第四十八話 クイックシフト
24F——白い階段を上り切った瞬間、足元から風が消えた。
そこは、幅わずか五メートルほどの白い石橋が、巨大な空洞の中央を頼りなく一本、貫いている空間だった。
覗き込めば、視界を覆うのは滑らかな白い霧と、その奥に広がる深遠な暗闇だけ。頭上と周囲には、砕け散った巨大建築の破片のような細長い足場が無数に浮かび、そのすべての表面に、黒い脈絡のような血管状の筋が這っていた。
「……なんだ、ここ」
思わず足を止める。
「さすがに落ちたら笑えないっすね」
ルカが橋の縁から覗き込み、身震いしながら一歩退がった。
「珍しいな。お前なら『楽しそうっす』とか言うと思った」
「浩介さん、私を何だと思ってるんすか」
「高いところから飛びそうな人」
「否定しづらいっす」
レンが優雅に前へ出た。
「心配はいらないよ。仮に落ちたとしても、僕なら途中の足場へ着地できる」
「じゃあ試しに落としてやる」
迅が即答する。いつものやり取りに少し安堵するが、俺の視線は橋の奥へと向けられていた。
二百メートルほど先、複雑に重なる白い足場の向こうで、赤く明滅する光。黒球もケースの中で刻むような振動を繰り返している。
「封鎖領域は、あっちか」
神代が手元の端末を操作し、眉をひそめた。
「階層構造そのものが正常に読み取れません。地図も途中から欠損しています。……迷子になる可能性がありますね」
「帰ろう」
「判断が早いっす!」
「迷子は危険だ」
「S級相当でも迷子が怖いんすか!?」
「当然だろう。敵は逃げればいいが、道からは逃げられない」
妙に説得力のあるレンの言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
——カチ。
不快な、甲高い硬質音が空間に響いた。
音がした方は右。空中を浮遊する白い足場の真下。
迅が大剣を担ぎ直し、ルカが二本の短剣の柄へ指をかける。直後、足場の側面から細く異様な腕が這い出してきた。鋭利な爪が石を削り、その身体を引き上げる。
一メートル半ほどの身長。昆虫を思わせる白い外殻。異様に細長く発達した四肢の先端には、手ではなく、研ぎ澄まされた針状の刃が備わっている。顔と呼べる部位はなく、頭部の中央を縦に一本、不気味な赤い光線が走っていた。
一体、二体、三体——次々と足場の裏から這い上がってくる。
「……九体!」
神代の端末にデータが表示される。
《ホワイト・スティンガー》——推定危険度、C級上位。
「C?」
ルカが拍子抜けしたように肩の力を抜き、迅も大剣を肩に預けた。
「なんだ、骨折り損か」
だが、俺の胸に冷たい違和感が走る。二十一層でB級上位、二十二層でB級相当の群れ、二十三層ではA級。階層を下るごとに苛烈さを増してきたホワイトゲートで、今さらC級? あり得ない。
「強さじゃない……!」
俺の叫びと同時に、九体のスティンガーが同時に姿勢を低く沈めた。
「速さだ!」
直後、敵の姿が消えた。
白い橋の上を、空気を切り裂く九本の直線が走る。
「っ!」
最初に刃に反応したのはルカだった。右から鋭い突きを繰り出してきた一体の針を、短剣の腹で外側へ滑らせる。
キィン!
甲高い金属音が鼓膜を刺す。だが、間髪入れずに二体目がルカの死角から肉薄した。
身体を極限まで捻って回避するが、刃の先端がルカの赤い髪を数本切り落とす。さらにその背後から三体目。
速い。止まらない。一体ずつが俺たちの間を弾丸のように突き抜け、反対側の足場へ着地した瞬間には、次の跳躍へと移行している。
「なるほど!」
その中で唯一、レンだけが愉悦に目を細めた。
「僕向けだ!」
《プリンス・ステップ》。
圧搾された空気が弾ける音と共に、レンの影が消失する。次の瞬間には、五十メートル先を走るスティンガーの一体へと追いついていた。
「捕まえた!」
必殺の短剣が振るわれる。だが——敵は減速しなかった。細い針状の刃を、足場の床面へ深く突き刺したのだ。
ガッ!
