Sketch:4 記憶の代描者
「よお! 探したぜ、相棒」
その声は、白い世界にはあまりに似つかわしくなかった。
泥と画材の匂いがしそうな、ざらりとした温室のある声。振り返ると男がそこには一人の男が立っていた。
日に焼けた肌に無精髭。黒いベストを纏い、白いシャツの袖を肘まで捲り上げた姿。その袖口や胸元には、拭い去れないほど幾多の色染みがこびりついている。肩にかけた革鞄は使い込まれて角が丸くなり、腕にはスケッチブックと炭、そして小さな絵の具の箱を抱えていた。
にかっと笑うその笑い方を、クラウディオは知っていた。懐かしさ、というにはもう少し近い何かが、じわりと滲むように広がっていくような。そんな感覚がしたのだ。
「ったく、急に呼び出されたと思ったら、こーんな白いとこばっかで精神がおかしくなっちまうぜ。お前が見当たらなきゃ、この場所全体を、極彩色の絵でも描いてやるところだったぜ」
「ちょ…と、待て、待て。待ってくれ。君が誰なのか、僕には——」
クラウディオは一歩後ずさりながら手のひらを向けた。するとその男は、気にした様子もなく肩をすくめて「覚えてないんだろ」と呟いた。まるで雨が降ったことを報告するような口ぶりだった。
「それもまぁ聞いてた。しょうがねーよ、なぁ?嬢ちゃん」
男の視線が、クラウディオの隣に立つミュアへと向けられた。ミュアは一瞬、弾かれたように目を丸くし、それから少しだけ視線を逸らして「そうだね」と呟いた。
二人の間に、名前の付けようのない空気が流れた。
再会の喜びを、意地悪な沈黙で包み隠しているような、そんなもどかしい親密さ。男はその反応を見るや否や、白い床にどかりと腰を下ろした。座るまでに誰の許可も求めない。遠慮という言葉は、彼の鞄の中には入っていないようだった。
「座れよ。立ち話もなんだろ」
そう言いながら、スケッチブックや絵の具を膝の周りに広げて、石畳へと変わりかけた床をぺんぺんと手のひらで叩いた。
「…ここに座っていいのか、床に」
「どうせ白いだけだろ。汚れようがない」
クラウディオは少し迷ってから、男の向かい側に腰を下ろした。
ミュアはその隣に、ひとり分の距離を空けて座る。白い余白の中に、小さな円が描かれた。
「んで、どこまで覚えてる。オレのことは覚えてるか」
「…顔は見覚えがある。けれど、名前が…どうしても」
「カァーッ、お前...!あんだけ一緒に過ごしたってのに覚えてねえとか、ふざけてんのか」
仲良し料請求すんぞ、と男は悪態をついた。けれど声の底に怒りはない。困っている相手をこれ以上困らせないための、彼なりの不器用な作法なのだ。
「まぁいい、ここはそういうところだ。それを助けるためにオレが呼ばれたようなモンだし」
そういうと、男は手に取った炭を紙の上へと滑らせる。迷いのない線が、白い紙を切り裂いていく。描かれたのは三人の人物。髭を蓄えた自分自身、小さな女の子、そして――眼鏡をかけた、どこか疲れた顔の男。
「さて、忘れんぼさんのために自己紹介してやる。鴻上義孝だ。お前の幼馴染な」
「…鴻上」
鴻上は自分の似顔絵の横に、無造作に「こうがみ」と書き添えた。炭の粉がついた指先をベストで軽く拭い、次に眼鏡の男を指す。
「んで、こいつがお前だ。クラウディオ。お前の住んでる街の、刑事みたいなもんだ」
刑事。
その単語を聞いた瞬間、胸の奥で重い歯車がかちりと嵌まった。頭で理解するより早く、魂がその役割を受け入れていた。
不意に、ポケットの手帳を開く。先ほどまで白紙だったページに、ぼんやりと文字が浮かび始めていた。年齢、階級、住処。インクが紙に染み渡るように、彼の輪郭が文字として刻まれていく。
「…鴻上、君はなぜここにいるんだ? 君はこの世界で、何ができる?」
