第四十五話 黒崎レオ
負傷した二人を安全な場所まで運び、しえるが素早く治癒の術式を展開し始めた、その時だった。
ドォォン!!
遠い坑道の奥から、腹に響く不穏な重低音が届いた。
洞窟全体が、まるで生き物のように小さく身震いする。
頭上の白い天井から、パラパラと細かな石灰の粉が舞い落ち、視界をほの暗く濁らせた。
「迅さん……」
しえるは傷口を押さえる手に力を込め、治療の光を途切れさせないまま、切迫した眼差しで奥へと続く暗い通路を見つめた。
俺の胸の奥も、同じようにざわついている。
当然だ。あそこには今も、迅と――変異した冬真がいる。
「浩介さん」
ルカが俺の横顔を覗き込んできた。
その瞳にはすでに迷いがない。
「行くっすよね」
「……うん」
神代も静かに一歩を踏み出し、メガネの奥の瞳を光ませた。
「僕も行きます」
「……負傷者はどうする?」
俺たちの言葉を受け、レンが自らの胸をドンと叩いてみせた。
「任せたまえ」
俺は少し不安になってその顔を見つめる。
「……大丈夫なのか?」
「何だい、その失礼な顔は」
レンはふっと不敵な笑みを浮かべると、視線を通路の奥へと向けた。
「純粋な戦いに関しては、迅君の方がはるかに適任だろう。だがね……」
いつもの、どこか軽薄で、けれど頼もしい笑顔。
「誰かを逃がすことにかけては、僕の方が一枚上だよ」
神代が深く頷き、短く頭を下げた。
「お願いします」
「任された」
俺、ルカ、神代の三人は頷き合い、踵を返して走り出した。
引き返す通路は恐ろしく狭い。
足元の岩肌には生々しい亀裂が走り、壁面は削り取られたように破壊されている。
近づくにつれて、壁に刻まれた無数の爪痕と打撃の痕跡が増えていった。
久我冬真の変異。
あの異様な姿は何だったんだ。
黒い糸。
異形。
そしてあの黒い羽。
頭の中でいくつものピースが繋がりそうで、どうしても最後の一片が繋がらない。
急カーブの角を曲がった瞬間――俺たちは息を呑んだ。
「……っ!」
目の前にあったはずの岩壁が半分以上も吹き飛び、巨大なドーム状の空洞が出来上がっていた。
その中心に、迅が立っていた。
肩からは鮮血が滴り、額の傷から流れた血が右目を赤く染めている。
だが、その手にはしっかりとあの大剣が握られていた。
その対角上に立つのは、久我冬真。
……いや、もうあれを『久我』と呼んでいいのかすら分からない。
体躯は三メートル近くまで膨れ上がり、肥大化した右腕は重機のように太い。
逆に左腕は異様にしなやかで細長く、その先端の鋭利な爪がガリガリと音を立てて床を削っていた。
背中からは、黒い何かが蠢きながら生え出ている。
羽か?
いや、肉と骨が途中で歪に形成されかけた、未完成の悪夢のような質量。
顔にはまだ、わずかに久我の面影が残っている。
けれどその口は、耳の下まで引き裂かれていた。
「迅!」
俺は声を限界まで張り上げて叫んだ。
「来んなっつったろ!」
迅は振り返りもせず、大剣を構えたまま怒鳴り返す。
「二人を安全な場所に運んだ!なら戻ってくるに決まってるだろ!」
「ならそのまま逃げろ!」
「無理に決まってんだろ!」
そのやり取りを裂くように、久我の首がぎちぎちと嫌な音を立ててこちらを向いた。
眼孔に灯る、血のように濁った赤い光。
「サガワ……コウスケ……」
喋った。
その声は二重になって響いていた。
人間の久我の声と、その奥底から響く地獄の底から湧き出るような低い異音が重なり合っている。
「オマエ……俺ヲ……馬鹿ニシタ……」
俺は短剣を握り直し、腰を低く落とした。
「馬鹿にはしてない。本当のことを言っただけだ」
「浩介さん、今煽らなくていいっすから!」
ルカが焦った声を上げる。
「ごめん!」
久我が耳を劈くような咆哮を上げ、巨躯に見合わぬ速度で突進してきた。
その射線上に、迅が割り込む。
「俺を見ろ、化け物が!」
叫びとともに大剣を振り上げる。
久我の巨大な右腕が、上空から振り下ろされた。
ドゴォォン!!