突き刺した一点を支点とし、スティンガーの身体が慣性を無視して直角に旋回する。レンの刃は虚空を裂いた。
「何!?」
敵はそのまま側面の細い足場へと滑らかに移動していく。一方で、最高速度に乗っていたレンは曲がり切れない。
「金髪!」迅が怒鳴る。
「分かっている!」
レンは強引に踏み込み、靴底で白い石を激しく削り散らした。ザザザザッ!!と凄まじい摩擦音が響き、橋の縁まで残り五十センチというところで、ぎりぎり止まる。
「……逃げ足S級上位が落ちかけたっすね」
「見なかったことにしてくれ」
「無理っす」
ルカは吹き出したが、俺の顔から余裕は消えていた。
単純な直線速度なら、レンの方が圧倒的に上だ。だが、追い切れない。
スティンガーは最高速で負けている分、減速せずに刃をアンカーにして強制的に進行方向を変えている。
「ルカ!」
「はい!」
「レンを追うな! 敵の『曲がり方』を見ろ!」
ルカの瞳の奥が、すっと鋭い集中に染まる。
九体の影が飛び、走り、刺し、曲がる。
レンのような絶対的な速度ではなく、スピードを維持したまま運動ベクトルだけを切り替える機動。
ルカが一頭へ向けて地を蹴る。敵も正面から迫る。距離、十メートル、五メートル。ルカが右へフェイントをかけるが、敵は針を床へ突き立て、直角に切り返した。
ルカも追う。だが、人間の身体では同じ挙動は不可能だ。曲がるためには、どうしても「踏ん張り」「減速」「再加速する」プロセスが挟まる。そのほんの一瞬のラグで、敵との距離が致命的に開く。
「くっ……!」
ルカが悔しげに歯を噛み締める。誰よりも本人が理解していた。レンより遅いことは前の階層で分かっていた。そして今、曲がる速度すら敵に及ばない。
「ルカ、無理するな!」神代が叫ぶ。
だが、ルカは止まらなかった。もう一度、泥臭く敵を追う。右、左、足場を跳ぶ。敵が急旋回するたびに引き離される。しかし、ルカの瞳は死んでいない。
短剣を固く握り締め、敵の足の踏み込み、腰の捻り、肩の角度、刃を突き刺す摩擦の支点——そのすべてを貪欲に観察していた。
「……別に」
風切音の合間、ルカの呟きが聞こえた。
「レンさんより速くなくていいんすよね」
正面からスティンガーが突進してくる。
「こいつより、一歩だけ先に曲がれれば……!」
敵の刃が床を穿ち、直角に旋回する瞬間。ルカが力強く踏み込んだ。
通常なら、そのまま前方への慣性に引きずられるはずだった。だがその瞬間、青白い魔力がルカの右足に爆発的に集中する。
ドンッ!!
衝撃音が橋を揺らした。
ルカの身体が、前進速度を維持したまま、直角横方向へと「横滑り」するように跳んだ。
「は……!?」
俺は思わず声を漏らした。減速がない。前へ走っていたエネルギーそのままに、軌道だけが真横へと切り替わったのだ。
スティンガーの無防備な側面。そこに、すでにルカが滑り込んでいた。
「取ったっす」
交差する二本の短剣。
ザシュッ!!
