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第四十話 壁の中から来た男

ほんの少しだけ目を細める。


「……お前」


その鋭い視線に刺され、なぜか胸の奥へ嫌な予感が走った。


「壁の中に住んでる人っすか?」


空気を読まないルカの声が静寂をぶち破る。


「あ?」


「怖っ」


あまりの凄みに、ルカは即座に首をすくめて身を引いた。


男は億劫そうに頭をガリガリと掻く。


「鬼塚迅。冒険者だ」


神代の手元は緩まない。剣の切っ先を男に向けたまま問う。


「所属は?」


「ねぇ」


「ランクは?」


「A」


その一言で、その場の空気が凍りついた。


――Aランク。


俺は改めて男――迅の姿を注視する。聞き覚えのない名前だった。だが、身につけた装備や体格云々ではない。ただそこに立っているというだけで直感する。


強い。


それも、尋常じゃなく。


「それで、Aランク冒険者がなぜこんな壁の中に?」


神代の詰問に、迅は肩越しに後ろの穴を親指で指し示した。


「十九層から来た」


「……十九?」


「十八から十九へ降りたところで、空間の変化型に巻き込まれた。気づいたら岩の隙間の中だ。戻ることも、進むこともできねぇ」


迅は大剣を無造作に肩へ担ぎ直す。


「だから、壊した」


「ここまでの壁を……ですか?」


「違ぇよ。内部の変化型空間が、たまたまここへ繋がってただけだ」


「それでも、普通は壁を粉砕して解決しようとは思いません」


「出られただろ」


「結果論です」


「結果が出りゃいいんだよ」


神代と迅の視線が火花を散らす。出会ってわずか一分で、二人の相性が最悪であることが決定づけられた。


「浩介さん」


ルカが俺の袖を引っ張り、小さな声で囁く。


「この人、絶対に面倒くさいタイプっす」


「聞こえてんぞ、赤チビ」


「誰が赤チビっすか!」


……確かに面倒だ。


だが、十九層まで潜っていたのなら、確かめたいことがある。


「迅」


「あ?」


「黒い服の男、見なかったか?」


その瞬間、迅の眼光が一変した。


「……お前らも見たのか」


俺が一歩踏み出す。


「どこで?」


「十七層」


「顔は?」


「見てねぇ」


「追わなかったのか?」


「追ってねぇよ」


「なんで――」


「死にてぇのか?」


低く重い声に遮られた。


「自分より強いかもしれねぇ奴を、情報もなしに追う馬鹿がどこにいる」


一瞬の沈黙。ルカが静かに俺を指差した。


「ここにいるっす」


「指を差すな」


迅の視線が、俺を頭の先から足元まで品定めするように滑る。


「お前、佐川浩介だろ」


「……なんで俺を知ってる?」


「ギルドで噂になってるぜ。Fランクのくせに規格外個体を討伐した奴がいるってな」


迅の目が、俺の腰の短剣に留まる。


「もっとゴツい奴を想像してたんだがな」


「悪かったな」


「別に。ただ――」


迅の瞳から、軽い色が完全に消え去った。


「そんな武器と構えじゃ、届かねぇぞ」


「……誰にだ?」


「お前が追ってる、その黒い奴にだ」


胸の奥で、カチンと小さな火花が散った。


「俺の戦いを見たこともないくせに?」


「立ち方を見りゃ分かる」


「じゃあ、試してみるか?」


「あ……」


ルカが引きつった声を漏らす。しえるも困惑したように眉をひそめ、神代は深く重いため息をついた。


だが迅だけは、ニヤリと口角を上げた。


「いいぜ。ちょうど身体をほぐしたかった――」


ゴゴゴゴゴ……!


突如、足元から地鳴りが響いた。全員の身体が強張る。


巨大な石柱の影から、優に五メートルを超える白銀の巨体が姿を現した。全身を結晶の鎧で固め、胸の中央には不気味な青い核が蠢いている。


「クリスタルゴーレム……!」


神代の叫びが飛び交う。


「本来なら、もっと深い階層に棲息する個体です!」


また深層からの逸脱個体か。


ゴーレムが丸太のような拳を頭上高く振り上げる。


「散れ!」


直後、地面が爆発した。俺たちは左右へ跳躍して着地する。だが――迅だけが、その場から動いていなかった。


「迅!?」


ゴーレムの巨大な左腕が、空気を引き裂く横薙ぎに振るわれる。

激しい白塵。石柱の一本が爆音とともに折れ飛んだ。直撃した――そう誰もが思った瞬間。


「遅ぇよ」


声は、ゴーレムの足元から響いた。


いつ移動した?

