第三十六話 ミチノモノ
第三章を耐え抜いた英雄たちよ。
第四章へようこそ。
いざ、尋常に!!!!
翌朝、天宮ギルドへ向かう途中で一度だけ足を止めた。
背負ったリュックの底から、カチリと硬い小音が響いたからだ。
信号待ちの歩道でファスナーを開ける。
タオルの下で転がっていたのは、手のひら大の黒い球体。
以前、透と潜ったダンジョンで見つけたものだ。 鑑定しても詳細不明。魔力を流しても反応なし。
ただ、朝日に晒すと妙だった。
黒いというより、周囲の光を吸い込んでいる。見つめていると空間そのものが歪んで沈んでいくような錯覚を覚えた。
「……やっぱり気味悪いな」
透がいたら
『浩介! 絶対これ伝説のアイテムだぞ!』
と目を輝かせただろう。そんな幻聴に少しだけ口元が緩む。
「伝説なら説明書くらいつけとけよ」
青信号が点灯する。
球体を奥へ押し込み、俺は歩き出した。
昨日の模擬戦の疲労を抜き、少し装備を眺めて帰るその予定だ。
さて、ギルドに向かうか。
◇◇
熱気があるのに、不自然なほど静かだった。
百人近い冒険者が息を殺し、中央の大型モニターを見上げている。
画面の中で明滅する赤文字。
【緊急封鎖:グリーンゲート第十五階層以深】
【複数パーティからの救難信号を確認】
「何があった?」
駆け寄ってきたルカ、しえる、神代。
いつもなら口を開くルカが、固く唇を結んでいた。代わりに神代がモニターから目を逸らさずに告げる。
「一時間前、十五・十六階層のパーティから救難信号。」
「確認できているだけで二十七人。DからBランクまで含まれています」
「Bが……?」
過剰戦力のはずだった。
それが二十七人。
その直後、奥の扉が跳ね上がった。
「救護班! 道を空けろ!」
怒号と共に担架が滑り込む。
一人目は胸当てごと胸郭が深く陥没している。剣痕も矢傷もない。
巨大な『質量』に正面から叩き潰された痕跡。
二人目は膝下が欠損し、赤黒い血が床を汚す。
三人目の女性は無意識のまま顔を泥で汚していた。
床に落ちる血の赤が、白度の高いロビーで不気味に浮き立つ。
「……逃げろ」
職員に肩を抱えられ、足を引きずり戻ってきた男が掠れた声を漏らした。
革鎧は背中まで裂け、左腕は力なく垂れ下がっている。
だが異常なのは『目』だった。
男の視線はロビーの誰でもなく、存在しないダンジョンの深淵を捉え続けていた。
「何が出たんですか! モンスターは何体いた!」
受付の問いに、男の肩が激しく跳ね上がる。
「……一体」
ざわめきが伝染する。一体で、この人数を?
「違う……違うんだよ!」
男が叫んだ。ロビーの全視線が集中する。
「戦う相手じゃなかった……!」
「 Bランクもいた、前衛も魔法使いも揃ってた! 」
「なのに……俺たちは、災害に剣を持って殴りかかったんだ……!」
血と汗に塗れた男の叫びを、笑う者は一人もいなかった。
大型モニターの映像が切り替わる。
救援信号を送った冒険者のカメラ映像。
激しく揺れる視界。荒い呼吸。誰かの悲鳴。
カメラが振り返った瞬間......画面を埋め尽くす『黒い質量』。
直後、映像は盛大なノイズと共に途切れた。
「今のところ、スローで再生して」
低い声に人波が割れる。
マダムゴンゾウだった。
いつもの余裕に満ちた笑みは削ぎ落とされ、その鋭い眼光が画面に固着している。
静止画に映し出されたのは、人間一人分ほどの太さがある膨大な腕。
黒灰色の皮膚を、赤い亀裂のような筋が走っていた。
「ゴンゾウさん、心当たりは?」
「ないわ」
「では.....」
「知らないから『マズい』って言ってるのよ」
マダムの声が硬く引き締まる。
「アタシはA級相当もその上も見てきた。」
「でも、これは知らない。少なくともグリーンゲートにいていい代物じゃないわ」
冷気が背筋を駆け上がる。
あのマダムが、ここまで顔を歪めるなんて。 そこへ職員が駆け寄った。
「救援班を編成します! 勇者様は.....」
