第四十六話 風の使い手
黒崎レオが白い霧の向こうへ消えてから、しばらく誰も口を開かなかった。
空洞の中央には、久我冬真が横たわっている。
異形と化していた巨体はすでに人間の姿へと戻り、背中を覆っていた黒い翼も、床に散った灰を残すだけになっていた。
俺はその亡骸を見下ろす。
最後に漏らした「助けて」という声が、まだ耳の奥に残っている。
そして、その声ごと断ち切った黒崎レオの姿も。
許せるわけじゃない。
それでも――あいつが何も知らずに人を殺しているわけではないことだけは、もう否定できなかった。
「浩介君……」
しえるの声に顔を上げた、その時だった。
カタカタカタ……。
腰に下げたケースが微かに震える。
「……黒球?」
慌てて蓋を開く。
黒球そのものに変化はない。
だが、視界の端に青白い文字が浮かび上がった。
【外部観測因子――活動停止】
【観測端末化――失敗】
【接続経路――遮断】
「……観測端末?」
神代が眼鏡の奥で目を細める。
俺は最後の一文を見つめた。
接続経路――遮断。
脳裏に、レオが残した言葉が蘇る。
――これで、入口にはならない。
「もし……」
しえるが不安そうに冬真を見る。
「冬真さんの変異が完全に終わっていたら……ここが何かの『入口』になっていたんでしょうか」
誰も答えられなかった。
だが、否定することもできない。
グリーンゲートで遭遇した規格外の存在。
黒球。
異常な一致率。
観測因子。
観測端末。
そして――防衛機構。
今まで意味の分からなかった言葉が、少しずつ同じ場所へ集まり始めている。
ただ、その先に何があるのかはまだ見えない。
「……一度戻るぞ」
迅が大剣を肩へ担いだ。
「ここで考えてても答えは出ねぇ」
神代も頷く。
「そうですね。ギルドへ報告しましょう」
俺は最後にもう一度、冬真を見る。
そして、レオが消えた霧の奥へ視線を向けた。
次に会った時こそ。
絶対に全部聞き出す。
俺たちはホワイトゲートを後にした。
◇
ギルドへ帰還した頃には、街はすっかり夜の闇に包まれていた。
ホワイトゲートの無機質な白い光に晒され続けたせいか、ギルドの暖かな照明も、食堂から漂ってくる肉の匂いも、行き交う冒険者たちの喧騒さえ妙に懐かしく感じる。
「佐川君」
受付前で俺たちを待っていたのは玲だった。
白雪さん、豪、一堂さんまで揃っている。
「報告を聞いた」
玲が静かに切り出す。
その表情に、いつもの余裕はなかった。
「黒崎レオと遭遇したそうだな」
「……はい」
「交戦は?」
「俺だけです」
「結果は?」
横からルカが口を挟む。
「一発っす」
「言うな!」
迅まで鼻で笑う。
「腹に指二本当てられて吹っ飛ばされてたな」
「お前も言うな!」
豪が腹を抱えて笑った。
「ガッハッハ! 生きて帰ってきたなら上等じゃねぇか!」
「笑い事じゃないですよ……」
少しだけ張り詰めていた空気が緩む。
その後、俺たちはホワイトゲートで起きたことを説明した。
久我冬真の変異。
観測端末。
接続経路。
黒崎レオ。
そして――。
「『防衛機構』」
その言葉を口にした瞬間だった。
玲の表情から、明確に余裕が消えた。
「……佐川君」
声が低くなる。
「その言葉は、当面ここにいる人間以外には伏せてくれ」
「やっぱり、知ってるんですね」
「知っている、とは言えない」
玲はゆっくり息を吐いた。
「聞いたことがあるだけだ」
「どこで?」
「そうか君にはまだーー」
玲の視線がわずかに遠くなる。
「世界が変わり、魔王が現れる――あの妙な夢だ」
俺は息を呑んだ。
「玲さんも……?」
「ああ。一度だけ、その言葉が出てきた」
玲は腕を組む。
「ただし、決していい意味ではなかった」