いつ大剣を抜いた?


俺の目をもってしても、その軌跡すら捉え切れなかった。


「狙う場所が違ぇんだよ」


迅が大剣を一閃させる。

轟音とともに、ゴーレムの太い右脚が半分ほど粉砕され、晶石の破片が飛び散った。


「……は?」


ルカが素で呆然とした声を漏らす。俺も絶句していた。斬り落としたのではない。巨大な結晶の塊を、圧倒的な腕力で打ち砕いたのだ。


バランスを崩したゴーレムが大きく傾く。その拍子に、胸の青い核が剥き出しになった。


「今なら……!」


《身体強化》を発動。


俺は不整地を蹴り立てた。倒れかけた石柱を足場にして跳躍し、胸の高さまで一気に躍進する。


あと一メートル。

この短剣でも、あの核に届く。

視界の端で、ゴーレムの腕が猛スピードで戻ってくるのが見えた。間に合わないかもしれない。


――だが。


最悪でも《オールエスケープ》がある。

致命傷さえ避けられれば――。


「馬鹿野郎!」


横合いから強烈な衝撃が襲った。空中で体を弾き飛ばされ、俺は泥泥の地面を無様に転がる。

直後。


俺がコンマ数秒前までいた空間を、ゴーレムの巨大な拳が爆破するように打ち抜いていた。


「何すんだよ!」


跳ね起き、睨みつける俺に対し、迅の目は冷たく澄んでいた。


「今、お前……死ぬのを前提で突っ込んだな?」


言葉が喉に詰まる。迅は忌々しそうに舌打ちをした。


「当たりか」


ゴーレムが咆哮を上げ、再び腕を振り上げる。


迅は大剣を荒々しく肩に乗せた。


「死ななきゃいい。最後に生きてりゃ勝ちだ――そんな捨て身の戦い方をしてる奴が」


ダァン!と地面を踏み砕く音。

迅の姿が視界から消えた。次の瞬間には。


ゴーレムの胸部中央へ、深々と大剣が突き刺さっていた。


「てめぇの追ってる奴に、届くわけねぇだろ!!」


迅の両腕に筋が浮かび、爆ぜるような力が込められる。

亀裂がゴーレムの胸部全体へと一瞬で走り抜けた。


バキバキバキッ!


