「行く!」
「お前……昔から……人の話……聞かねえよな!」
「お前にだけは言われたくねえよ!!」
透の懐へ飛び込み、右手を胸へ押し当てる。
そして左手の黒球を叩きつけた。
瞬間。
すべての音が消えた。
【復元個体02へ接続】
【外部制御を検出】
【制御元——照合不能】
【所有者権限により遮断を試行】
1%。
3%。
7%。
そこで止まった。
【権限不足】
「ふざけんな!」
黒球を握り締める。
「お前、俺のなんだろ! だったら言うこと聞けよ!!」
表示が揺らぐ。
【代替処理を検索】
【所有者生命情報——利用可能】
【所有者生命情報の一部を担保として使用しますか?】
【YES/NO】
意味は分からない。
だが、これで透を助けられるなら。
YESへ指を伸ばした瞬間、手首を掴まれた。
レオだった。
「押すな」
「離せ!」
「押したら、お前が消える」
「何?」
「大久保透を固定する代わりに、所有者情報を削る。お前が誰なのか分からなくなる可能性がある」
「透が戻るなら——」
「それを繰り返した結果が、今なんじゃないのか」
頭の奥に激痛が走った。
そして、聞いたことのない声が響く。
『また選ぶのか』
「……誰だ」
『今度も同じものを選ぶのか』
「当たり前だろ」
『一人を助けるために、また自分を使うのか』
「透だぞ」
『だから?』
「親友だ」
『なら、お前は?』
言葉に詰まった瞬間、神代の声が現実へ俺を引き戻した。
「佐川君!!」
神代が今までにないほど厳しい顔で俺を見ている。
「また自分の命を攻略素材にしようとしましたね」
「でも!」
「六人います!」
神代の声が響く。
「あなた一人で代償を払う必要がどこにあるんですか!」
周囲を見る。
ルカとレンは必死に透の腕へしがみつき、迅は全力で身体を固定している。
しえるも懸命に支えている。
レオは俺の暴走を止めている。
一人じゃない。
「……じゃあ、どうする」
レオが透の右目を見た。
「制御を切る必要はない」
「は?」
「切れないなら、入口を潰す」
レオが指差す。
透の首筋。髪の生え際に、一本の細い黒線があった。
それが右目へ繋がっている。
「それ切ったら透は?」
「分からない」
「おい!」
「でも、俺が今まで切ってきたのと同じなら」
レオが黒い短剣を抜く。
「中身は残る」
迷いはあった。
それでも、自分の存在を削るよりずっといい。
「やる」
俺は透を見る。
「透。ちょっと痛いかもしれない」
透が苦しそうに笑う。
「……もう……腹……刺されて……死んでんだぞ」
息が止まった。
「今さら……何が痛えんだよ」
「……覚えてんの?」
「後で……聞く」
透が歯を食いしばる。
「やれ」
レオが背後へ回る。
「三秒止めろ」
「楽勝だ!」
迅が吠える。
「嘘つけ!」
「黙ってやれ!」
ルカとレンが透の重心を崩し、迅が上半身を固定する。
俺も正面から両肩を押さえた。
「今!!」
レオの短剣が黒い線を切り裂く。
次の瞬間。
透の右目から赤い光が消えた。
荒れ狂っていた魔力も消失し、全身から力が抜ける。
「透!」
倒れる身体を抱き止めた。
暖かい。
呼吸もある。
「しえる!」
すぐに処置が始まる。
だが、透は目を閉じたままだった。
「……おい」
肩を揺らす。
「透」
反応がない。
「ふざけんなよ……」
やっと戻ってきたのに。
「透!」
まぶたが、わずかに動いた。
「……うるせえ」
息を飲む。
透が薄く目を開ける。
右も左も、見慣れた色だった。
「耳元で……叫ぶなよ」
「……」
「浩介」
「何」
透は俺の顔をじっと見た。
「お前……老けた?」
「数ヶ月だぞ....」
透が小さく笑った。
何千回も見てきた、本物の透の笑い方だった。
だけど。
俺の視界には、まだ文字が残っている。
【個体名:大久保透】
【状態:死亡】
【復元個体識別番号:02】
生きている。
喋っている。
笑っている。
それでもシステムは、透を死者だと断定していた。
「何だよ」
「……何でもない」
透が目を細める。
「お前、昔から嘘つく時、黙るよな」
胸が痛んだ。
その時。
床へ落ちていた黒球が、ドクンと脈打った。
部屋の赤い照明が一斉に消える。
完全な暗闇。
直後、天井に巨大な赤い亀裂が走った。
空間そのものを引き裂くように、ゆっくりと開いていく。
そして、無機質な機械音声が響いた。
【復元個体02——制御喪失】
【所有者による干渉を確認】
【禁則情報への接触を確認】
【処刑個体を送信します】
暗闇の向こう。
巨大な亀裂の中
赤い目がのぞいていた。