甲高い切断音と共にスティンガーの両脚が弾き飛ばされ、虫のような胴体が床を転がる。着地したルカは、信じられないものを見る目で自分の足元を見つめた。
「……今の、何っすか?」
「俺が聞きたいよ!」
その直後、ルカが小さく目を見開いた。彼女の視線の先、何もない空中に透明なステータスウィンドウが立ち上がる。
【条件達成】
【高速戦闘における方向転換適性を確認】
【スキル《クイック・シフト》を習得しました】
「……クイック・シフト」
ルカが読み上げる。戻ってきたレンが、その画面を凝視して絶句した。
「新しいスキルだと……?」
「みたいっす」
「効果は?」
「高速移動中、一回だけ進行方向を強制変更……っすかね」
レンが言葉を失う横で、ルカが不敵に笑う。
「どうしたんすか、レンさん?」
「……ずるくないか?」
「逃げ足S級上位に言われたくないっす!」
残りは八体。再び不気味な硬質音を響かせて走り出す敵を見据え、ルカとレンが背中合わせに近い形で同時に武器を構えた。
最高速を誇るレン。瞬間的なベクトル変更を得たルカ。
「神代」
「ええ……気づきました」
神代も頷く。性格も、動きの質も正反対の二人。だからこそ、噛み合わさった時の爆発力は未知数だ。
「次、二人で合わせてやってみよう」
俺の言葉に、二人が同時に振り向いた。ルカが不敵に口元を歪め、レンが前髪を優雅にはね上げる。
「僕の美しさを披露するときがきたようだね。」
「面白そうっすね」
残り八体の影が、白い足場の上を一斉に駆け出した。
◇◇
「まず、一つだけ」
俺は並び立つルカとレンを鋭く見据えた。
「絶対に競争するなよ」
沈黙。
「……聞こえてる?」
「聞こえてるっす」
「もちろんだ」
「じゃあなんで一瞬目合わせて頷いたんだよ!?」
「どちらが先に三体倒すか——」
「競争するなって言ったろ!?」
こちらの突っ込みを置き去りにして、八体の《ホワイト・スティンガー》が動いた。浮遊する石板と白い橋の間を高速で交錯する。
ここでは迅の大剣は振るう余地がなく、しえるの魔法も足場を壊すリスクが高すぎる。神代が即座に陣形を指示した。
「迅さんは中央で防衛。しえるさんは後方支援。佐川君、二人の前衛のコントロールをお願いします」
「了解」
迅が不満げに大剣を肩に預ける。
「見てるだけかよ」
「下に落ちたくなければ我慢してください」
俺はルカとレンへ向き直った。
「レン、まずは全力で真っ直ぐ走れ!」
「それだけかい?」
「それだけでいい!」
「フッ、ようやく僕という存在の真価を理解したようだね」
《プリンス・ステップ》。
レンの姿が消失する。弾丸のような直線上の超高速度。その圧巻の存在感に、八体のスティンガーが一斉に反応した。
三体がレンの後方へ食らいつき、二体が前方の進路を遮るように動く。
「ルカ! レンの後方十メートルをキープ!」
「了解っす!」
ルカが走る。レンほどの絶対速度はない。だが、それでいい。
まず最速のレンが通り過ぎる。敵の意識と視線がすべてレンへと引きつけられ、進路を阻もうと前傾姿勢になる。その一拍遅れた死角を、ルカが滑り込むように駆け抜ける。
一体目のスティンガーが、レンへ向けて爪を立てた瞬間。その背中は完全に無防備だった。
「一!」
ルカの短剣が、正確に首の関節へ突き刺さる。ザシュッ!
二体目がレンの正面から刃を構えて飛び出す。レンが右へ限界まで回避し、敵もそれを追って身体を傾ける。その瞬間——ルカの足元で青白い光が弾けた。
《クイック・シフト》。
猛烈な前進速度を維持したまま、ルカの身体が左から右へ水平に跳ぶ。無防備に晒された敵の側腹部。
「二!」
二本の短剣が交差し、白い外殻を叩き割る。
「完璧だ!」俺は思わず拳を握りしめた。
レンが突風となって先頭を切り、敵の注意を全開で集める。一番速く、一番目立つレンに敵の意識が固定されるからこそ、直後を追うルカの不連続な機動が致命的な一撃になるのだ。
「前方に二体!」神代が叫ぶ。
レンが次の浮遊足場へ跳躍する。だが、左右から二体の敵が挟み込むように刃を突き出していた。空中では減速も回避もできない。
「これは少々危険——」
「ルカ!」
「見えてるっす!」
ルカが限界まで加速する。一体の敵へ正面から肉薄するが、距離が足りず短剣は届かない。しかし、ルカの狙いは斬ることではなかった。己の肩を、敵の側面に強くぶつけたのだ。
ガンッ!