衝撃波で地面が大きく沈み込み、迅の足元からクモの巣状に亀裂が走る。
迅の身体がミシミシと音を立て、じりじりと後ろへ押し込まれていく。
あの迅が、力比べで圧されているなんて――。
「ぐっ……!」
俺は目を見開いた。
「迅が……押されてる……!?」
神代がメガネのフチを押さえながら叫ぶ。
「変異が進むほど出力が上がっています! 危険です!」
久我が咆哮とともに腕を横に振るった。
受けきれなかった迅の身体が宙を舞い、背後の岩壁へと激しく激突する。
「迅!」
「うるせぇ!」
岩屑を吹き飛ばし、即座に立ち上がる迅。
だが、その口端からは赤黒い血が漏れていた。
迅は大剣を勢いよく地面に突き立てると、血で汚れた歯を見せて笑った。
「こいつ……結構強ぇぞ」
「楽しそうに言うな!」
「強い奴と戦って何が悪い!」
本当に、この人は頭のネジが飛び抜けている。
その時、久我の背中から生えた黒い翼が、さらに禍々しく広がりを見せた。
それと同調するように、俺の懐にある黒球のケースが、これまでにない激しさで震え始めたのだ。
カタカタカタ……!
手で押さえても伝わってくる、冷たく鋭い振動。
直後、俺の視界の端に青白い【警告】の文字が明滅した。
【外部観測因子――増殖】
「観測……因子……?」
つぶやいた俺に、神代が素早く反応する。
「何か見えましたか!?」
「外部観測因子、増殖って表示が出た……!」
久我の胸の真ん中に、黒い線が網の目のように集まり始めていた。
心臓か?
いや、違う。
黒い高密度のエネルギーが、一つの塊を形成していく。
「核……っすか?」
ルカの問いに、迅が鋭い視線を向けた。
「なら、そこを壊せば終わりか?」
「待て!」
俺の頭の中で、思考が激しく混乱していた。
元は人間だったんだ。
もしあの核を破壊したら、冬真は完全に死ぬ。
そんなの当たり前だ。
でも――今の冬真は、まだ人間と言えるのか?
「助けられるかもしれない……!」
口が、勝手に言葉を吐き出していた。
迅が冷ややかな目で俺を横目で見やる。
「……まだそんな甘いこと言ってんのか」
「だって! さっきまで人間だったんだぞ!? だったら、元に戻せる可能性だって――」
「ねぇよ」
その声は、静かだった。
あまりにも低く、冷たく、耳の奥にスッと入り込んでくる声。
俺はその声を知っている。
一度だけ。あの日。
透が死ぬ直前に聞いた、あの少年の声だ。
全員の視線が、一斉に上空へと向いた。
空洞の上部、崩れ落ちた巨大な結晶の頂。
そこに、黒い服を纏った男が立っていた。
細身のシルエット。
黒髪。
少年にも、青年にも見える不確定な年齢感。
右手には、光を吸い込むような黒い短剣が握られている。
風など吹いていないはずなのに、どこからか舞い散った黒い羽が一枚、彼の肩を掠めて足元へと落ちた。
俺の頭の中が、一瞬で真っ白に染まる。
「……黒崎」
絞り出すような声が、喉の奥で震えた。
「……レオ」
男――レオは、静かに視線を俺へと落とした。
その瞳には、感情と呼ばれるものが一切存在しない。
「久しぶり」
たったそれだけの言葉。
だがその瞬間、俺の胸の奥でドス黒い熱量が爆発した。
膝から崩れ落ちた透。
地面を染めた赤い血。
何も出来ずにただ見ていただけの、惨めな自分。
あの日感じたすべての絶望と怒りが、津波のように押し寄せてくる。
「お前……!!」
身体が勝手に動き出していた。
「佐川君!」
神代の制止を振り切り、俺は短剣を構えて一歩踏み出す。
だが、レオの視線は俺を通り越し、その奥にいる久我へと向けられていた。
「そこを退け」
レオは迅に向かって、淡々と言い放つ。
迅が眉を釣り上げた。
「あ?」
「死にたくなければ」
レオは短剣の先をわずかに傾ける。
「三秒後、右へ跳べ」
「てめぇ、いきなり現れて誰に指図して――」
迅が言い終わるより早く、久我の身体が異常な隆起を見せた。
背中の未完成だった翼が内側から弾け飛び、鋭利な黒い棘となって全方位へ撒き散らされる!
