第三十七話 英雄になるんだろ?
マダムゴンゾウが吹き飛ばされる。
その衝撃で誰もが言葉を失ったかに思われた。
その瞬間。
「動け!!!!」
ルカが残像を残して地を滑る。
二本の短剣が描く必殺の軌道。
怪物の首筋へ刃が走る.....が、響いたのは甲高い硬質音のみ。
刃が跳ね返された。
「硬っ……!?」
怪物の左腕がしなる。
後方へ跳ぼうとしたルカの身体を、巨大な拳が横から完全に捉えた。
ドカァーーン!!!!!
ルカが十メートル以上吹き飛び、大木にめり込んで動かなくなる。
「ストーンウォール!」
しえるの叫びと共に、四重の巨大石壁が隆起する。
だが怪物は足を緩めない。
一枚目、破砕。
二枚目、粉砕。
三枚目、崩壊。
四枚目.....突進の衝撃だけで、何トンもの岩塊が爆ぜ散った。
「そんな……」
絶望が場を支配する。
石壁は意味をなさない。
ルカより速く、マダムより重い。
組み立てる隙すら与えられない圧殺。
「……どうすれば」
神代の口から、今まで聞いたこともない無力な掠れ声が漏れた。
怪物がマダムへ向き直る。マダムは左拳を引き絞り、脚を深く踏み込んだ。
「キューティパァァァンチ!!」
石畳が砕け、魂を乗せた拳が怪物の腹部へ直撃する。凄まじい風圧が森を揺らした。
だが。 怪物は微動だにしなかった。肉がわずかに沈んだだけ。
「……本当に化け物ね」
巨大な手がマダムの全身を鷲掴みにする。そのまま高々と掲げられ......地面へ叩きつけられた。
ゴツン!
砕ける石畳。もう一度。二度。跳ねるマダムの身体。
「やめろ!!」
叫んでいた。
怪物の三つの目が俺を向く。
視線だけで身体が金縛りに遭う。喉が乾き、足が震える。
透が死んだあの日。
目の前で何もできなかった記憶がフラッシュバックする。
またか? また俺は指をくわえて見ているだけなのか!?
その時、手の中の黒球が激しく脈打った。
怪物の体に走る赤い筋が、同じ周期で明滅する。怪物が黒球に目を留め、一歩後退した。
【不明物質を確認:所有者照合――佐川浩介】
【照合完了】
激痛。
頭蓋の奥に見たこともない情景が流れ込んでくる。
血の空。倒壊した建造物。
天を突く黒塔。
そして.....黒い球体を掲げる『誰か』の背中。
『.....また選ぶのか』
「ぐっ……ぁぁあ!」
視界が戻る。
荒れる森、倒れた仲間たち、迫る死。
「逃げなさい……浩介ちゃん……!」
マダムの声。
正しい。
Fランクの俺に何ができる? 勝ち目なんてゼロだ。 足が勝手に一歩下がる。
その瞬間、胸の奥で透の声が弾けた。
『英雄になる!』
馬鹿みたいに、青臭く笑っていたあいつの顔。
「……なあ」
声が出た。
「英雄になるんだろ?」
自分へ言ったのか、透へ言ったのかも分からない。
俺は腰の短剣を抜いていた。
「浩介ちゃん! 何考えて.....」
「師匠でも勝てないんですよ!!!」
「だから!!逃げなさいって!!!」
「....分かってます」
怪物の右肩が引かれる。
次の瞬間には、視界を埋め尽くす巨拳が目の前に迫っていた。
避けられない。見えているのに体が追いつかない。当たれば胸郭ごと肉片になる。
【致命判定】
赤い文字が視界を叩く。俺は動かなかった。
「佐川君!」
拳が胸へ届く直前。
怪物が踏み込んだ足元の石畳が、自重に耐えかねて爆発するように崩れた。
ほんの数センチ。
軌道が下へズレる。
風圧だけで制服が破れ、背後の樹木が三本まとめて圧折された。
俺は立っている。無傷で。
「……一回」
怪物の爪が頭上から振り下ろされる。
【致命判定】
動かない。
恐怖で心臓が暴れて死にそうだ。
だが、見る。逃げない。
爪が迫る瞬間、左手の黒球が強く光を放った。怪物の腕が一瞬だけ硬直する。
そのわずかなラグ。爪先は俺の髪を数本散らしただけで、石畳へ深く突き刺さった。
「二回!」
怪物の口が大きく開く。
喉奥に収束する高熱の赤い光。
「伏せなさい! ブレスよ!」
範囲攻撃。逃げ場はない。
解放される熱の奔流。
視界が真っ赤に染まる。
【致命判定】
浮遊した黒球が胸前で固定された。
直撃した炎が、球体を中心に綺麗な円を描いて左右へ裂ける。
俺の両脇を通り抜けた熱線が背後の森林を瞬時に蒸発させた。
その中心で、俺だけが突っ立っている。
「……三回!!!」
分かった。もう偶然じゃない。
今まで何度も助かってきた死線。
俺が避けていたんじゃない。
『俺が死ぬという結果』だけが、世界で成立していない。
怪物を見上げる。圧倒的格上。掠れば即死。 だからこそ.....