「なぜって、お前がオレを呼んだからだろ」
鴻上はあっけらかんと言い放つ。呼んだ?自分が?とクラウディオが何か言い返す前に、炭で影をつけながら続けた。
「オレにできることは、描くことだけだ。それ以外は人並み。戦闘力も正義感もからっきしだ。けどよ――」
さらり。嫌みでも謙遜でもない。ベストについた絵の具の染みと同じように、ただそこにある事実として口にしていた。彼は手を止め、クラウディオをまっすぐに見据えた。
「お前が何かを思い出したいとき、言葉にできない何かを形にしたいとき。そういうときはオレを使いな。描いてやる。それだけは、誰にも負けねえからよ」
「…じぶんで言っちゃうんだ」
「事実は事実だろ?」
ミュアが小さく笑った。声にはならなかったが、その口元が微かに弧を描いたのをクラウディオは見逃さなかった。鴻上はその後、丁寧で簡潔に情報を伝えてくれた。見かけによらず、彼は論理的な観察者だった。情報をひとつ取り込むたびに、霧がかっていた記憶の向こう側が、ほんの少しずつ輪郭を持ち始めていく。
「さて、最低限のヒントは教えたが、肝心な部分は全部お前自身が思い出さきゃならねえ」
「どうしてだい?君がすべてを知っているなら、教えてくれればいいじゃないか」
「オレが全部教えちまったら、それはお前の『記憶』じゃなくて、ただの『知識』になっちまうだろ。それだと意味がないんだ。ここから出られねぇんだよ」
鴻上はスケッチブックをぱらぱらとめくり、炭を指先でくるくると回しながら「それと…」と呟きながら隣で静かにしているミュアに向き直った。
「その子のことはお前が自分で思い出せ。いいか、絶対にだ」
「…ミュアのことを、僕が?」
「そう。…って、ミュアって呼ばれてんのか。お前」
鴻上が少し意外そうに、それから可笑しそうに笑うと、口元に指をあてがいながら、からかうように「ずいぶんとかわいい名前を付けてもらったもんだな、ミュアちゃん」と声をかけた。
ミュアはその声をきくと、ちいさくうるさいなぁ…と呟いて膝に顔をうずめた。
クラウディオがメイ・リリーの花から名前を借りたことを話すと、鴻上は体を小さく震わせながら笑った。ただ、彼女はぽつりと小さく「……そんな名前、本当はないのにね」消え入りそうな声で呟いた。
それは、硝子の器に水を注いだときのような、清冽で壊れやすい音だった。
クラウディオの胸に、熱いものが広がる。
名前も、顔も、声も思い出せない。
けれど、あの夕暮れの路地で自分を助けてくれた「光」の正体が、もしも――。その考えは、霧の中の灯りのように、すぐにぼんやりと霞んでしまった。
まさかな、と小さく首を振って、その感覚を胸の奥に仕舞い込む。
「…必ず思い出すよ」
無意識に、誓いがこぼれていた。ミュアがはっと顔を上げると珀色の瞳が揺れている。
彼女は小さく「約束しないでよ。守らなきゃいけなくなるから」とつぶやくも、クラウディオはまっすぐと目線をあわせながら、柔らかい声でミュアに誓いを立てた。
「もちろん、そのつもりだよ」
ミュアは顔を逸らしたが、その耳の先は夕焼けのように赤く染まっていた。鴻上は満足げにスケッチブックを閉じ、炭の粉を手のひらで払いながらよいしょ、と立ち上がった。
「んじゃ、行くか。お前と嬢ちゃんふたりぼっちじゃあ、どこへ迷い込むかわかったもんじゃないからな」
「.失礼だなぁ」
クラウディオが眉を寄せると、ミュアがまた小さく笑った。
足元の白は、ところどころで石畳の色を覗かせている。そして、その白の下に新たな色がゆっくりと宿り始めていた。世界が記憶に呼応するように、彩りが加わっていく。
必ず思い出す。すべてを。
前を歩く少女の、光を孕んで揺れる乳白色の髪を見つめながら、クラウディオは一歩、新たな色へと足を踏み出した。