「なっ!?」レンが驚愕する。
肩をぶつけられた敵の飛行軌道が、わずか二十センチだけズレる。その一瞬生じた間隙を、レンの影がすり抜けていった。
「助かった!」
「これで貸し借りゼロっすよ!」
「昨日、君を暴走した迅から助けたのは僕だぞ!」
「あれは私の襟首掴んで投げ飛ばしただけっす!」
「軽快な避難誘導と言ってほしいね!」
「喋ってる場合か、集中しろ!」
俺の怒号が響く。だが、二人には明らかな余裕とグルーヴが生まれていた。
レンの直線速度だけでは届かない。ルカの技術だけでは追いつかない。
レンが切り拓いた道筋をルカが掃除し、ルカが抉じ開けた隙間をレンが最速で駆け抜ける。二人の速度が、完璧なギアとなって噛み合い始めていた。
だが、残る三体の動きが一変する。
「……学習したの?」しえるが息をのむ。
三体のスティンガーはレンを追うのをやめ、布陣の中央——俺たち指揮系統へと一斉にターゲットを変更した。
「チッ、こっちに来るぞ!」
迅が大剣を前に構える。だが、俺はそれを制した。
「待って迅! 二人に戻させる!」
「距離を見ろ、間に合わねぇ!」
レンまで七十メートル。ルカまで五十メートル。迫る敵まで三十メートル。
「間に合わせる! レン!!」
俺の叫びが響く。遠くで金髪が翻る。
「三体、本陣へ向かった!」
一瞬で状況を把握したレンの目が冴える。
「承知した!」
《プリンス・ステップ》。最速の直線移動で引き返すレン。だが、敵の到達の方がわずかに早い。
ルカも並走して戻る。俺の頭の中で最速の計算が回転する。レンが先頭の一体に追いつき、撃破する。だが二体目と三体目には届かない。
「ルカ!」
「はい!」
「一体目を無視しろ!」
ルカが一瞬目を見開くが、すぐに意図を理解した。
レンが一直線に突っ込み、一体目の敵に短剣を突き立てる。激しい衝突音と共に速度が殺される。その真横を、ルカが風となって通り抜ける。
二体目の敵がルカへ刃を振るう。ルカは《クイック・シフト》を発動し、直角に回避。だが、三体目が目の前に迫る。
クイック・シフトの連続使用は不可能。距離が足りない。
「ルカ!」俺の身体が自然と前へ動く。
その時、後方からレンの大声が響いた。
「ルカ!」
「何っすか!?」
「肩を貸せ!」
追いついてきたレンが短剣を収め、その両手をルカの腰へとあてがう。
「飛べぇぇぇ!!」
「ちょっ、まっ——!?」
ドンッ!!
レンの持つ絶対的な前進運動エネルギーが、そのままルカの背中に叩き込まれた。ルカの身体が人間離れした速度で前方へ弾き飛ばされる。
「うわぁぁぁぁぁ!?」
視界を流れる景色が吹き飛ぶ。目の前に迫る三体目の敵。
「無茶苦茶っすぅぅっ!!!!」
悲鳴のような叫びと共に、ルカは空中で半身を捻った。狂ったような速度のまま、二本の短剣を交差し、敵の胸甲を深々と切り裂く。
勢いのまま床を激しく転がるルカ。三回、四回と回転し、ようやく止まった。
静寂が訪れる。
「……生き……てる?」俺がおそるおそる声をかける。
転がったまま、ルカの手が力なく上がった。
「……ぎりぎり……生き……」
優雅に歩み寄ってきたレンが、髪を整えながら頷く。
「ふむ、完璧な連携だったね」
跳び起きたルカが般若の面相で追いかかる。
「どこがっすか!! 人を人間大砲みたいに撃ち出しましたよね!?」
「適材適所というものだ!」
「刺す! 一回刺すっす!」
「ははは、冗談が得意だな!」
頭を抱える俺の横で、神代が珍しく可笑しそうに口元を緩めていた。
◇◇◇
スティンガーの残骸を越え、さらに奥へと進む。
赤く明滅する光が刻一刻と大きくなり、やがて視界が開けた。
白い足場の先に、左右へ枝分かれする二本の極小の石橋。そのそれぞれの果てに、脈動する真っ赤な光を放つクリスタル状の「柱」が立っている。
そして中央には、血管のような黒い筋に半分覆われた巨大な扉。
近付くと、視界にシステムログが浮き出た。
【封鎖領域】
【接続処理待機中】
【左右制御核の同時停止を確認してください】
【警告:侵入を検知。橋の連続崩壊シーケンスが作動します】
【警告:制御核周辺に対魔障壁を確認】
【許容誤差:0.8秒】
「……同時? しかも崩壊シーケンス!?」
ルカが驚愕の声を上げる。俺は素早く左右の柱と周囲の地形を見比べた。