「お前、俺を一発で殺せるくらい強いんだな」
身体強化を発動する。
青白い魔力が四肢を駆け巡る。
「だったら……お前の必殺技は、俺には当たらない」
怪物の咆哮。振り下ろされる拳。
【致命判定】
紙一重で外れる。
その懐へ、自ら踏み込む。 短剣を叩きつける!
キィン!
刃が弾かれる。硬すぎる。 返しの肘撃。
【致命判定】
怪物の足元が滑り、頭上を通過する。
首元へ斬りつけるが、再び甲高い金属音。
「攻撃が通っていません!」
「見れば分かる!!!」
死なない。だが、ダメージが通らない。
そこからの数分間は、狂気のような攻防だった。
【致命判定】
【致命判定】
【致命判定】
視界の端で真っ赤なシステムメッセージが乱乱と明滅し続ける。
怪物の拳が、爪が、尾のような薙ぎ払いが、猛烈な嵐となって俺を襲う。
一ミリでもずれれば即座に肉片へと変えられる殺意の奔流。
それが、すべて直前で『噛み合わない』。
怪物の脚が滑る。空間が微かに歪む。
黒球が不可視の障壁を張る。 俺の頭上を、首元を、心臓の数ミリ横を、死そのものが何度も何度も通過していく。
だが、完璧な回避ではない。 死に至らない『余波』.....吹き荒れる風圧、跳ね飛ぶ岩屑、掠める巨腕の質量。
ドゴォン!!
「ぐあぁっ……!!」
肩をかすめただけで体ごと弾き飛ばされ、激しい衝撃が骨を振わせる。メキッと嫌な音が鳴り、左の肋骨が砕けた。
【致命判定】
体勢を崩した俺の頭上へ、巨足が踏み下ろされる。
直前で足元が陥没し、踏みつけは逸れた。だが、巻き上がった爆風と岩片が顔面を容赦なく打ち抜く。
「つっ……がはァッ!」
口内に広がる、濃密な鉄と熱の味。
ドロッとした血を吐き出す。 息を吸うたび、折れた肋骨の先端が内臓を直接刺すような激痛が走った。
片目は自分の額から垂れた血で塞がり、視界の半分が赤く染まっている。肩は外れかけ、全身の肉が千切れそうなほど熱い。
死なない。絶対に死なない。だけど.....発狂するほど痛い。
それでも俺は、震える膝を力ずくで押し伸ばし、血を滴らせながら立ち上がった。
折れた胸を左腕で強く押さえ、乱暴に血の塊を吐き捨てる。視界は赤く霞んでいるのに、アドレナリンが脳を焼き切らんばかりに溢れ出し、神経が異常なほど冴え渡っていた。
「あはっ……あはははっ!」
掠れた笑いが、喉の奥から漏れた。
遠くで見ている神代やルカが、顔を真っ青にして俺を見ているのが分かる。
Fランクの少年が、身を削る激痛に塗れながら、血みどろで笑って立ち上がっているのだ。正気とは思えないだろう。
だが.....何より正気を失っていたのは、目の前の怪物だった。
怪物にとって、人間とは単なる
『脆い肉の塊』に過ぎなかった。
これまで踏み潰してきた幾多の冒険者と同じように、この羽虫のような少年も完璧に潰したはずだった。
その拳には山をも砕く質量が乗っていた。
なのに......目の前の『肉』は、潰れない。
どれだけ踏み荒らしても、爆風で肉を削っても、次の瞬間には何事もなかったかのように血みどろで立ち上がり、へらへらと笑いながら自分を見上げている。
『殺した』はずの存在が、殺される前よりも鋭い殺気を放って一歩を踏み出してくる。
怪物の本能が、激しい警鐘を鳴らしていた。
目の前にいるのは、生命ではない。こちらの理解が一切通じない、理不尽な『ナニカ』だ。
また一撃を繰り出そうとした怪物の巨大な腕が、空中でピタリと止まる。
四本の角の下、三つの赤い眼に宿っていたのは、絶対的な強者の余裕ではない。
己の『常識』を壊されたことに対する....明確な恐怖。
俺は左手の黒球を突き出し、血塗れの顔で一歩踏み出した。
「どうしたよ……まだ死んでねえぞ」
怪物が、明確に一歩引き下がる。
その光景に、マダムが目を見開いた。
「……ちょっと待ちなさいよ」
マダムの口元が、引きつったように歪む。
「追い詰められてるの……向こうじゃない」
その言葉が、俺の導火線に火をつけた。
七メートルの化け物が、全身骨折だらけのFランクの俺を怖がって退いている。
血液が沸騰する音がした。
「じゃあ.....俺の番だ」
地面を破砕して疾走する。 怪物の拳。
【致命判定】
外れる。 懐へ潜り込み、黒球をその胸へ直接押し当てた。
ドクン....!!