「迅!!」
俺の叫び声と同時に、迅は極限の直感で右へと身体を跳ねさせた。
直後――ズドドドドドッ!!と壮絶な穿孔音が空洞に響き渡る。
さっきまで迅が立っていた場所の床と壁が、無数の黒い棘によって蜂の巣状に貫通されていた。
「……ッ」
着地した迅が、苦々しい表情でレオを睨みつける。
「てめぇ……なんで分かった」
レオは答えない。
久我の姿が、いよいよ人型を失い始めていた。
皮膚から人間の質感が消え去り、無数の赤い目が顔面や肉塊の表面に次々と開いていく。
一、二、三――いくつもの眼球が不規則に蠢く。
その肥大化した喉から、絞り出すような声が漏れた。
「コロ……ス……」
「サガワ……コウスケ……」
背筋に冷たい氷を押し当てられたような感覚が走った。
なぜ俺の名前を知っている?
久我が俺を憎んでいたからか?
違う。この声は久我のものじゃない。
久我の肉体を依代にして、その内側に潜む『何か』が喋っているんだ。
視界の端で、数字が刻一刻と刻まれていく。
【観測因子同期率――91%】
「同期……」
レオはそのシステム表示が見えているかのように、つぶやいた。
「もう遅い」
「待て!」
俺は一歩前に出て叫んだ。
「お前、助ける方法を知ってるのか!?」
レオがゆっくりと、初めて真っ直ぐに俺の目を見た。
「ない」
「やってみないと分からないだろ!」
「分かる」
「なんで言い切れるんだよ!」
その問いかけに、レオの目が一瞬だけ深く、細められた。
「……見てきたからだ」
意味が分からない。
「何を――」
その会話を断ち切るように、久我が狂暴な咆哮を上げてレオへと襲いかかった。
丸太のような腕が、レオの頭上から振り下ろされる。
だが、レオは動かない。
「避けろ!」
俺が叫ぶと同時に、レオはただ静かに、左へ一歩だけ身体をずらした。
空を切る巨大な腕。
続く鋭い爪の切り払いに対しては、半歩だけ後ろに下がる。
追撃の噛みつきに対しては、首をわずかに傾けるだけ。
すべての攻撃が、髪の毛一筋の紙一重でかわされていく。
まるで、久我が次にどう動くのかを、最初からすべて知っているかのように。
「……何だ、あいつ」
ルカが引きつった声を漏らす。
迅は笑っていなかった。
ただ凄まじい真剣さで、レオの動きを目で追っている。
「……強ぇ」
ぼそりと漏らしたその一言に、すべてが詰まっていた。
久我の懐へと滑り込んだレオは、黒い短剣をひと閃させた。
ザッ、と浅い線が刻まれる。
久我が歪んだ顔で嗤った。
「効か……」
「別に」
レオの淡々とした声。
間髪入れずに放たれた足払いが、久我の巨大な軸足を正確に刈る。
巨躯がわずかに体勢を崩した。
その隙を逃さず、レオは右腕の脇の下から、黒い短剣を深く突き立てた。
「そこじゃない」
久我が吠え、荒々しく腕を振り払う。
だが、刃を抜いたレオの姿はすでにそこにはなかった。
いつの間にか背後に回り込んでいたレオが、つぶやく。
「核も違う」
「……?」
胸のあの黒い塊が核じゃないのか……!?
レオの視線は、久我の背中に形成されかけている翼の根元――そこにある、細く蠢く黒い糸の束に注がれていた。
「本体は――こっちだ」
ザシュッ!
