第四十三話 人間のまま
新キャラ
九条レン 鬼塚迅
既存メンバー
神代朔 火野ルカ
佐川浩介 森川しえる
第十五層へと通じる階段の手前で、俺たちは一度足を止めた。
ギルドから探索を許可されているのは、ここまでだ。
緩やかな傾斜を描いて下へと続く白い階段。その奥からは冷気ではなく、湿り気を帯びた生暖かい風がじわりと吹き上がってきていた。
ここまでのホワイトゲートがまとっていた冷徹な空気とは、あきらかに質が異なる異様な気配が漂っている。
「……帰りますか?」
しえるが俺の顔を窺うように覗き込んできた。
本来なら、ここで引き返すのが至極当然の判断だった。
赤黒い繊維の破片、黒い短刀、そして舞い落ちた黒い羽。
さらには、レオである可能性の高い人物の痕跡。
持ち帰るべき情報は、すでに手元に十分すぎるほど揃っている。
「帰る」
俺が即答すると、レンが心底意外だと言わんばかりに目を丸くした。
「君、本当に佐川浩介かい?」
「どういう意味だよ」
「もっと『あと少しだけ』なんて言って、勝手に潜っていくタイプかと思っていたよ」
「お前まで俺をどんな奴だと思ってんだ」
神代が何も言わず、じっと俺の横顔を見つめている。
「何だよ」
「……成長しましたね」
「それ、褒めてるのか?」
「一応は」
迅が鼻で嘲笑した。
「当たり前だ。ここで降るような奴はただの阿呆だろ」
「迅は十九層に戻らなくていいのか?」
「一人で行く」
「そっか」
「何だ」
「いや……」
ほんの少しだけ、名残惜しさを覚えている自分がいた。
迅が鋭く目を細め、俺を睨みつける。
「てめぇ、俺も一緒に帰ると思ってたのか?」
「ほんの少しだけな」
「ガキか」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
見かねたルカが横から口を挟んだ。
「迅さん、結構楽しそうだったっすけどね」
「あ?」
「いや、何でもないっす!」
迅から放たれる凄まじい圧に、ルカは慌てて両手を振った。
俺たちが回れ右をして引き返そうとした、まさにその瞬間だった。
階段の底から、カツ、カツ、と硬い靴音が響き渡る。
複数の人間が足早に近づいてくる音だ。
全員の身体が瞬時に硬直した。
神代が躊躇なく剣を抜き放ち、迅も無造作に大剣を構え直す。
階段の闇の中から、ぬっと影が浮かび上がってきた。
一人、二人、三人。
そして、その先頭で嘲笑を浮かべていたのは――久我冬真だった。
「……ッ」
俺の手が自然と腰の短剣の柄へ伸びる。
久我は相変わらず、へらへらとした笑みを張り付けていた。
「やあ。また会ったね」
さっきまでの殺し合いなどなかったかのような、あまりに軽い口調。
その背後には、見覚えのない二人の冒険者が続いていた。
いや、一人は自力で歩いておらず、床を引きずられている。意識を失った男と、恐怖に涙を流している一人の女性。
「冬真……」
俺の声が、地を這うように低く沈む。
久我は首を傾げてみせた。
「何だい?」
「その人たちは誰だ」
「仲間だよ」
「嘘をつけ」
拘束されている女性が、縋るようにこちらへ視線を向けた。
赤く腫らした目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
「助けて……」
消え入りそうな哀願。
久我の表情は一切動かない。
「余計な真似をするな」
彼は冷酷な手つきで、女性の肩を強く握り潰した。
「離せ!」
ルカが一歩前へ踏み出す。
久我は薄笑いを深めた。
「相変わらず正義感が強いね」
「正義とかどうでもいいっす。普通にムカつくだけっす!」
ルカが短剣を抜き放つ。
珍しく、本気で怒りを剥き出しにしていた。
「いいねぇ」
久我は携えた長槍を構える。
「なら、試してみようか」
彼が左手をかざした瞬間、俺たちは即座に身構えた。
《スケープゴート》が来る――。
だが、あの不気味な黒い光は放たれなかった。
代わりに、久我の首筋へ禍々しい黒い線が浮き彫りのように浮かび上がっていく。
俺は息を呑んだ。
「……それ」
さっき打ち倒した魔物と同じ、皮膚を這う黒い糸。
久我は自身の首元に手をやり、心底おかしそうに嗤った。
「これかい? 素晴らしいものを見つけたんだ」
「何をしたんだよ」
「別に何も。十四層で転移したあと、隠し通路を見つけてね。その奥の黒い部屋に、圧倒的な力があったんだ」
第一封鎖領域の光景が脳裏を掠める。
「それに触れたら、こうなったのさ」
久我が槍の柄を強く握り締めると、金属製の柄がミシッと嫌な音を立てて歪んだ。
迅の目つきが一変する。
「てめぇ……その力を今すぐ捨てろ」
「怖くなったかい?」
「違ぇよ。吐き気がするほど気持ち悪ぃんだ」
迅が吐き捨てた言葉に、久我の笑みが一瞬で消え去った。
「……君は本当に言葉を選ばないね」
「てめぇみたいな奴に選ぶ言葉なんざねぇよ」
「なら――」
久我が強く地面を蹴りつけた。
ドン!!