左の柱までは、曲がりくねった足場を渡って約七十メートル。右の柱までは、比較的真っ直ぐな橋で約九十メートル。
「待ってほしいっす。同時って言ったって、誰かが普通に歩いて行って『せーの』で押す……じゃダメなんすか?」
ルカが素朴な疑問を口にする。俺も一瞬それを考えたが、神代が青ざめた顔で端末を操作し、首を振った。
「不可能です、ルカさん。端末のログを解析しました……この左右の橋は、足に体重を乗せた瞬間にカウントダウンが始まり、後ろから秒速十五メートル以上の速度で崩落していきます」
「崩落!?」
「つまり、ゆっくり歩いて渡ることはできません。止まった瞬間に落ちます。常に最高速度で走り抜けなければ到達すら不可能です」
しえるが不安そうに杖を握りしめる。
「じゃあ、遠くから魔法で柱を撃ち抜くのは……?」
「それもダメです。『対魔障壁』が展開されています。魔法や遠距離弾はすべて弾かれる……直接、刃で柱を穿つしかありません」
迅が舌打ちをした。「じゃあ俺が行ってやるよ」
「無理です迅さん!」神代が即座に止める。「この橋、強度が異常に低いです。迅さんのような重装備の大柄な男性が乗った瞬間、崩落シーケンスを待つまでもなく一発で叩き割れて落下します」
「チッ……」
迅が大剣を床に突き立てる。物理的に通れるのは、軽量かつ規格外の機動力を持つ人間だけ。
「それに」神代が周囲の闇を睨みつける。「この周囲の足場の影……まだスティンガーの気配があります。私と迅さん、しえるさん、佐川君でこの中央本陣を防衛しなければ、二人を送り出す前に全滅します」
「……なるほどね」
レンがくすりと笑い、短剣の柄を遊ばせた。
「つまり、この圧倒的な速さと軽やかさを兼ね備えた僕と、そこの小柄な彼女にしか任せられないというわけだ」
「小柄言うなっす!」
ルカが抗議するが、顔つきは真剣そのものだった。二人しか行けない。そして、ただ辿り着くだけではなく、左右で「同時に」破壊しなければならないのだ。
「片方を叩いた瞬間に0.8秒のカウントが始まる」俺は二人を凝視した。「もし反対側の破壊が遅れれば、失敗して壊した側の柱から殺傷衝撃波が放たれる。やり直しは効かない」
「競争じゃなく……同調っすね」
ルカがポツリと呟く。
「そうだ」俺は強く頷いた。「レンが右、ルカが左だ。行くぞ!」
「「了解!!」」
二つの影が、それぞれの崩壊する橋へと跳び出した。
その背後で、地鳴りのような響きが轟いた。
ガガガガガッ!!
ルカが足を踏み出した瞬間、踏破された白い石橋の床が、まるで命を得た蛇のように後ろから次々と崩れ落ちていく。砕けた石の破片が底なしの白い霧の中へと飲み込まれていった。
「……ッ! 本当に後ろから消えてるっす!」
後ろを振り返る余裕はない。チラリと視界の端に入った崩落の速度は、生半可な足では一瞬で飲み込まれるレベルだ。文字通り、立ち止まった瞬間に死が確定する。
ルカは短剣を強く握り直し、身を低く沈めて速度を上げる。
左のルートは、直線距離こそ約七十メートルと短いが、曲がりくねったクランク状の浮遊足場が連続していた。
「右は九十メートルのほぼ直線……レンさんなら一瞬っすよね」
そう、距離だけを見れば左のほうが短い。だが、ルカのルートは「直線加速」が使えない障害物コースだ。普通に曲がっていては、減速のたびに後ろからの崩落に追いつかれる。
(なら——!)
一つ目の曲がり角。直角に折れ曲がる石板の手前。
ルカの右足に青白い魔力が爆発的に収束する。
《クイック・シフト》!
ドカンッ!と空気を炸裂させ、前進の慣性をそのまま真横へのベクトルへと強制変換。減速ゼロ。そのまま直角のコースへ「滑り込む」ように足を踏み入れる。
「よし……いけるっす!」
一瞬遅れて、ルカがたった今通り過ぎた角が音を立てて崩落し、闇へと消えていった。背筋に冷や汗が伝わる。本当に一瞬のラグも許されない。
◇
一方、右のルートを突き進むレン。
「フッ、僕のための道だな!」
《プリンス・ステップ》。
圧搾された空気が爆音を奏で、レンの金髪が激しい風に棚引く。右のルートは九十メートルのほぼ直線。足場は細く頼りないが、レンの絶対速度を阻む障害物は何もない。
ババババババッ!!