世界を揺らす重低音。 怪物の巨体が大きく反り返り、見たこともない苦痛の悲鳴を上げた。
「■■■■■■――ッ!?」
赤い筋から黒い霧が噴き出し、球体へと吸い込まれていく。岩石のようだった胸の皮膚に、みるみる亀裂が走っていく。
「今だ!!」
短剣を逆手に構え、亀裂へ突き立てる!
ズビュッ!
深々と刃が入る。黒い体液が噴き出した。
「通ったぁぁぁ!」
ルカの叫び。暴れる怪物。降り注ぐ爪。
【致命判定】
外れる。
同じ傷口へ短剣を何度も叩き込む。 払いのけられ、何度も吹き飛ばされ、激痛に視界が明滅する。
それでも立つ。死なない。攻略法は見えている。
「全員、もっと下がれ!」
「一人で戦う気ですか!?」
「今は俺一人の方がやりやすい!」
怪物の殺意は、完全に俺一人へ固定されていた。神代が歯を食いしばり、「後退!」と叫ぶ。
「浩介ちゃん」
マダムが血を拭い、俺を見つめていた。
「勝つのよ」
一瞬の静寂が流れる。
「....了解」
俺はそう答えた。
◇◇
燃える森林。崩壊した遺跡の中央。 俺と、七メートルの異形。二者だけの戦場。
「……でかすぎんだよ」
血で塞がった右目を手ぐしで拭い、怪物の三眼を睨みつける。
そこにはもう、初見の余裕はない。明確な警戒と恐怖。
「なあ、透」
短剣を持ち直す。
「お前なら……こういう時も笑ってんだろうな!」
踏み込む。怪物の拳。
【致命判定】
回避。懐。黒球。
ドクン!
防具の弱体化。短剣。傷の拡張。
怪物の蹴り。致命ではない衝撃で吹っ飛び、背中から壁へ激突する。
肺から空気が吐き出される。血を吐きながら、また立つ。
「死なないからって……痛くないわけじゃないんだよ……!」
怪物が俺を踏みつぶそうと足を振り上げる。
【致命判定】
直前に切り刻んだ左膝から力が抜け、巨足が俺の真横の地面を陥没させた。
土煙の中、俺は不敵に笑ってみせる。
「ほら……お前じゃ俺は殺せない」
俺が一歩進む。怪物が一歩下がる。
距離を詰める。また退く。
遠くで救助された冒険者が絶句していた。 全員が逃げ惑った絶望の化け物が、Fランクの少年に怯えて後退している。
「怪物が……浩介さんを……?」
ルカの声が震える。
追い詰められた怪物が咆哮した。
全身の赤い筋が限界突破の光を放ち、胸の核が激しく明滅する。
周囲の小石がふわふわと浮き上がり始めた。
「マズい! 周囲ごと吹き飛ばす気よ!」
広範囲の自爆的エネルギー解放。俺は死なない。だが、後ろの仲間たちは全滅する。
『俺は英雄になる!』
胸の奥で、あいつがまた笑った。
「なあ」
俺は黒球を握り直し、一直線に駆け出した。
「英雄になるんだろ! 」
「だったら.....守れよ!!」
「佐川君!」「浩介さん!」「行きなさい!!」
背後からの叫びを置き去りにする。 十メートル。五メートル。膨れ上がる赤光。
「身体強化ぁぁぁぁッ!!」
全魔力を脚へ。地面を爆破するように踏み込み、限界を超えた速度で空を飛ぶ。
怪物の胸へ.....黒球を叩きつけた!!