爆音とともに踏み込まれる。あまりの速度に呼吸すら詰まる。
昨日までのあいつとは、完全に別次元の機動だ。
旋律の瞬間、俺の眼前へ槍の穂先が肉迫していた。
反射的な身体強化で間一髪かわしたものの、極小の風圧で頬が切れ、赤い血が伝う。
「速っ……!」
間髪入れずに繰り出される横薙ぎの一撃を、俺は短剣の腹で受け止めた。
ガァン!!
激しい衝撃で腕の骨が痺れ、そのまま壁際まで吹き飛ばされる。
「浩介さん!」
ルカが疾走し、久我へ向けて左右から高速の連撃を叩き込む。
だが、久我は槍一本でその猛攻を容易く全て弾き返した。
ガキン! ガガガガッ!!
「昨日と別人っす……!」
「その通り!」
久我が槍の石突を翻し、ルカの腹部を叩き伏せる。
「ぐっ!」
ルカの小柄な身体が派手に吹き飛んだ。
そこへ神代が割り込み、一閃の突きを繰り出す。
久我はそれを難なくかわし、彼女の肩へ軽く触れた。
その瞬間、黒い線が久我の腕を走り、筋肉が一気に膨れ上がる。
「……ッ!」
振り下ろされた槍を神代が剣で受け止めるが、ドガァンと凄まじい質量が襲いかかり、彼女の膝が強制的に屈した。
「重い……!」
「退け!」
迅が割り込み、大剣を上段から一転して叩きつける。
バキィィン!!
槍と大剣が激突し、周囲の空間が爆ぜるように震えた。
ここで初めて、久我が二メートルほど後退する。
迅が獰猛な笑みを浮かべた。
「その程度か」
久我の顔が屈辱で苦々しく歪む。
「……気に入らないな」
「何がだ」
「君だよ」
黒い線が久我の首から顔面、頬へと這い回るように広がり、侵食していく。
迅は冷ややかな瞳でそれを見下ろした。
「だから言っただろ。気持ち悪ぃってな」
「黙れ!」
久我が叫び、真っ正面から衝突する。
槍と大剣が激しく交錯し、甲高い金属音が洞窟内を断続的に引き裂く。
久我の攻撃は確かに速く、そして重い。
だが、迅はそれ以上に圧倒的だった。
繰り出される槍の軌道を、迅は首を僅かに傾けるだけで完璧に見切り、交わしてみせる。
そして大剣の柄頭で、久我の肋骨を強かに打ち抜いた。
鈍い破壊音が響き、久我が血を吐く。
「がっ……!」
間髪入れずに叩き込まれた膝蹴りが久我の腹部を深く穿つ。
「ぐ……っ!」
迅は大剣を横へ一閃させ、鋭い刃を久我の首筋一センチ手前でピタリと停止させた。
「てめぇ、得た力に身体がついていってねぇぞ」
久我は荒い息を吐きながら、血走った目で迅を睨み返した。
「……は?」
「速くなった、強くなった。だから何だ」
迅の瞳には、一切の情すら浮かんでいない。
「動きが雑なんだよ。力に酔ってるだけの素人の動きだ」
「黙れ……!」
久我の執念に応えるように、黒い線がさらに身体をむしばんでいく。
首、胸、腕の皮膚の下を、気味の悪い糸が蠢いていた。
「浩介君!」
しえるの悲鳴のような声が響く。
「身体が……!」
見れば、久我の右腕の指が異常な長さに伸び、爪は黒く変色し、皮膚は病的な白色へと変貌を遂げていた。皮を脱ぐように異形化していく。
さっきのホワイトクロウラーと同じ変異だ。
久我は自身の異形と化した腕を見つめ、一瞬だけ目を見開いたが、すぐに狂気を含んだ笑みを浮かべた。
「いいぞ……もっとだ」
俺の背筋に冷たい氷が走る。
「冬真、やめろ!」
「何を?」
「それ以上、その力を使うな!」
「何故だい?」
久我は可笑しそうに歪んだ笑みを深めた。
「強くなっているんだ。何が問題なんだ?」
「人間じゃなくなってるだろ!」