青い核が叫びのような音を立てて粉砕される。

巨大な結晶の巨躯が倒れ込み、平原全体を揺らした。

迅は血煙ならぬ晶粉の中から大剣を引き抜き、俺をまっすぐに見下ろす。


「ダンジョン攻略ってのはな、死ぬ方法を探すことじゃねぇ」


舞い散る白い粉塵の向こう側。


「生きて勝つ方法を模索することだ」


神代が無言で俺に視線を向けてくる。その瞳の厳しさに、何を言いたいのかは痛いほど分かった。


「……分かったよ。今のは俺が悪かった」


「へっ、意外と素直じゃねぇか」


「でも、言い方は死ぬほどムカつく」


迅が口元を歪めて笑った。


「上等だ」


その時、後方で様子を見ていたしえるが、倒れたゴーレムの巨体の向こう側を指差した。


「……人が倒れています!」


全員で駆け寄る。


そこに横たわっていたのは、若い男性冒険者だった。

すでに息はない。胸部は原型をとどめないほど潰れており、一見すればゴーレムの踏みつけによって命を落としたように見えた。

だが、神代が遺体を改めると、その表情が険しく強張る。


「……背中に刺し傷があります」


細い刃による、致命的な一撃。

明らかにゴーレムの巨体による傷ではない。


迅がその場にしゃがみ込んだ。


「やっぱりな」


「知ってるのか?」


「深い階層でも何体か見かけた。魔物に殺されたように偽装されてるが、その前に『人間』の手で傷を負わされてる」


冷たい風が、白い墓標の立ち並ぶ空間を吹き抜けていく。

迅がゆっくりと立ち上がった。


「このダンジョン、黒い服の奴だけ警戒してりゃいいってわけじゃねぇぞ」


大剣を肩に担ぎ直す。


「普通に、人殺しが紛れ込んでやがる」


◇◇◇


翌日。


俺たちは十三層の入り口を進んでいた。


そして――。


「……なんで迅までついてきてるの?」


「俺は十九層に戻るんだよ」


「昨日、十九層から壁をぶち抜いて私たちがいる層に出てきたわよね?」


「だから、正規のルートで戻ろうとしてんだろ」


「最初からそうしなさいよ!」


「うるせぇな」


Aランクという圧倒的な戦力と、深層の情報。神代としても、迅の同行を断る理由はなかったらしい。


ただ、問題は……。


「赤チビ、前見て歩け」


「だから誰が赤チビっすか!」


「魔法女も遅れるなよ」


「しえるです!」


「そこの堅物」


「名前を覚えてから話しかけてください」


「ちっ、面倒くせぇ奴ばっかりだな」


――一番面倒なのはアンタだ。


俺はそのやり取りを傍らで見ながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。

こういう他愛もないくだらない会話。


透がいなくなってから、めっきり減っていた気がする。

あいつが迅と出会っていたら、絶対に初日から衝突していただろう。「俺の方が主人公だからな」なんて、意味の分からない主張を張り合いながら。


「浩介さん、今笑いましたよね?」


「笑ってない」


「いや絶対――」


「おーい!!」


前方から、切迫した叫び声が響いた。

一人の男が、なりふり構わず全速力でこちらへ走ってくる。


肩まで伸びた金髪。仕立ての良さそうな白いコート。やけに整った容姿。

そして――速い。恐ろしいほどの脚力だ。


「止まりなさい!」


神代の制止の声も耳届かず。

男は俺たちの脇を風のように吹き抜け、二十メートルほど行き過ぎた地点でようやく滑り込むように停止した。


手慣れた動作で髪を整えると、胸に手を当ててポーズを決める。


「安心したまえ! この僕が来たからには、もう何も心配はいらない!」


「……誰?」


俺が呟くと、男のキザな笑顔がそのまま固まった。


「九条レン」


沈黙。


「九条レンだよ!?」


「有名なんすか?」


「かなり有名だ!!」


迅が鼻で笑う。


「知らねぇな」


「君たちは世間を知らなさすぎる!」


神代が頭痛をこらえるように額を押さえた。


「……用件を」


「ああ、そうだった!」


レンのキザな表情から、一瞬でふざけた空気が吹き飛んだ。


「逃げよう」


「……は?」


「今すぐだ!」


直後。


カツ、カツ、カツ……。


規則正しく重い靴音が、通路の奥から響いてきた。

レンの顔が引きつる。


「では、僕はこれで!」


「待て!」


声をかける間もなく、男は一瞬で三十メートル先へと掻き消えた。


「速っ!?」


ルカが目を丸くする。


「あの人、私より速くないっすか!?」


「逃げ足だけはな」


「確かにっす!」


石柱の影から、三人の冒険者が姿を現した。

中央に立つのは、グレーのロングコートに身を包んだ黒髪の男。長槍を手にし、どこか穏やかな笑みを浮かべている。


その腕の端末には、青い光――。


【Bランク】

【久我冬真】


「見つけた」


久我と名乗った男は、俺たちの前で足を止めた。


「僕は久我冬真。そこの金髪が、僕たちの貴重な荷物を盗んで逃げてね」


「嘘を言うな!」


遠く離れた場所からレンの叫びが届く。


「僕はそんな美しくない犯罪などしない!」


「遠いんだよ!」


レンが少しだけ引き返してきた。ただし、いつでも逃げ出せる間合いは完璧に維持している。


レンの表情が真剣なものに変わった。


「第十四層で……彼らは人を殺した」


一気に空気が重く沈み込む。

だが、久我の笑みは崩れない。


「誤解だよ」


レンは言葉を重ねる。


「五人のパーティだった。三人死亡、一人重傷。そして最後の一人を、こいつらが無理やり連れ去ったんだ」


「ダンジョンでは人が死ぬ」


