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Sketch:3 滲みだす色

最初に戻ってきたのは、手のひらの感触だった。

ボタンを握りしめた指の輪郭が、じわりと意識に浮かび上がる。次に、足の裏。硬い石畳の冷たさが、靴底を通して這い上がってきた。風が頬に当たり、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。白が後退していく代わりに記憶の色が、一層ずつ世界を塗り重ねていった。


気づいたとき、クラウディオは路地に立っていた。

古い石畳の路地で、両側に錆びた柵が続いている。夕暮れ前の光が横から差して、石畳に長い影を落としていた。冬の、夕方の風が頬を撫でる。どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。生活の匂い。白い世界にはなかった、人が暮らしている気配。


子どもたちが歩いていた。クラウディオの横を、すり抜けるように通り過ぎていく。おもわず声をかけてみたが、誰も振り向かない。手を伸ばしてみても、指先は空を掴むだけ。

まるでクラウディオがこの世界に存在していないかのように、子どもたちは笑い、走り、通り過ぎていった。


(――ここは、記憶だ。)

そう理解した。自分は見ている側で、この景色の中には入れない。触れることも、声をかけることもできない。ただ、見ることしか許されていないと悟ったのだった。


ふいに、路地の奥から乾いた衝撃音が響いた。誰かが争うような、尖った声。駆けつけた先にいたのは、三人の少年に囲まれ、石畳に倒れ伏した一人の男の子だった。男の子の膝には鮮やかな擦り傷があり、彼は小さな唇を噛みしめて、溢れ出しそうな涙を必死にこらえていた。


『お前、生意気なんだよ!』

少年のひとりが、倒れた男の子を見下ろして笑った。

楽しんでいる顔。誰かを踏みつけることでしか自分の大きさを確かめられない、そういう笑い方だった。


『おいおい、また泣くのかよ。なさけねえな』

『一人じゃなにもできないのかよ、弱虫』


弱虫、と罵られた男の子は立ち上がろうとした。必死に腕を突っ張って、膝をついて、それでも起き上がろうとする。だが、また押し倒されて、今度は派手に石畳に手をつく。手のひらが擦れて赤くなるも、それでもまた起き上がろうとしていた。


クラウディオは、その光景を静かに見つめていた。夕暮れの光に照らされたその横顔は、鏡の中で何回と見てきた自分自身の面影そのものだった。こんなに小さかったのか。こんなに弱々しい体で、この冷たい石の上にいたのかと、胸の奥が、古傷をなぞられたように疼いた。


そのとき。路地の向こうから声がした。


『こら!あんたたち!!』

はっきりと聞こえた。怒っているような、まっすぐな声。

小さくて、真っ直ぐな足音が石畳を叩いて近づいてくる。だが、不思議なことにその「体」は夕暮れの光に溶けたように白く滲み、輪郭を結ばない。


まるで、意志を持った光そのものが走ってくるかのようだった。


光の塊は、倒れている男の子の前に立ちはだかった。

『また三人でいじめてるの!弱いものいじめはやめなさい!』

『げ……ッ、***だ』


駆けつけた声の主に気づいた少年のひとりが、名前を口にして顔をひきつらせた。だが、その音だけがひどく割れていて、ノイズがかかったように聞き取れない。

クラウディオは耳を澄ませ、もう一度聞こうとした。だがどうしても、その名前だけがこの記憶から欠け落ちていた。


『男のけんかに、女がつっかかってくるなよな!』

少年のひとりが苛立ちを混じえながら言い返す。けれどその苛立ちの下に、怯えが滲んでいるのがクラウディオにはわかった。この声の主を、少年たちは恐れている。腕力ではなく、その真っ直ぐさを。


『ふん、三対一でしか勝てないような男が、なにいってるのよ——これいじょうこの子に手をだすなら、こんどはわたしがあいてよ!』

光の中で、構えるようなポーズを取った気配がした。小さな拳を握って、肩を張って。その構えは滅茶苦茶で、格闘技の型でも何でもなかっただろう。


それでも、あの声の主は本気だった。


『——ッ、お、女だからってバカにしやがって!興がさめたぜ、行くぞお前らッ!』

少年たちがたじろぎ、顔を見合わせて舌打ちをひとつすると、そのまま踵を返して三人は去っていった。


足音が遠ざかり、路地に静寂が戻る。

夕暮れの光だけが、ふたりの子どもの上に降り注いでいた。


『なによ、一人じゃなにもできないくせにして、エラそーに……』

光の塊はふん、と鼻を鳴らすと、男の子へと向けられた。さっきまでの鋭さは消え、声は柔らかくしんぱいそうな声で顔をのぞかせている。


『クラウディオ、だいじょうぶ? けがしてる?』

『……してない』

『うそ。けがしてる。それにぼろぼろよ』


『……』

クラウディオと呼ばれた幼い男の子は、うつむいたまま掠れた声で答えていた。泣いてはいなかった。でも、泣かないことに精一杯で、それ以外の何もできない顔をしていた。


幼いクラウディオは、俯いたまま掠れた声で答えていた。泣かないことに精一杯で、言葉を紡ぐ余裕さえない。 助けられた安堵と、自分への情けなさ。そのすべてを飲み込んで俯くしかない自分を、今のクラウディオは愛おしむような、悲しむような目で見つめていた。