「ホワイトゲート深層。最短でも帰還に二時間以上」
「他のAランクは!?」
「最短到着まで四十分……!」
四十分。その間に深層の生存者は全滅する。 マダムは数秒だけ目を閉じ、静かに言った。
「アタシが行く」
「師匠……これ勝てます..か?」
俺の問いに、マダムは振り返った。
「映像だけじゃ断定できない。」
「でも……アタシが想像している強さなら、正面からやって勝てるとは思わないわ」
息を呑むルカとしえる。
「だから浩介ちゃん。」
「アンタたちは帰りなさい。」
「これは修行でも経験でもない。」
「戦えば成長できる段階の相手じゃないの」
マダムの視線が俺たちを射抜く。
「死ぬだけよ」
◇◇
二十分後。
俺たちは十五階層の暗がりの中にいた。
入口付近の生存者を拾い、即座に撤退する。十六階層には近づかない。
それが同行の条件だった。
深く生い茂る樹木と、崩れた石畳。
昼間にもかかわらず光は届かず、空気は生暖かい湿度と苔、そして焦鬱な鉄の匂いに満ちていた。
「いました!」
しえるが叫ぶ。
崩れた石造りの影に三人の負傷者。
即座にしえるが回復魔法を重ね、神代とルカが警戒網を張る。
俺は周囲の異様さに気づいていた。
風は吹いている。
葉も揺れている。
なのに......虫の音も、鳥の羽ばたきも存在しない。
生き物の気配が、綺麗に消え失せている。
「師匠」
「ええ。周囲の生体、全部逃げ出してるわね」
その時、背中のリュックがドクンと跳ねた。
ファスナーを開ける。
黒球。
何もなかった表面に、血のような赤線が浮き上がっていた。
脈打つたびに、赤い筋が明滅する。
ドクン。
ドクン。
心臓の動悸と同じ周期。
「それ……なんすか?」
「前に拾った.....」
言葉は、突如として訪れた振動に掻き消された。
ズゥン。
胃の底を直接揺さぶる重低音。 石畳の上に転がっていた小石が、パチンと跳ねた。
ズゥン!
間隔が縮まる。上がってくる。 十六階層から、この十五階層へ。
「全員、負傷者を担ぎなさい! 出口まで走るわよ!」
マダムの疾風のような指示。
神代が一人を背負い、ルカが肩を貸す。
俺も残りの一人を抱え直して地面を蹴った。入口まで五十メートル。
その時......右前方の森林全体が、悲鳴を上げて弾けた。
大木が真横へ吹き飛ぶ。
幹が途中からへし折れ、土煙と葉の嵐が舞い散る。 その崩壊の渦から、『それ』が足を踏み出した。
ズゥン!!
衝撃波が肌を叩く。
全高七メートルを超える異形。
人間の胴体ほどもある極太の脚が石畳を易々と粉砕する。皮膚は岩石のように黒く、全身を走る血管のような赤い筋が不気味に発光していた。
頭部には四本の角。 そして顔面に並ぶ、三つの眼。中央の血赤の巨大な一眼が、ゆっくりとこちらを捉えた。
半透明の文字が視界を侵食する。
【個体情報取得中――失敗】
【階層規格外個体】
【危険度:測定不能】
【現行ランク基準外】
神代の声が凍りつく。
「……Sランクですらないのか……!」
「アンタたちは走りなさい。振り返っちゃダメよ」
マダムが一歩前へ出る。両拳を構え、その背中が小さく呟いた。
「……アタシでも、これは無理かもしれない」
次の瞬間、怪物の巨体が『消えた』。
巨躯からはあり得ない速度。
人間の動体視力を置き去りにした踏み込み。
「伏せなさい!!」
怪物の丸太のような右腕が横一文字に振られる。マダムが両腕を交差させて直撃を受け止めた。
ガアァァンッ!!
金属同士が超音波で激突したような爆音。
衝撃圧だけで周囲の空気が吹き飛び、俺は負傷者ごと吹き飛ばされた。
泥を舐め、顔を上げる。
マダムがいない。 二十メートル先の石壁に、人間一人分の巨大なクレーターが穿たれていた。
「師匠!」
瓦礫を押し退け、マダムが立ち上がる。口元から血を流し、右腕は力なく垂れ下がっていた。
「あら……これは本当に笑えないわね」
マダムゴンゾウは、力無くそう答えた...。