また一つ。
点が増えた。
玲の夢。
黒球。
レオ。
防衛機構。
どこかで全部が繋がっている。
「ホワイトゲート攻略は一度中断するか?」
玲の問いに、俺は少しだけ考えた。
怖くないと言えば嘘になる。
冬真の変異を見た。
レオとの差も思い知らされた。
それでも。
「……進みたいです」
顔を上げる。
「レオは二回とも、俺たちより先に異変を察知していた」
俺は拳を握った。
「だから追いつきたい」
迅が鼻を鳴らす。
「今のままじゃ届かねぇけどな」
「分かってるよ」
「なら強くなりゃいい」
大剣の柄を軽く叩く。
「三十層までに届くようにな」
俺は迅を見る。
「……付き合ってくれるの?」
「十九層に戻るついでだ」
素っ気なく顔を背ける迅。
その横でルカがニヤニヤしている。
「迅さん、優しいっすねぇ」
「赤チビ、埋めるぞ」
「怖っ」
「僕も行こう」
レンが優雅に髪をかき上げた。
「危険からは逃げるが、仲間からは逃げないよ」
少し間を置く。
「……何より、僕がいなければ君たちは撤退の判断が遅すぎる」
「一言多いんだよ!」
迅が怒鳴る。
けれど、今度は誰も止めなかった。
ホワイトゲート攻略続行。
目標は第三十層。
まだ半分。
先は長い。
◇
翌日。
第十六層へ足を踏み入れた瞬間、狂暴な横風が全身を叩いた。
「うおっ……!?」
思わず腕で顔を覆う。
これまで続いていた洞窟は終わりを告げていた。
目の前に広がっているのは、白い断崖絶壁に挟まれた巨大な峡谷。
崖下は濃い霧に覆われ、底は見えない。
その奥では時折、青白い電光が走っている。
俺たちが立っているのは、断崖の側面を削り取ったような岩棚だけ。
幅は狭いところで二メートル。
広い場所でも五メートルほどしかない。
一歩踏み外せば、まず助からない。
「……これ、敵出たら最悪っすね」
ルカが崖下を覗き込み、すぐに顔を引っ込める。
「言うなよ」
前衛にルカと神代。
中央にしえると俺、迅。
最後尾にレン。
突風に身体を煽られながら、慎重に断崖沿いを進んでいく。
十分ほど進んだところだった。
最後尾のレンが、突然足を止める。
「待て」
全員が振り返る。
レンは三十メートルほど離れた峡谷の対岸を見つめていた。
「……いる」
「どこ?」
目を凝らす。
白い岩壁。
何も見えない。
その瞬間、峡谷を突風が吹き抜けた。
岩肌の一部が――ぬるりと動いた。
「擬態……!?」
次々と輪郭が浮き上がる。
白い四足の魔物。
鹿と豹を掛け合わせたようなしなやかな体。
頭部から左右へ伸びた、透明な巨大な角。
神代が叫ぶ。
「ミラージュホーン! 壁面擬態型です!」
その数――十体
だが、対岸との距離は三十メートル近くある。
すぐには来られない。
そう思った直後だった。
一体が跳んだ。
「は!?」
峡谷へ飛び出した身体が、猛烈な横風に乗る。
落ちるどころか、白い身体は大きな放物線を描き、俺たちの頭上を飛び越えた。
「後ろ!」
着地と同時。
迅の大剣が唸る。
ガァン!!
硬質な衝突音。
火花が散る。
迅の斬撃を、ミラージュホーンは透明な角で真正面から受け止めていた。
「硬ぇ!」
さらに二体目。
三体目。
次々と風に乗ってこちら側へ飛び込んでくる。
狭い岩棚の上で、一瞬にして乱戦になった。
「場所が悪すぎるっす!」
ルカが突進を避ける。
だが、その瞬間に横風が吹いた。
「っ!」
身体が崖の外へ流される。
「ルカ!」
俺は咄嗟に腕を掴み、力任せに引き戻した。
その頭上を角が薙ぐ。
キィン!
神代の剣が滑り込み、軌道を逸らした。
「佐川君、下がって!」
「分かった!」
身体強化。
一気に踏み込み、魔物の側腹部へ短剣を突き立てる。
カンッ!