短剣が閃き、糸の束が一網打尽に切断される。
久我の動きがピタリと止まった。
「がっ……!?」
切断された黒い糸が狂乱し、レオの右腕に生き物のように巻き付く。
「レオ!」
思わずその名前を叫んでいた。
なぜだ。
なぜ敵であるはずのあいつを案じるような声を挙げたのか、自分でも分からない。
レオは巻き付いた糸を無感情に見つめると、短剣で自身の衣類の袖ごと糸を躊躇なく切り裂いた。
そして久我の胸を鋭く蹴りつけ、バックステップで距離を取る。
「同期率97」
レオが低く呟く。
「ここから三十秒だ」
「何が三十秒なんだよ!?」
「完全変異」
「だったら……! 元に戻せる方法を教えろ!」
「ない」
またしても即答。
俺の中で、抑え込んでいた感情が限界を迎えた。
「じゃあ……何でお前が勝手に決めるんだよ!」
俺は踏み出し、レオを指さした。
「透の時もそうだ! お前が勝手に決めたんだろ!」
「こいつも、透も……人間じゃなくなるから殺すって!」
洞窟内に静寂が訪れる。
久我の苦しげな呻き声だけが低く響いていた。
レオが俺を見る。
「そうだ」
胸の奥に、冷たい刃が刺さった気がした。
「……!」
言葉もない。
罪悪感すらなく、あっさりと認めるのか。
「ふざけるな……ふざけるなよ!!」
俺は地面を蹴った。
だが、その肩を迅の太い腕が激しく掴んで引き留める。
「離せ! 迅!」
「今じゃねぇ!」
「こいつは透を殺したんだぞ!?」
「知るか!」
迅が俺の顔の目の前で怒鳴り散らした。
「目の前を見ろ、浩介!」
久我の肉体が、さらに凄まじい勢いで膨張を開始していた。
赤く光る眼球が六つ、八つと増殖し、背中の翼が完全に開ききる。
後方から、しえるの悲鳴に近い声が届いた。
「浩介君! 表示が……!」
視界に浮かぶ警告文。
【同期率99.1%】
【観測端末化――開始】
観測端末。
その言葉の意味は分からない。
けれど、久我の崩れかけた顔面の中央――わずかに残った人間の口から、途切れ途切れの声が漏れ聞こえた。
「タス……」
全員の動きが止まる。
「助け……て……」
まだいる。
久我冬真の意識が、あの化け物の内側でまだ泣いているんだ。
胸が千切れそうなほど痛む。
「ほら見ろ!」
俺はレオを睨みつけた。
「まだ人間だ! まだ手遅れじゃない!」
レオはゆっくりと、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……だから」
黒い短剣を逆手に持ち替える。
「今、殺す」
「待て――!!」
俺は制止を振り払って走ろうとした。
ルカが息を呑み、神代はただ呆然と立ち尽くしている。
レオが一歩、踏み出した。
久我の目の前に立つ。
久我の人間としての瞳に、初めて明確な恐怖の色が浮かんだ。
「いや……死にたくな……」
レオが、淡々と言葉を返す。
「俺もだ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「何人も、そう言った」
直後、黒い短剣が閃いた。
首でも、胸の核でもない。
久我の耳の後ろ――頭蓋の隙間へと、刃が深く、深く突き刺される。
久我の巨大な身体が、ビクンと激しく硬直した。
全身を巡っていた黒い糸の蠢きが、一瞬でピタリと止まる。
レオが刃を静かに捻った。
プツン。
何か決定的な繋がりが切れた音がした。
三メートル近い巨躯から一気に力が抜け、ドォォン……と激しい音を立てて床に崩れ落ちる。
背中の黒い翼が砕け散り、肉体が灰のように儚く空中に霧散していく。
最後に残された久我の顔は、ほんの少しだけ、元の高校生の顔に戻っていた。
ゆっくりと瞼が閉じられ、二度と動かなくなる。
死んだのだ。
「……」
俺は言葉を失い、ただその光景を見つめることしかできなかった。
レオは短剣を抜き取り、刃に付着した泥を払うように振った。
「これで」
静かな声が空洞に響く。
「入口にはならない」
「……入口?」
俺の問いかけに、レオが視線を向けた。
その瞳はどこまでも冷ややかだ。
だが……あの日、透を殺した時の瞳と、本当に同じだっただろうか。
今の俺には、もう何も分からない。
「何の入口なんだよ……答えろ!」
レオは答えようとしない。
「『防衛機構』のことか……!?」
なぜかわからない。
だがその言葉を口にした。
その瞬間――レオの目の色が明確に変わった。
初めて見せる、わずかな驚きの色。
「……誰に聞いた」
俺は懐のケースに手を当てた。
「お前には関係ない」
「関係はある」
「じゃあ先に答えろ!」
「お前が先だ」
「ふざけるな!!」
俺は短剣を抜き放った。
今度は迅も止めない。
神代が「佐川君!」と叫ぶ声が遠くに聞こえた。
身体強化の魔力を全開にし、一気に地を蹴る。
十メートル。レオは動かない。
五メートル。三メートル。一メートル――!