久我が軽々しく肩をすくめた。


「珍しいことじゃないだろう?」


「魔物に殺されたんじゃない!」


レンが強く久我を指差す。


「君が『印』をつけたんだ!」


一瞬だけ、久我の細められた目が冷たく光った。


「その瞬間から、周囲の魔物がその五人だけを執拗に狙い始めた。君たちには一匹たりとも向かわなかった!」


迅がゆっくりと、大剣の柄に手を伸ばす。


「……スキルか」


久我は隠す様子もなく、むしろ誇らしげに口元を歪めた。


「《スケープゴート》」


しえるの顔が引きつる。

久我はまるで便利な道具のスペックを語るように淡々と説明した。


「対象一人に、一定範囲内にいる魔物の敵意を強制的に集中させる。非常に優秀なスキルだよ」


「つまり」


俺は久我を睨みつける。


「他の冒険者を囮にしたのか」


「言い方が悪いな。結果として彼らが魔物を引き引き受けてくれて、その間に僕たちが安全に進めた……ただそれだけのことだ」


ルカの顔から一切の愛嬌が消えた。


「それ……殺したのと何も変わらないじゃないっすか」


「違うよ。僕は彼らに直接刃を振るってはいない」


胸の奥で、黒い感情が熱を帯びて渦巻く。

久我が俺に視線を向けた。


「佐川浩介。君なら少しは理解できると思ったんだがね」


「何をだ」


「生き残るためなら、使えるものは何でも使う……そうだろ?」


一瞬、透が倒れたあの日の光景が脳裏をよぎる。


人間が。

人間を。

エゴのために、平然と殺す。


「……ふざけるな」


怒りに任せて一歩踏み出した俺を、神代が腕を伸ばして制した。


「佐川君。冷静になってください」


久我はそのやり取りを見て、心底楽しそうに笑う。


「いい指揮官だ。君一人なら、簡単に落とせそうだったのにね」


その二人の間へ、迅が割り込んだ。

大剣の石突を地面に叩きつける。


ドドン!と重い不協和音が響いた。


「今すぐ失せろ」


久我の視線が迅へと動く。


「鬼塚迅……まさかAランクがいるとはね」


「なら、断る意味も分かんだろ」


久我は退かない。代わりに、緩やかに左手を高く掲げた。


その直後だった。

石柱の影から、青白い燐光が点滅し始める。


一つ。

二つ。

六、八……。


氷の皮膚を持つ魔獣――アイスハウンドの群れが姿を現した。


久我が冷ややかに笑う。


「ちょうどいい」


嫌な予感が背筋を駆け上がる。

久我の左指先から、黒い光の塊が弾け飛んだ。

その狙いは――。


「九条君」


レンの胸元へ、黒い光が吸い込まれるように着弾した。

一瞬、彼の胸に鮮血のような赤文字が浮かび上がる。


【TARGET】


八体のアイスハウンドが、一斉にレンへと凶暴な視線を向けた。


「…………」


整った顔が、完璧に引きつる。


「では……全軍、撤退だぁぁッ!」


レンが脱兎のごとく跳ね起きて逃げ出した。


「早い!?」


八体の魔獣が一丸となって追撃を開始する。

ルカが感心したように目を輝かせた。


「めちゃくちゃ速いっす!」


「感心してる場合か!」


その混乱の隙を突き、久我たちは反対方向へと足早に撤退を始める。


追いかけたい。

だが、迅が俺の肩を強く掴んで引き留めた。


「金髪が先だ。放置したら八匹に喰い殺されるぞ」


「……クソッ!」


俺たちは反転し、レンの後姿を追った。

しかし、速い。信じられないほど速い。

レンは白い石柱の間を、右へ左へと滑らかに縫うように駆け抜けていく。


「九条! 少しスピードを落とせ!」


「無茶を言わないでくれ!」


「俺たちが追いつけない!」


「それは君たちの足が遅いからだ!」


「助けられないだろ!」


「それは非常に困る!」


叫びながら、男はさらに加速した。

ルカが肩で息を荒げながら悲鳴をあげる。


「なんなんすか、あの人……!?」


「逃げる才能だけならSランクだな」


迅の呆れ声を聞きながら、俺の頭の中は別の計算を弾き出していた。


《スケープゴート》。

もしあのスキルが無制限に連発できるものなら、久我はわざわざ俺たちと会話など交わさず、片っ端から印を付与して全滅させればよかったはずだ。


なのに、使ったのはたった一人。

九条レンだけだ。


「レン! 印を付けられてから、今何秒くらい経った!?」


「この土壇場で時間を尋ねるのか!?」


「大体でいい、教えろ!」


「おそくとも……四十秒くらいだ!」


四十秒。


チラリと神代を見ると、彼女も全く同じ結論に至っていた。


「再使用までのインターバル……タイムラグがありますね」


「可能性は高い」


ならば――攻略の糸口はある。


俺は前方を爆走する金髪の背中を見据えた。

常軌を逸した足の速さ。

その背後を綺麗に一列になって追う八体の魔物。


「……使えるな」


ルカが不思議そうに顔を向けてくる。


「何がっすか?」


「九条のあの逃げ足だ」


前方の風を切る男から、抗議の声が飛んできた。


「失礼極まりない作戦会議が丸聞こえだぞ!?」


「聞こえてんのかよ!」


視界の先に、十四層へと続く下り階段が見えてきた。

久我たちが姿を消した方向だ。


俺は全速力で走りながら指示を出す。


「一度、体制を立て直すぞ」


神代が力強く頷いた。


「そのあと、あのパーティーを追撃しますか?」


「ああ」


今度は怒りや感情に任せて追うわけじゃない。

敵のスキルの特性を把握し、その弱点も見えた。


「次は――こっちが『利用』してやる」

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