久我は一瞬だけ動きを止め、それから心底不思議そうに問いかけてきた。
「だから?」
俺はその一言に絶句した。
「人間であることに何の価値があるんだい? 弱いし、死ぬし、奪われ、利用されるだけだ」
黒い爪がさらに長く伸びていく。
「なら、奪う側、利用する側へ行けばいいだけの話じゃないか」
俺は拳を強く握り締め、爪が掌に食い込んだ。
こいつは最後まで変わらない。
大切なことを、何一つ理解していないのだ。
「違う」
自然と声が口から零れ落ちていた。
「お前は、世界が変わったからこうなったんじゃない」
久我が目を細める。
「何だと?」
「元々なんだよ」
俺は短剣をまっすぐに構え直した。
「お前は最初から、自分が生き残るためなら他人が死んでもいいと思ってたんだ。世界が覚醒しようが、ダンジョンが現れようが関係ない。お前がそういう人間だっただけだ!」
久我のへらへらとした笑みが完全に消え去った。
「……殺す」
黒い糸が全身を駆け巡り、激怒の波動が周囲の空気を圧迫する。
その瞬間、後ろで拘束されていた女性が悲鳴を上げた。
「いやぁっ!」
久我が無意識に腕を振りかざすと、指先から伸びた黒い糸が女性へ向かって一直線に襲いかかる。
「ッ!」
俺は駆け出そうとしたが、距離がありすぎる。
だが、俺よりも速く動いた影があった。
《プリンス・ステップ》。
一瞬にして女性の横へ現れたレンが彼女を抱きかかえ、そのまま掻き消えるように消失する。
黒い糸は空を切り、虚しく岩肌を穿った。
「何をする……!」
十メートルほど離れた場所で、レンが女性を抱えて着地していた。
キザな笑みは消え、真剣な眼差しを久我に向けている。
「申し訳ないけれど、美しくない男に女性を任せる趣味はないんだ」
レンは女性を安全な場所へ下ろすと、しえるへと引き渡した。
「彼女をお願いするよ」
「はい!」
レンは振り返り、荒い息を吐く久我を不敵に見据えた。
「それからね。僕は自分が逃げるのが得意なだけじゃない。誰かを『逃がす』のも、かなり得意なんだよ」
「調子に乗るな!」
怒号とともに突進する久我の前に、迅が割り込んだ。
「よそ見してんじゃねぇよ」
大剣の一撃が炸裂する。
ドゴォン!!
壁に叩きつけられた久我の身体から結晶が割れ飛び、黒い糸がさらに増殖していく。
起き上がった久我の口は裂け始め、歯は鋭く尖り、片方の瞳は血のように赤く染まっていた。
もはや人間の姿を半分失っている。
「俺がこいつを止める」
迅が言った。
「てめぇらはその二人を連れて失せろ」
「でも!」
「佐川!」
迅が怒鳴りつける。
「てめぇが今やるべきことは何だ!」
俺は意識のない男と泣きじゃくる女性、そして狂気と化した久我を見つめた。
「……二人を救い出すことだ」
「なら行け!」
俺は走り出し、倒れていた男を背負い上げた。
しえるが女性を支え、神代が周囲の警戒に当たる。
ルカが心配そうに迅を見つめた。
「一人で大丈夫なんすか!?」
迅は大剣を肩に担ぎ、口元を不敵に歪めた。
「誰に口聞いてんだ」
久我が立ち上がる。
すでに右腕は巨大な黒い爪と化し、背中からは禍々しい何かが蠢いて膨らんでいた。
俺は走りながら、背後を一度だけ振り返る。
迅は狭い通路の中央にたった一人で立ち、久我の前に立ちはだかっていた。
「来いよ」
迅が大剣を構え直す。
「偽物の強さとやらが、どこまで届くのか……俺が見極めてやる」
久我の怪異な咆哮が洞窟全体を揺らした。
そして俺たちの背後で、地響きのような凄まじい衝突音が鳴り響いたのだった。