光の中から、小さな溜息が聞こえた。呆れたような、けれど慈しみを湛えた吐息。 彼女はポケットから何かを取り出すと、慣れた手つきで男の子の膝に貼ってやった。


『なんでひとりで立ちむかったの?やられるの、わかってたでしょ』

『……』

『そういうときは、むりしないでいいの。いつでもわたしがかけつけてあげるんだから』


胸の奥が、じわりと熱くなった。 痛みとは違う。もっと深くて、柔らかい場所にある何かが解けていく

名前も顔も思い出せないけれど、あの日、自分の傍には確かに「この子」がいてくれたのだと。


立ち上がろうとした瞬間、石畳の上に小さな、軽い音がした。

落ちていたのは、一個の白いボタンだった。幼いクラウディオが拾い上げようとすると、光の手も同時に伸び、二人の指がボタンの上で重なった。


その正体は小さくて丸いボタン。

クラウディオが分署の引き出しに大事に収めているものと、よく似ているものだった。

あ、また取れちゃった。と光の中の声が告げると、その手がボタンを拾い上げて、幼いクラウディオの手のひらに乗せてみせた。


『いる?』

『え——い、いいよ…なくなったらこまっちゃうよ』

『そうなんだけど、さいきんよくとれちゃうの。ママにぬってもらってるのにね』


へんなの、とくすりと笑う声が聞こえた。

それから、男の子の手のひらをそっと閉じさせた。小さな手が、小さな手を包みこみながら『あげる!』と元気のいい声で呟いた。


『わたしだとおもって持っておいて。そしたら、もうこわくないでしょ』


男の子は、しばらくボタンを見つめていた。何か言おうとして、言えなかった。ありがとうも出てこなかった。ただ、小さな指がゆっくりとボタンを握りしめ、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。まるでおまもりのようだと思いながら、そのぬくもりを確かめるように、そっと胸の近くへ寄せた。


クラウディオはその光景を見ていた。

幼い自分の指が、掌の中にある小さなぬくもりを、お守りのように胸に寄せボタンを握りしめる姿を。そして光の中に立つ、名前も顔もわからない誰かの気配を。暖かくて、まっすぐで怖がりのくせに誰よりも強い、あの声だけが。


そして光の中に立つ「誰か」の気配を、逃さぬように網膜に刻みつけた。

三十年以上もの間、この温かさが自分の中に眠っていたことを、彼はようやく思い出し始めていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――


やがて、夕暮れの光はゆっくりと白に溶け、少女の笑い声だけを余韻として残して消えていった。

クラウディオは再び、余白域に立っていた。

だが、風景は僅かに変貌を遂げていた。 足元の白の下に、うっすらと石畳の模様が浮かび上がっている。完璧な色ではないが、それは確かに余白域を彩ったのだった。


クラウディオは手のひらを広げて、そこにあるものを見つめ直した。

縁が少し欠けた、白いボタン。胸の奥にある重みは、さっきよりも確かなものに変わっていた。ただ沈んでいた石が、今は命を宿してゆっくりと脈打っているような感覚。

小さなボタンをゆっくりと握りしめると、それはあの頃と同じ温かさだった。


「…戻ってきたんだ」

不意に声をかけられ視線を上げると、少し離れた場所でミュアが膝を抱えて座っていた。クラウディオは、ボタンに触れた後に見た情景を、噛みしめるように彼女へ語った。幼い自分。そして、自分を救ってくれた眩しい光のような女の子のこと。


その様子をミュアは、表情を変えることなく、ただ静かにクラウディオの話を聞いていた。

「僕は…この子を、知っている気がする。」

「…うん」

「ただ――名前が出てこない。けれど思い出さないといけない気がする。」

「……そっか」


ミュアは短く答えるだけだった。肯定しているのか、ただ聞き流しているのかはわからない。だが、その静けさが今は助かった。余計な言葉をかけられたら、張り詰めた何かが崩れてしまいそうだったからだ。


それが「忘れていた悲しみ」なのか、あるいは「別の何か」なのかは、自分でもわからなかった。


「その子は、思い出してほしいっておもってないかもしれないよ?」

ミュアが、ぽつりと呟いた。


「…そうであっても、帰るすべを見つけるなら、なおのこと…だろう?」

「…それもそうね」


ミュアはわずかに目を伏せると、ゆっくりと立ち上がった。「なら、急ごう」と言うかのようにクラウディオを見つめる。

だがその時、ミュアの視線がクラウディオの背後へと向けられた。かすかに、彼女の表情が変わる。まるで、予期せぬ再会を果たしたかのように。


「……誰か、いる」

ミュアの視線を追うように、クラウディオもゆっくりと振り返った。

遠くから、誰かが声を上げ、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。白い空気に溶けていたぼんやりとした影が、近づくにつれて輪郭を成していく。


背の高い男だった。画材の染みがついたベストを身につけ、無精髭を蓄えている。

手には使い古されたスケッチブックと炭、そして数本の絵の具をもっている。おーい!と息を切らせながら走ってきたその男は、次第にはっきりとした声で叫んだ。


クラウディオの前にたどり着くと、肩を揺らしながら豪快に笑った。

「よお! 探したぜ、相棒」

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