「硬っ……!」
弾かれた。
角だけじゃない。
皮膚そのものが異常に硬い。
迅の大剣が地面ごと魔物を叩きつける。
衝撃で足元に亀裂が走った。
「迅! 足場壊れる!」
「知るか!」
「知れよ!」
さらに対岸から敵が飛んでくる。
このままではまずい。
狭い
逃げ場がない。
足場まで壊れれば全滅する。
「しえる! ストーンウォールで崖側を広げられる!?」
「やってみます!」
しえるが両手を地面へ向ける。
「《ストーンウォール》!」
岩壁がせり出し、崖側へ一メートルほどの足場が形成された。
多少は動ける。
だが、それでも敵は多い。
その中で。
レンだけが戦場ではなく、峡谷そのものを見ていた。
「……なるほど」
「何か分かったのか!?」
レンが口元を吊り上げる。
「こいつら、跳ぶ前に風を見ている」
「風?」
「突風が強くなる瞬間だけ跳んでいるんだ」
対岸を見る。
確かに。
魔物たちは飛び出す直前、わずかに身体を沈ませ、風を待っている。
「つまり、飛んでいるんじゃない」
レンが言う。
「風に乗っている」
そして。
「なら――使える」
レンは突然、崖際へ走った。
嫌な予感がした。
「おい、レン?」
「僕が向こうへ行く」
「はぁ!?」
迅が叫ぶ。
「死ぬぞ!」
「失礼だね」
レンは走りながら髪をかき上げる。
「逃げることに関して、僕を誰だと思っている?」
《プリンス・ステップ》
加速。
そして。
レンは断崖から飛び出した。
「レン!?」
二十メートル以上の空間。
普通ならそのまま落ちる。
だが。
一瞬遅れて、猛烈な横風が吹いた。
バサァッ!
レンの白いコートが大きく膨らむ。
「うおおおおおお!?」
風を受けた身体が、予想以上に遠くへ流されていく。
対岸。
レンの指が岩棚へかかった。
「ぐおっ……!」
必死にしがみつく。
脚をばたつかせながら、泥臭く身体を引き上げた。
「……マジか」
俺は呆然と呟いた。
ルカも引きつった顔で笑う。
「逃げ足の使い方じゃないっすね……」
対岸へ到着したレンは、ゆっくり立ち上がった。
胸を張る。
「フッ」
その直後。
背後にいた三体のミラージュホーンが、一斉にレンを見た。
レンも振り返る。
数秒。
「佐川君!」
「何だよ!」
「作戦に重大な問題があった!」
嫌な予感しかしない。
「何だよ!」
レンの顔が青ざめる。
「僕、今一人だ!」
「今気づいたのかよ!?」
「やはり撤退だぁぁぁ!」
レンが走り出した。
三体のミラージュホーンが猛追する。
「何しに行ったんすか!?」
ルカが叫ぶ。
だが。
「……いや」
神代が気づく。
「成功してる」
対岸を見る。
三体がレンを追っている。
つまり。
「追加が来ない!」
こちら側へ渡ってきた七体。
対岸に残った三体。
完全に分断された。
「今だ!」
神代が叫ぶ。
「一体ずつ崖側へ寄せる!」
迅が大剣の腹でミラージュホーンを叩く。
体勢が崩れる。
ルカが脚を斬りつけ、さらにバランスを奪う。
「浩介!」
「分かってる!」
俺と神代で身体を押し込む。
魔物が崖下へ消えた。
一体。
二体。
だが、残った個体は学習した。
崖際へ近づかない。
「頭いいっすね!」
「なら角だ!」
しえるの火球が透明な角へ直撃する。
赤熱。
そこへ峡谷の冷たい風。
ピシッ。
温度差で、透明な角に亀裂が走った。
「ルカ!」
「はいっす!」
同時に踏み込む。
短剣を叩き込む。
バキィン!
角が砕け散った。
武器を失った魔物が怯む。
その瞬間。
「退け!」
迅の大剣が振り下ろされた。
ドゴォン!!
地面を揺らす一撃。
ミラージュホーンが沈黙する。
そこからは早かった。
七体。
全て撃破。
「終わりっす……!」
ルカが肩で息をする。
俺も短剣を下ろした。
「レンは?」
対岸を見る。
遥か先。
白いコートが物凄い速度で走っている。
「逃げてる」
「めちゃくちゃ逃げてるっすね」
三体のミラージュホーンを引き連れながら、レンは上層の岩棚へ駆け上がっていく。
やがて大きく迂回すると、足を止めた。
風を待つ。
そして――跳んだ。
「またやるのかよ!?」
猛烈な突風。
白いコートが膨らむ。
レンの身体が峡谷を越える。
「うおおおおお!」
着地。
ゴロゴロゴロゴロ!