音を置き去りにするような圧倒的な疾走。後ろから迫る崩落など、レンの足元にすら及ばない。
「このまま一気に柱を叩き割るだけ——」
その時、レンの研ぎ澄まされた聴覚が、風を切る音とは別の異音を捉えた。
キィィィン!
頭上。浮かぶ巨大な岩の陰から、白い影が飛び出してきた。
《ホワイト・スティンガー》——それも三体。
「何!?」
敵はレンを撃破するためではなく、その刃を「橋そのもの」へと突き立てた。
ガガッ!
レンの進路、わずか十メートル先の橋板が、スティンガーの攻撃によって無理やり粉砕される。
「くっ……障害物か!」
最高速度に乗っていたレンの眼前に広がる、三メートルほどの「空間の穴」。下は底なしの闇。
止まれば後ろからの崩落に呑まれる。跳んでも、空中では減速し、着地時の摩擦で速度を奪われる。
「僕の速度を舐めるなよ!」
レンは減速するどころか、さらに踏み込んだ。
崩れ落ちる寸前の床を蹴り上げ、空へと跳ぶ。空中で身体を極限まで捻り、襲い来る一体のスティンガーの針状の刃を短剣で受け流す。
キィィィン!
その衝撃を利用し、空中での滞空時間を強引に伸ばす。二体目のスティンガーの頭を靴底で踏みつけ、それを踏み台にしてさらに前方へ跳んだ。
「ハぁっ!」
見事に向こう岸の残された橋へと着地。一切の速度を殺すことなく、再び最速の直線移動へと復帰する。
「ルカ! 僕はもう目と鼻の先だぞ!」
◇
中央
「佐川君、指示を!」
神代の声に、俺は手元の端末と左右の視界を交互に凝視していた。
「くそっ、やっぱり速度差が出てる!」
端末の画面には、二人の移動スピードと残距離がリアルタイムで描画されている。
右ルートのレンは、一直線に爆走し、すでに柱まで残り十五メートル。到達まであと一秒を切っている。
しかし、左ルートのルカは、連続するクランク状の足場に苦戦していた。《クイック・シフト》のクールダウンの間は、自力で踏ん張って曲がるしかない。そのため、どうしても数ミリ秒単位の遅れが積み重なる。
ルカの残距離、あと二十五メートル。
このままでは、レンが先に着いてしまう。許容誤差はわずか「0.8秒」。
「レン、減速しろ!」俺は叫んだ。
『それはできない!』
『後ろからの崩落がすぐ背中に迫っている! 一度でも速度を落とせば、僕ごと橋が落ちる!』
「な……!?」
そうだ。崩落のスピードは一定。レンが柱の前でルカを待つために立ち止まることは、そのまま「転落死」を意味していた。
「ルカ! 追いつけるか!?」
『無茶言わないでほしいっすよ!』
ルカの悲鳴のような声。
『こっちは曲がり角だらけなんす! クイック・シフトの連続使用は身体が持たないっす!』
「迅! 中央の敵は!?」
「こっちは問題ねぇ!」
迅が巨大な大剣を一閃し、群がってきた三体のスティンガーをまとめて叩き潰す。
「だが、あいつらのフォローまでは手が届かねぇぞ! どうすんだ佐川!」
俺の頭の中で、数字が目まぐるしく回転する。
レンの到達まで、あと0.6秒。
ルカの到達まで、あと1.8秒。
差は、1.2秒。
0.8秒の許容誤差を超えている。
このままではレンが先に柱を破壊し、0.8秒後に左の柱から放たれる「殺傷衝撃波」がルカを直撃して蒸発させる。あるいは、ルカが間に合わずに崩落に呑まれる。
「……待て」
俺は脳内の計算を無理やり書き換えた。
レンの到達まで、あと0.6秒。
ルカの到達まで、あと1.8秒。
差は1.2秒。
普通に走ったのでは、絶対に間に合わない。
なら——走る必要はない。
「しえる!」
俺は後方で杖を握っていたしえるへ振り向いた。
「《ストーンウォール》を出せるか!?」
「えっ……!? ど、どこにですか?」
「ルカの後ろ! 今通り過ぎた足場の端だ!」
しえるが目を見開く。
崩壊していく左ルート。
ルカが通過した直後の足場は、数秒もしないうちに白い霧の底へ消えていく。
その消える寸前の場所へ。
「壁を斜めに出してくれ! ルカの背中に向かって爆風が抜ける角度で!」
「爆風……?」
神代が息を呑んだ。
「佐川君、まさか……」
「しえる! 早く!」
「は、はいっ!」
しえるが杖を振り上げる。
「《ストーンウォール》!」
ゴゴゴゴゴッ!!