ゴォォォォン!!
収束しかけたエネルギーが、逆流するように黒球へ吸い上げられていく。
崩壊する胸の皮膚。その奥に露わになった、禍々しく輝く『黒い核』。
「見えた……!」
短剣を逆手に持ち替え、全身の捻りを右腕へ収束させる。
「これで……一歩くらい……!」
透の笑顔が脳裏をよぎる。
「英雄に近づいたかよぁぁぁぁぁッ!!」
短剣が、黒い核へ深々と突き刺さった。
一瞬の静寂。 怪物の額の目が、恐怖に染まったまま俺を見つめていた。
パシッ。
核に亀裂が入る。
「オ....ォ……」
ドドォォォォンッ!!
核の崩壊に伴う大爆発。 衝撃波で俺の身体は遥か上空へと弾き飛ばされた。
視界が激しく回転する。
【致命判定】
落下地点...重なり合った倒木の上。
枝が何本も折れながら衝撃を殺し、俺は地面へ転がり落ちた。
白い煙が漂う戦場。 ゆっくりと体を起こす。全身が痛い。だが、生きて呼吸している。
怪物は.....
膝から崩れ落ちていた。 胸にぽっかりと開いた大穴。
そこから灰のような粒子となり、指先から、腕から、風に溶けて消えていく。
最後に額の赤眼が閉じられ、巨躯は完全な灰の山へと姿を変えた。
静寂が戻る。
「……勝った……?」
誰も声を上げられない。 ルカは口を開ぐぐらせ、しえるは涙を流し、神代は剣を握ったまま固まっている。マダムすらも、信じられないものを見る目で俺を注視していた。
「……今、何が起きたっすか……?」
ルカが引きつった声を絞り出す。神代が静かに歩み寄ってきた。
「佐川君……君は、何をしたんですか?」
「倒したんだ」
「それは分かります! だが……僕たちは戦うことすら諦めた。」
「このマダムでさえ完敗を認めた化け物を……君が一人で……!」
神代の追及に、俺は答えられなかった。 ただ、視界に次々と文字が躍り出ていたからだ。
【特殊討伐を確認:階層規格外個体撃破】 【生存想定確率:0.001%未満】
画面をスクロールするように、絶句するようなログが流れる。
【致命判定発生回数:52】
「……ごじゅう、に……?」
声が漏れた。五十二回。
あの数分間の戦闘で、俺は五十二回もの『即死攻撃』を紙一重でかいくぐっていたのだ。
どれか一つでも成立していれば、俺は形すら残らず蒸発していたはずの死線。
【パッシブスキル《オールエスケープ》熟練度上昇】
左手の黒球が熱を帯び、一瞬だけ怪しげなテキストを浮かべて消える。
【■■■■の核】
「……何なんだよ、これ」
溜息を吐き、空を見上げる。
怪物が開けた樹木の穴から、綺麗な青空が覗いていた。
少しの静寂が流れる。
.....
「なあ……見てたか?」
返事はない。
「英雄になるの、思ってたより大変だぞ」
隣でルカが、呆れたように.
けれど誇らしげに笑った。
「浩介さん……めちゃくちゃ格好よかったっすよ。正直、ちょっと引きましたけど」
「台無しだよ」
俺は笑いながら言った。
◇◇
一時間後、天宮ギルドロビー。
救援班の報告を聞く受付職員の顔が、蒼白に染まっていた。
「確認……します。」
「十五階層の規格外個体……」
「最終討伐者……佐川浩介」
ロビーを埋め尽くす冒険者たちが息を呑む。
「討伐は……単独ですか?」
「最終局面」
神代が、静かに、だがハッキリと告げた。
「あの規格外個体と一人で渡り合い、討伐したのは....佐川君です」
ざわめきが怒号のように広がっていく。 「は?」
「Fランクが?」
「マダムでも無理だったんだぞ!?」
刺さる無数の視線。ボロボロの制服、泥と血に汚れた姿のまま、俺は肩を小さくした。
「……帰りタイ」
「浩介さん、昨日まで指揮官候補だったのに、今日でもう怪物扱いっすね」
「冗談抜きでやめろ」
その夜、天宮ギルドの極秘データベースが更新された。
【名前:佐川浩介】 【ランク:F】
その横に、鮮烈な赤文字が刻まれる。
【緊急再査定対象:現行評価との著しい剥離を確認】
【戦闘能力評価:不明】
Fランク。
そのはずだった少年を、世界のシステムが初めて『正しく測れなくなった』瞬間だった