「ぐあぁぁぁ!」
派手に地面を転がった。
しばらくして。
泥まみれになったレンがゆっくり立ち上がる。
乱れた髪を整え、胸を張った。
「フッ……計算通りだ」
迅が鼻で笑う。
「嘘つけ。最後派手に転がってたろ」
「着地も計算のうちだよ」
「絶対嘘っす」
しえるが小さく笑う。
「でも、すごく助かりました」
レンの動きが止まる。
「……そうだろう?」
少しだけ嬉しそうに鼻を鳴らす。
「僕がいなければ危なかった」
俺も頷いた。
「うん。今日は普通に格好よかったよ」
「今日“は”とは何だい!?」
笑い声が峡谷に響く。
だが。
「おい」
迅の声だけが低かった。
「……見ろ」
全員が対岸を見る。
さっきまでレンを追い回していた三体のミラージュホーン。
その三体が――倒れていた。
「……え?」
距離はある。
それでも分かる。
一体は首。
一体は胸。
一体は頭部。
全てが、正確な一撃だけで絶命している。
俺たちは誰も攻撃していない。
レンも逃げ回っていただけだ。
あいつがどこかで見ている。
俺たちは、そう確信した。
◇◇
第十九層へ到着したのは、それから二日後だった。
十六層の峡谷を越えたあとも、クリスタルモスの氷針が降り注ぐ十七層、分裂するホワイトスライムが立ちはだかる十八層。
一筋縄ではいかなかった。何度も補給と休息を挟みながら、ようやく辿り着いた十九層の巨大な円形ホール。
その先には【20F】と刻まれた巨大な門がそびえていた。
「登録名は《ホワイト・パラディン》。人型で長剣と盾を装備しています」
神代が端末を確認し、言葉を続ける。
「特徴は……挑戦者の中で、最も強い人間を優先して狙うこと」
全員の視線が一斉に迅へ集まった。
「囮決定っすね」「タンク」「俺はタンクじゃねぇ!」
軽口を叩き合いながら門を開けると、直径百メートルの闘技場の中央に白銀の鎧を纏った騎士が立っていた。俺たちが入ると騎士の兜が上がり、赤い文字が浮かぶ。
【TARGET LOCK】
「本当に迅だ」「来いよ」
迅が大剣を抜いた瞬間、パラディンが消えた。
ガァァン!!
迅が大剣で受けるが、衝撃で床に亀裂が走る。長剣の連続攻撃を迅が捌くが、敵は迅の動きに合わせて攻撃パターンを変える学習型だ。
さらに全周囲を把握しており、俺やルカが横から攻めても脚蹴りや柄攻撃で完璧に撃退してくる。
しえるの火球に乗じた迅の一撃で鎧が凹むと、騎士は盾を捨てて長剣を両手持ちに切り替えた。速度が上がり、迅の防具を切り裂いていく。
ターゲットを移そうと俺が前に出るが、ロックオンは解けない。入場時の最強者を撃破するまでターゲットは固定される仕様らしい。
「なら、背中を狙う! 三秒作る!」
迅が大剣で真正面から押し合う間、さっき作った鎧の亀裂へ俺とルカが左右から短剣を突き立てた。
ガリッ!
鎧が開き、内部で青白い核が光る。だが核は攻撃動作に合わせて体内を高速移動していた。
「魔力を使う場所に移動してる! 右肩だ!」
騎士が右腕を振り上げた瞬間、迅が大剣をフルスイングした。
ドガァァン!!
右肩ごと吹き飛び、露出した青い核が宙に浮く。逃げる核を追うが、胸の中へと戻ろうとする。
「届かない――!」
その時、白い影が疾走した。
《プリンス・ステップ》!
「僕を忘れていないかい? 速さなら、僕の方が上だ!」
レンの短剣が閃き、核を砕いた。パラディンは動きを止め、膝をついて崩れ落ちる。
短剣を収めたレンに、迅がぽつりと呟いた。
「……悪くなかった」
「もう一度言ってくれ!」「二度と言わねぇ!」
軽口のあと、迅が俺を振り返る。
「佐川。てめぇも、まだ遅ぇ。黒い奴は、さっきの騎士より速ぇぞ」
レオに指二本で吹き飛ばされた感触を思い出し、俺は拳を握りしめた。
「分かってる」
「じゃあ」迅は大剣を肩に担ぎ、二十一層へ続く扉を開けた。「届かねぇなら、届くまで強くなれ」
開いた扉の先。今まで真っ白だった壁の奥に、黒い血管のような線が走り始めていた。