「うおあぁぁぁっ!」
俺は渾身の力で短剣を首元へ振り下ろした。
だが――
カンッ!
軽い金属音が響く。
俺の短剣の側面を、レオの刃が下からわずかに叩き上げ、軌道を完全に逸らした。
「!?」
直後、みぞおちに軽い衝撃。
レオの二本の指が、俺の腹部に触れていた。
ドンッ!!
「がはっ……!?」
目に見えない衝撃波が腹突き抜け、俺の身体は無造作に後方へと吹き飛ばされた。
岩の床を何メートルも転がり、絶望的な息苦しさに悶絶する。
「……っ、ハ、ガ……っ!」
必死で呼吸を整え、泥を舐めながら立ち上がる。
レオはただ、そこに立っていた。一歩も動かずに。
「迅……」
俺の横で、迅が目を限界まで細めていた。
「今の……見えたか?」
迅は少しの間の後、苦々しく吐き捨てた。
「……ギリな」
レオが俺を見下ろす。
「前よりは、強くなった」
その知ったような言い草に、頭の中が沸騰しそうになる。
「知ったような顔で言うな!!」
「知っている」
レオは背を向けた。
「だが……まだ届かない」
歩き出す背中。
迅の眉がぴくりと動いた。
俺は拳を強く、爪が食い込むほど握りしめる。
レオは白い霧が立ち込める洞窟の奥へと、迷いなく進んでいく。
「待て!」
「黒崎レオ!!」
俺の叫び声に、レオの足が止まった。
だが、振り返りはしない。
「透を殺した本当の理由……!」
俺は胸の底から声を絞り出した。
「次会った時、絶対に全部聞かせろ!!」
数秒の沈眠。
やがて、レオの低い声が返ってきた。
「……生きて来られたらな」
それだけを残し、レオは再び歩き出し、霧の向こうへと消えていった。
「てめぇ……!」
迅が大剣を握り直し、一歩を踏み出す。
だが、今度は俺がその腕を掴んで止めた。
「浩介……いいのか?」
「……今追っても勝てない」
悔しい。
死ぬほど悔しくて、歯の根が合わないほど体が震えている。
けれど、理解してしまった。
さっきの一撃。
俺の全開の動きすら、あいつには赤子のように読まれていた。
今追えば、殺されるか、何も聞けずに終わるだけだ。
「次だ」
俺は立ち上がり、レオが消えた暗闇を強く睨みつけた。
「次は……絶対に捕まえる」
迅がフッと鼻を鳴らした。
「……やっと分かったか」
「何がだよ」
「てめぇの今のそんな生ぬるい想いじゃ、あいつには届かねぇってことだ」
迅は大剣を担ぎ直した。
「……今それ言うか?」
「今だから言うんだよ」
後ろから追いついてきたルカが、呆れたように肩をすくめる。
「鬼塚さん、相変わらず空気読まないっすね……」
神代がメガネをかけ直しながら苦笑した。
「フッ……鬼塚さんなりの激励でしょう」
「あ? 違ぇよ!」
「違うんですか?」
「違ぇって言ってんだろ!」
その時、遠くから走ってくる足音が響いた。
「皆ーっ!」
手を振りながら走ってくるのはレンだ。
膝に手をつき、肩で激しく息を乱している。
「む、無事かい……っ!?」
俺たちの無事を確認し、レンはほっと胸を撫で下ろした。
「……間に合ったようだね」
「全部終わったっすよ」
「…………」
レンはその場に固まった。
「僕の見せ場は……?」
「ねぇよ」
迅の即答に、レンが「そんなぁ!」と崩れ落ちる。
遠くの床には、久我冬真だったものが、静かに横たわっていた。
わずかに残った人間の姿のまま。
俺はもう一度、その姿を見つめた。
こいつは悪党だった。
間違いなく自分の欲望のために人を傷つけ、殺そうとした。
けれど最後の最後、恐怖に震えながら「助けて」と言った。
そして、レオはそれを容赦なく殺した。
それが善なのか、悪なのか。
今の俺には、まだ答えを出せない。
ただ、一つだけはっきりと分かったことがある。
黒崎レオ。
あいつは俺たちが思っている以上に、この世界の深遠な『闇』を知っていた。
そして、ホワイトゲートの深層には、俺たちがまだ見ぬ真実が、確実に待っているのだ。