崩れかけていた白い足場から、灰色の石壁が斜めにせり上がった。
通常なら敵の攻撃を防ぐための防壁。
だが今、その壁が向いているのは敵ではない。
前方を走るルカの背中だった。
「佐川君……これ、どうするんですか!?」
「次は《ファイヤーボール》!」
「えぇっ!?」
「その壁に撃ち込め!」
一瞬、しえるの顔が固まる。
「壁、壊れちゃいますよ!?」
「壊すんだ!」
「えぇぇ!?」
ルカの残距離、二十メートル。
レンはすでに右側の制御核へ到達寸前。
もう時間がない。
「しえる! 最大威力!」
「わ、分かりましたぁぁっ!」
杖の先端に赤い魔力が急速に収束する。
炎が膨張し、拳ほどだった火球が瞬く間に人間の頭ほどの大きさへと肥大化した。
「《ファイヤーボール》!!」
轟ッ!!
真紅の火球が一直線に飛翔する。
狙いはルカではない。
その背後。
たった今しえる自身が生み出した《ストーンウォール》。
火球が石壁の中央へ激突した。
ドッガァァァァン!!!
爆炎。
石壁が内側から弾け飛ぶ。
だが、斜めに形成されていた壁が爆発を受け止めたことで、四方へ逃げるはずだった衝撃の大部分が一方向へと押し出された。
ルカの背中へ。
「うわっ!?」
猛烈な熱風と爆圧が、走っていたルカを後方から殴りつける。
赤い髪が大きく乱れ、身体が一瞬だけ宙へ浮いた。
「浩介さん何してるんすかぁぁぁぁ!?」
「そのまま乗れ!!」
「何にっすか!?」
「爆風にだよ!!」
「無茶苦茶っす!!」
文句を叫びながらも、ルカは即座に理解していた。
爆風に逆らわない。
むしろ身体を前へ倒し、その推進力をすべて加速へ変える。
一歩。
二歩。
明らかに先ほどまでとは違う速度で、ルカの身体が前方へ押し出されていく。
だが、それでも僅かに足りない。
残り十メートル。
その先には最後の直角。
普通に曲がれば、そこで速度が死ぬ。
ルカも分かっていた。
「……もう一回だけ!」
右足に青白い魔力が集中する。
《クイック・シフト》。
ドンッ!!
爆風によって得た異常な前進速度。
その勢いを一切殺すことなく、ルカの身体が直角方向へと跳ねた。
右足に凄まじい負荷がかかる。
筋肉が引き裂かれるような痛みに、ルカの表情が歪んだ。
それでも止まらない。
「レンさぁぁぁん!!」
「合わせろ、ルカ!!」
右の柱の前で短剣を構えたレン。
左の柱へ、爆風と《クイック・シフト》を重ねて滑り込むルカ。
二人の視線が、空間を隔てて一瞬だけ交差した。
最高速度を誇るレン。
その速度には届かなくとも、自分だけの機動を手に入れたルカ。
「「ハぁぁぁぁぁっ!!」」
二つの刃が、ほぼ同時に振り下ろされた。
ザシュッ!!!
ガギィィィン!!!
左右の赤い制御核へ、それぞれの短剣が深々と突き立つ。
【条件達成】
【左右制御核の同時停止を確認】
【許容誤差:0.03秒】
【封鎖領域の解除を行います】
そして、その扉がゆっくり開いた。
カツ。
暗闇の奥から、靴音が聞こえた。
全員が一斉に武器を構える。
カツ。
カツ。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
やがて暗闇の向こうから、聞き覚えのある男の声がした。




